私は高校の教員だったので、同僚はみな当然ながら大卒以上で、中には大学院を出た人もいたのだろう。
けれど、教員になって数年もたつと、そういう出身大学や学歴は、ほとんど意識されなくなる。
なぜかといえば、そんな形ばかりのことよりも、
教える内容の深さ、生徒との向き合い方、仕事に対する姿勢、そういうもので、その人が見えてくるからである。
この人は見習いたい、と思う教員もいれば、言い方は悪いが反面教師にしたい教員もいる。
そうなってくると、出身大学などはかなり些末なことになる。
それでも、年齢を重ねてもなお、自分の出身大学をことさらにひけらかす人はいる。
そういう人を見ると、少し意地の悪い言い方になるが、それ以外に自分を支える根拠を見いだしにくいのだろうか、と思ってしまう。
もっとも、教員の出身大学をわざわざ教えてくれるのは、案外こちらではなく生徒のほうだったりする。
「あの先生、○○大学卒らしいですよ」と。
別にこちらは頼んでもいないのだが、情報はいつの間にか流通している。
考えてみれば、それも無理はない。
高校生にとって大学は、まさに自分の未来の進路そのものだからである。
「先生はどこの大学の、何学部を出たんですか」と無邪気に聞かれることも何度もあった。
こちらも嘘をつくような話ではないから普通に答える。
それが回り回って、いつの間にか共有情報になる。
生徒から見れば、教師は未来の進路選択のひとつのモデルケースなのだろう。
それはよく分かる。
企業に入るとき、就職活動の段階では、大学のブランド名が意味を持つこともあるだろう。
だが、数年もたてば、それも実力や、人間関係をどう処理するかという知恵の前では、だんだん色あせていくのではないかと思う。
もちろん、時には学閥のようなもので群れたがる人たちもいる。
ただ、それも本来は実力や知恵の前では誤差の範囲内……と思いたい。
いい年をした大人が、
「俺は○○大学出身や。あんたは?」
などと言い出すのを見ると、これはマウントなのか、それとも不安の表れなのか、と考えてしまう。
ただ、そう簡単に笑い飛ばせない世界もあるのだろう。
医院や歯科医院の待合室で、「○○大学医学部卒業生寄贈」と印刷された鏡を見ると、学歴や学閥というものは、まだまだ現役なのかもしれないと思わされる。
大学名に意味がないとは言わない。
けれど、それがいつまでもその人の看板であり続けるのだとしたら、少し寂しい気もする。
本当にものを言うのは、その後に何をしてきたか、のほうではないだろうか。
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