ナチュラルノンデュアリティについては以前にもかきましたが
たとえば
点をかくとします(活動、努力)
点ができます
点と
点以外という概念ができます
この段階の点以外というのは
点をかくまえの状態のものをさしていません
点は努力です
点以外は努力の対象(概念)です。
さて、
点のあとに
点以外という(点に依存した次の概念ができています)
これを
主観つまり視点のあと
の
点からみられるもの(客体)
です
点をマインドつまり自我
点以外は自我という信念のなかにある
概念つまり客体といえます
つぎに
癒しとはなにか
点(努力によって空想されたもの)
を
主体化し、
そこから次の点以外という客体をみる
のではなく
点以前の状態から
点や点以外をみるならどうなるでしょうか
点は
点以前からきたエネルギーですね。
点以外という概念もそうです。
(ここでいう点以外の概念
とは、点以前、のことではありません。
さきほどの話のつづきなのであしからずです。)
つまり
点以前つまりナチュラルノンデュアリティ、聖霊は
点や点以外という発想を
みずからとまったく異なるものではなく
また
同じでもない
すなわち点以前(無概念)からの変化エネルギーとしてみています。
空性(変化エネルギー)として
識別(ヴィヴェーカ)しており、癒して帰還させることもできるのです
これは観照という空想遊びであり
また帰還させる場合は癒しです
つまり
観照とは
自我催眠をつかわずに
神が空想遊びをする場合のときと、
癒して帰還させる場合の
二つの場合がありますが
スピ話で、観照という場合、一般的には
帰還させる癒しをさしている場合が多いようです(余談^_^)
しかし二ついずれの場合も
努力という点を主体化現実と信じたあとの
自我からの多様性の観察
とはちがうといえます
自我は
すべてはもともとらひとつ
点以前をおもいだせないからです
自我は
点か点以外か
であり、
みずからの概念のなかで、堂々めぐりをするしかないのです。
これを
マインドの袋小路といいます。
これを癒すのが
無努力、無条件である神の恩寵(聖霊)なのです
補足
ゲイリーレナードさんの
神の使者の本で
分離(点の主体化催眠)
のあとの
最初の分裂
つまり
点と点以外(つまり自我の信念のなかでおきる相対的意識の発生)について
きちんとわかれば
つまりヴィヴェーカ(識別)できれば
そのあとにおきていく
すべての分裂をいやせる
(第四分裂つまり宇宙を投影し、肉体が主体化される信念への分裂)
とかかれているのはこのためなのです
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