かなり前から、死刑制度について考えている。世界の多くの国が、量刑としての「死刑」を制度的に廃止しているか、実質的に廃止している中、日本などは、制度として、その執行としても「死刑」が残っている。この是非はどう考えるかについて。
私の本性は、たぶん「問い」をやめることは生きるのをやめることに近い、という種類の「理学脳」なのだと思う。
何でも知りたがる。だから問いを立てる。
ただ、その謎が解ければそれでかなり満足してしまい、その知をどう応用するかには、案外あまり執着がない。
そういう意味では、私はかなり理屈っぽい人間なのだろう。
学生時代には大月書店版の『資本論』を読んでいたくらいで、当時はかなり左がかった理系学生でもあった。
けれど、その後の歴史を見ているうちに、共産党政権というものは、かなり高い確率でディストピアを現出する構造を持っているのではないか、と思うようになった。
アフガン侵攻、クメール・ルージュ、ベトナムとカンボジアの戦争、ベトナムと中国の戦争、そして北朝鮮政権の醜悪さ。
理論の美しさとは別に、現実の共産主義国家は、どうしてこうも人間を不幸にする方向へ転がるのか。
今の私には、その大元の理由はかなりはっきりしている気がする。
マルクスの社会設計は、「理性」を優先しすぎたのだ。
もっと露骨に言えば、人間の泥臭い感情――自己と自己の身内を優先するという、ごく生物的な現実――を軽視した。
人間は理念だけで動く存在ではない。
自分、自分の家族、自分の仲間、自分の属する集団をまず守ろうとする。
そういう「身びいき」は、道徳的に美しいかどうかは別として、かなり根深い人間の本性だと思う。
それを無視して社会を設計すれば、理念と運用のあいだに巨大なズレが生まれる。
そして権力を握った党は、人民の利益の代弁者である前に、自分たち自身の利益と存続を守る装置になっていく。
共産主義国家の失敗は、かなりの部分、この必然だったのではないか。
以前、AIとのやりとりの中で、私の考え方を
「感情を、生物が長い進化史で獲得したESS(進化的安定戦略)由来の深層戦略と見ており、理性はその上に後付けされた制御層に過ぎないのでは、と考えている」
と要約されたことがある。
これは、かなり正鵠を射ている気がする。
私は、理性を軽んじているわけではない。
むしろ理性は大事だと思っている。
ただ、理性だけが人間の本質だとは思えない。
理性は、もっと古くて、もっと暗くて、もっと生物的な感情の層の上に、あとから積み上がった薄い制御層に過ぎないのではないか。
恐怖、怒り、身びいき、報復感情。
そういうものは、理屈で簡単に消えるようなものではない。
だから私は、死刑制度廃止論にも安易には賛成できない。
死刑廃止国の議論には、「国家に人を殺させるべきではない」という理性的な筋があるのは分かる。
けれどその一方で、犯罪被害者遺族が抱く応報感情を、理性でコントロールできると、どこかで見込んでいるようにも見える。
しかし、その見込みは甘いのではないか。
応報感情は、単なる未熟さや野蛮さではなく、人間のかなり深い層から湧いてくるものではないか。
もしそうなら、それを「理性的に乗り越えるべきもの」として処理しようとする制度は、どこかでその見込み違いを爆発させる構造を抱えているのではないか、と私は思う。
要するに、私は理性を否定したいのではない。
ただ、理性がすべてを解決できるという考えには、どうしても与しがたい。
人間は、もっと泥臭く、もっと生物的で、もっと割り切れない存在なのだと思う。
そして、その割り切れなさを無視して組み立てられた理念や制度は、たいてい現実の前で歪む。
共産主義国家の失敗も、死刑廃止論への私の違和感も、たぶんその一点でつながっている。
死刑制度の是非そのものより、“人間をどこまで理性的存在と見なすか”が根にある問題なのではないか、と最近感じている。
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