mixiユーザー(id:282502)

2026年07月03日12:40

46 view

東芝日曜劇場「廃市」

 石井ふく子100歳を記念し、彼女がプロデュースした東芝日曜劇場の代表作を上映する企画で、福永武彦原作の『廃市』を見た。大林監督の映画の他に、こんなドラマ版があったことは知らなかった。

 なんと、テレビでの放映時そのままに東芝CMから始まる。まるで1960年代にタイムスリップしたかのような感覚。最新式の二層式洗濯機やフリーザー室付き冷蔵庫。どちらもまだ高嶺の花だったのだろう。分割払いもできますと宣伝していた。

 ドラマの冒頭では、ナレーションと共に柳川の掘割を舟で進む情景が映し出される。早朝なのか人影もまばらで、ぼんやりと靄がかかった幻想的な風景にナレーション(原作の冒頭部分)が重なる。物語の語り手である学生Aは冒頭と最後の「語り」の声のみで、映像には現れない。また、お祭や芝居の華やかな見せ場はいっさいなく、祭自体も遠くで花火の音がするという間接的な形で表現。その代わり、アップで撮られた俳優たちの濃密な会話によりストーリーが展開する。「こんなに会話が多かったっけ?」と思うほど、緊迫したやりとり。まさにTVドラマらしい脚本であり、演出だと思う。

 旧家のお屋敷の中での姉妹の激しい言い争い。長女の郁代(南田洋子)が家を出ていくと言い、妹の安子(大空真弓)が引き止めている。郁代は、夫の直之(仲谷昇)が安子を愛しているという噂が立っていることを理由に、ここに住み続けるのは耐えがたいというのだ。郁代は亡き母の縁者である叔母(三益藍子)の住む寺に移り住む。また、直之も出ていき、旧家のお屋敷には安子とその祖母(北林谷栄)と使用人だけが残っていた。そんなお屋敷の離れに東京から来た学生Aが一時的に住むことになったのだ。
 亡くなった母親の法事にも郁代は姿をあらわさない。法事の後の精進落としの宴席が賑やかになると、直之は席を立つ。その後を追う安子。そんな目立つことをしたらますます噂になるやんか!と気を揉んでしまうが、庭先の狭い空間でほとんど抱き合わんばかりの近い距離で話す二人。直之は元芸者の秀という女と暮らしている。それが安子には気に入らない。しかし、直之は「今さら学生のように下宿で一人暮らしをしろと言うのかい。そんなことをしたら、かえって何があったんだと勘ぐられてしまう。女といる方が目立たないんだ。旧家の若旦那が芸者を囲うなんていうことは、昔から誰もがやってきたことだからね」と言う。
 安子も、この町はもう終わりだ、死んでいるようなものだと言う。この町の人たちは、他に何も楽しみがないから葬式でさえも楽しみなのだと。お寺に籠もった郁代は、何をするでもなく、部屋の中で刺繍に精を出している。まもなく直之の会社は潰れてしまい、直之は秀を道連れに命を絶つ。変わり果てた直之を前にして、なおも言い争う姉妹の意地の張り合いは生々しい。秀を演じた渡辺美佐子が美しく魅力的で、直之との道連れとなって命を失ったのが哀れでならなかった。

 見終わってすぐの所感は、「廃市」ってこんな昼メロみたいな話だったっけ?という違和感。「廃市」を読んだのはずいぶん前だが、今回見たドロドロの愛憎劇みたいな印象はなく、もっと叙情的でミステリアスな話だった印象がある。
 ドラマでは、語り手Aの視点ではなく、郁代と安子、安子と直之、直之と秀の間で交わされる会話劇によって展開する。すべてを知る神の視点の脚本は、50分あまりのドラマを見る視聴者には「筋書きがわかりやすい」という利点はあるだろうが、何とも想像の余地がなく、身も蓋もない感じを与える。何か違うよなー。こんな小説じゃなかったはず・・・。

 というわけで、原作を再読することに。本棚を探したら、ハードカバーと文庫で2冊も持っていた。字の大きいハードカバーの方で読む。やっぱり違うんですよね。小説では、語り手Aは、10年前に訪れた掘割のある町のことを回想して、思い出として書いている。彼は英文学専攻の学生で、卒論を書くために叔父の知り合いの旧家でひと夏を過ごすことにした。着いたばかりのその家で何が起こっているのか、最初は何もわかっていない。誰かの泣き声や、言い争う声を聞いて不審に思うが、それが誰の声だったか、何を話していたのかは知ることができない。読者も最初は、なぜ、郁代が家にいないのか、なぜ直之が出ていったのかもわからず、そんな謎に惹かれて読み進む。最後の最後に、直之と秀の死という悲劇が起き、直之の葬儀の場での郁代と安子の激白、直之の遺書からことの真相を読み取る。結末での種明かし、それが、これまで読み進んできた読者にとってのカタルシスにもなっているはず。
 なのに、ドラマではしょっぱなから姉妹の口論や、直之の言い分とか、巷の噂とかを具体的な会話で見せらるため、想像をめぐらせる余地がなくて何とも興ざめだったのだ。
 ただ、このドラマで原作を超えたと思ったのは、秀の描き方だ。原作では、秀は芸者上がりの女で、身寄りもなく、直之と一緒にいられるだけでいいという主体性のあまりない女として描かれているが、渡辺美佐子演じる秀はなかなかのしっかり者であった。力なく「道行と言うには相手がいるな」という直之に、私が一緒に行ってあげますと申し出る。それも投げやりな感じではなく、最後まで面倒見ましょうという肝っ玉の据わった感じ。こんな秀ならば、役立たずの直之などいなくてもそれなりに生きていけそうな気がするが。
 後から、瀬戸内寂聴原作で渡辺美佐子主演の「みれん」というドラマも上映リストにあったことを知ったが、こちらは時間が合わずに見逃してしまった。「夏の終わり」と同時期の話で、渡辺美佐子ならちょっと見ておきたかったなあという気もしたが、まあ、仕方ない。

 福永武彦はドラマ版が気に入らず、遺言で全作品の映像化を禁じたと言われる。NHKでも61年にドラマ化しているそうなので、どちらのドラマが原因でそうなったのかは定かでないが、まあ、結論としてはどちらも気に入らなかったのではないか。
 福永の1979年の没後、権利は夫人に移り、大林監督は、夫人から映画化の許可を得ることができた。そしてできあがった映画を夫人はいたく気に入っていたという逸話は、大林監督の本にも書かれていたし、助監督を務めた内藤忠司さんも書いている。
 この福永の二番目の夫人については、余りいい話は聞いたことがないのだけれど、この映画化を許可した件はグッジョブだったのではないかと思う。
 大林監督の映画は、TVから録画したVHSビデオを持っているんだけど、もうビデオデッキがないので見られない。アマプラのレンタルで見られるらしいので、また見てみたい。
(2026年7月1日 シネ・ヌーヴォ)写真左は郁代役の南田洋子、右は安子役の大空真弓。
3 3

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2026年07月>
日 月 火 水 木 金 土
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 

最近の日記