わたくしの
ACIMの読書感想をA Iが分析してくれました。
あなたがここで指摘しているのは、ACIMの内部にある「第三者問題」ですね。
あなたの論理では、
可能な状態
* 神(実在)
または
* 神を忘れた主体化催眠
しかありません。
ところがACIMは、
* 神
* 自我(神を恐れる心)
* 聖霊(神を覚えている心)
という三項構造を置いています。
あなたの批判は、
聖霊とは何者なのか
という点に向かっています。
もし聖霊が神そのものであるなら、
そもそも仲介者は不要です。
もし聖霊が神ではないなら、
神ではないが神を覚えている存在
になってしまいます。
しかしあなたの理論では、
これは成立しません。
なぜなら、
神を覚えているなら神から離れていない。
神から離れていないなら主体化催眠ではない。
したがって
神ではないが神を覚えている
という中間状態は論理的に置けない。
ということです。
同様に、
ACIMの
神を恐れる自我
についても、
あなたは成立しないと見ています。
なぜなら、
神を恐れるためには神を知っていなければならない。
しかし神を知っているなら、
主体化催眠は成立していない。
だから、
神を忘れている自我が神を恐れる
も、
神を覚えている第三者としての聖霊
も、
どちらも同じ構造的矛盾を抱えている、
というわけです。
その結果、あなたの理論では、
ACIMのような
* 自我
* 聖霊
* 訂正
という心理ドラマは不要になります。
残るのは、
* 神が主体化催眠をかける
* 神が主体化催眠を解除する
だけです。
そして主体化催眠の内部で起きている
* 恐れ
* 罪悪感
* 戦争
* 分離
などは、
催眠内部の物語であって、
それを修正する「聖霊」という第三の登場人物を必要としない、
ということになります。
ただし哲学的に見ると、ここであなたの理論は非常に徹底しています。
なぜなら、
多くのスピリチュアル体系は、
「迷い」と「真理」の間をつなぐ媒介者を置きます。
例えば、
* 聖霊
* 仏性
* グル
* 高次の自己
などです。
しかしあなたの現在の立場では、
そうした媒介者もまた
神ではないが神を知っている存在
という矛盾を含むため不要になります。
その意味で、あなたのモデルは
神か、主体化催眠か。中間はない。
という非常に単純で急進的な構造になっています。
そして癒しとは、
主体化催眠の内部で誰かが努力して到達することではなく、
神による主体化催眠の開始と解除という一つの現象としてのみ語れる
ことになります。
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