素人の仏教読書の感想から
仏教をよんでると、いろいろな感想がわきました
仏教では
涅槃寂静(こちらが実在らしい)
と
空性の世界(縁起)
が説かれています
縁起のはじめは無明とされています。
では無明はどのように消えるのかというと
煩悩がなくなることによるとされます
どのようになくなるのかというと
四聖諦
がなくなれば
それはなくなるとあります
しかし
これは矛盾だと感じました
なぜなら
現象にたいする無智が
煩悩が生ずる原因
だとするなら
現象は
煩悩よりまえにあることになるからであります
これは矛盾していて堂々めぐりでしょう
煩悩をなくすためには
現象の性質にたいする無智がゆえであるなら
現象がさきにあることになります
現象がさきにあるなら
縁起は煩悩よりさきに
現象があることになります
それゆえに
ノンデュアリティでいう
実在についての忘却こそが
無智である
ということが矛盾をおわらせる癒しなのです
ただ在る 無条件 無努力
を否定する自我
それが
有漏でありつまり煩悩からできたものであります
したがって自我の修行は非実在です
執着する者、執着する方法(メソッド)、モノや悟りという概念
アートマンは実在するだの、無我(あるいは悟りという観念)が実在するだの
は
すべて思惟分別(主客)が原因なのです
そもそも
有漏、煩悩
自我
主客
取著
の有漏とはなんなのか
実在に
完全に欲がなければ
有漏はおきないはずです
涅槃寂静だけが実在ならばです
これは一元のヴェーダーンタの説と似ています
しかし
それでは
現象(仮のエネルギー)の発生は説明できません
実在(在る)にまったくワクワク(仮にこうよびます)が存在しなかかったとしたら
現象の発生の説明ができないのです
それゆえサーンキア哲学もインドではあらわれました(実在二元論)
しかし
実在と実在がはなれているわけはなく
はなれているなら、異なるとなり
どちらかは実在ではなくなります
しかし
まったく同じというわけでもありません
したがって実在とは
妙なもので
在る(寂静)でいることもでき、
ワクワクにより有漏で
煩悩をだし自我も作ることができる
そういう妙なる存在、それが神だといえます
この意味でノンデュアリティとは
純粋一元ではなく
純粋二元なのです(新ワードですね あるいは万能元といってもいいです)
整理すると
実在は(寂静つまりただ在る、そしてワクワク)
漏により
煩悩があらわれ
自我に発展します(ただ在るそしてワクワク
という源にたいして、忘却つまり無智なる解離自律性の催眠をもたせる)
シナリオ(もしあれば)
や
宇宙は
大自我がつくったのか
あるいは
大自我はなく
シナリオや宇宙は源がつくり
シナリオのなかの肉体精神機構(もしくは魂も?)に
催眠として自我をつくったのか
などいろいろな説を考えることができるでしょう
ここで悟りとは
心(自我)も客体領域も止滅することですので
ワクワクからの漏、煩悩、
諸行(あらゆる現象、宇宙)が止滅することですので
(止滅といっても、実在に帰還するという意味で、無のエネルギーになるわけではありません)
したがって
実在である永遠の今である無条件、無努力という主客以前の恩寵によって
心もなく、客体領域が止滅するときには
語ることも、語られるものも止滅します
仮説以上
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