mixiユーザー(id:68785028)

2026年08月06日05:36

80 view

物語で「死」が描かれると、覚悟は重くなる

柳内たくみ・竿尾悟『ゲート 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり』コミックス版65話を読んで、あらためて思ったことがある。
物語に「死」が書き込まれているかどうかで、登場人物の「覚悟」や「決断」の重みは大きく変わる、ということだ。
以下、『ゲート 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり』コミックス版65話の内容に触れます。

この回では、帝国内にある日本国の外交使節の居留施設「翡翠宮」が舞台になる。
大使館のような治外法権の場であり、帝国の法の支配の外にある場所だ。
そこを、皇女ピニャの女性騎士団「薔薇騎士団」と、皇女直属の年配の男性騎士が守っている。

皇太子ゾルザルが戒厳令を敷き、講和派を捕縛する中で、シェリーという十二歳の少女とカーゼル侯は、日本人外交官スガワラを頼って翡翠宮へ亡命してくる。
その結果、皇太子直属の部隊オプリーチニキと、シェリーたちの引き渡しをめぐる戦闘が起こる。
スガワラはシェリーにこの惨状を見せまいとするが、彼女はこう言う。
「わたくしは見ます。私はこうなることを承知で参ったのです。だからわたくしは、わたくしのために死んでいって下さる方々から目を離すことはできません。どうぞ見させてください」

ここで示されるのは、十二歳の少女ですら、もう無垢な少女のままではいられないということだ。
自分の選択の結果として誰かが死ぬ、その現実から目をそらさない。
この場面には、物語の中でしか描けない種類の「覚悟」がある。

それに対して、別のある作品を読んでいると、どうにも山場の不在が気になってしまう。
能力設定はある。日常の楽しさもある。食事の場面も丁寧に描かれている。
けれど、その能力が決定的な局面で何かを左右することがなく、命のやりとりの切実さも薄い。
本来なら危険と隣り合わせで得られたはずのものまで、ただ気楽な日常の素材として処理されていく。
そうなると、登場人物の選択もまた、どこか軽く見えてしまう。
能力を与えられながら、その能力を賭ける選択を書かない物語では、人物の覚悟もまた描きようがない。

もちろん、物語に「死」を書き込むかどうかは作者の設計次第であり、すべての作品に苛烈さが必要だと言いたいわけではない。
ただ、「死」がある物語と、ほとんど排除された物語とでは、人物の「覚悟」や「決断」の深さがまるで違って見える。
その差はやはり大きい、と思う。

3 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する