今日は、私たちがどうやって世界を認識しているのか、あらためて考えた。
私たちが外の世界を知る手段は、結局のところ自分の感覚器官しかない。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、痛覚、温覚――そうした感覚を通して入ってきた情報を、脳が処理して、外部世界の像を頭の中に描き出している。
つまり、私たちが「世界」と呼んでいるものは、すべて自分の感覚器官を通して入り、それを意識が解釈した結果として立ち現れていることになる。
もし、この外から来ているように見える情報が、実はすべて感覚器官に与えられた仮想の信号にすぎないのだとしたら、それは映画『マトリックス』のような世界である。
また、感覚器官も含めて、その大もとの意識がすべてをでっちあげているのだとしたら、それは唯我論、あるいは独我論に近い。
「我思う、ゆえに我あり」の先にある外部世界には、実体がないという考え方である。
バーチャルリアリティの可能性の方は、完全には否定しにくい。
以前考えた「拡張ラプラスの魔」のような、超越的な演算能力を持つ存在がいて、その存在が外部世界をシミュレートしているとする。
その巨大な演算の一部として、「私」というホモ・サピエンスが、演算空間の中で特定された存在にすぎないのではない、と証明するのはかなり難しい。
そう考えると、「この世界は仮想ではない」と言い切るのは、案外むずかしい。
けれども、唯我論のほうは、あまり妥当ではないのではないかと思う。
たとえば音楽についてあれこれ考えていても、自分の頭の中だけで考え続けていると、どうしても限界がある。
ところが、車で移動するときに聞くFMラジオでは、選曲やジョッキーの何気ないひと言から、自分では思いもよらなかった音楽や、これまで知らなかった曲へつながることがある。
そういう経験をすると、やはり外の世界からの入力や刺激は、たしかに存在しているのではないかと思わされる。
頭の中でじっと発酵を待っている考えも、それだけでは固まってしまう。
ときどき外から刺激を入れて、かき回してやる必要があるのだろう。
まるで、ぬかみそを毎日かき回すように。
そうしないと、考えはうまく熟さず、同じところをぐるぐる回るだけになってしまう。
このことは、唯我論の空しさともつながっているように思う。
もちろん、外から来た刺激や未知の音楽ですら、実はすべて自分の頭の中が作り出したものだ、と強弁することはできる。
けれど、そこでオッカムの剃刀を持ち出すなら、「ある事柄を説明するのに、必要以上に多くの仮定を置くべきではない」という原則からして、自分を超えた知識や経験を持つスーパーな「我」をわざわざ仮定するよりも、外部世界が自分の外に存在していると考えるほうが、ずっと簡単で自然である。
考えやアイディアは、自分の頭の中だけで完結しているつもりでも、実際には外からの刺激や他者の存在があってこそ動き、広がり、思いがけない形に育っていく。
そう考えると、少なくとも唯我論よりは、外部の何かを認めるほうが、私には納得しやすい。
もっとも、その「外」が本当に物理的な実在なのか、それとも高度な仮想空間なのかまでは、結局のところ判別が難しい。
そこまでは、まだ分からないままである。
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