私はこれまで、自分なりの「善悪論」をまとめて、善と悪の問題には一応の決着をつけたつもりでいた。
ごく短く言えば、ある行為はそれを見た者によって評価され、その連続的な評価が、ある閾値を境に「善」「悪」として認識される、という考え方である。
ところが最近、この枠組みだけでは扱いにくい類型があるのではないかと思い始めた。
人を大ざっぱに分けると、
A:誠実な者
B:誠実を装う偽善者
C:誠実さそのものを演技として使う擬態者
という三類型があるように思う。
AとBはまだ分かりやすい。
問題はCである。偽善者Bはまだ「善く見られたい」という価値観に従っている。しかし擬態者Cは、その価値観そのものを道具として扱う。
この類型は、観測されることを前提に善悪を論じる私の考え方の裏をかいてくる。
つまり、他人の評価基準を読み、その場に応じて「善い人」を演じ、見られていないところでは平然と仮面を外す者である。
その具体例として思い浮かぶのが、トマス・ハリス『羊たちの沈黙』『ハンニバル』のハンニバル・レクターである。
彼は高知能な擬態者であり、他者の評価基準を読み、さらには発覚の条件そのものを操作・回避する。
レクターの本性を見抜いた者は、しばしば第三者にそれを伝える前に消されてしまう。
最も危険な悪は、見えないのではなく、「見える形を操作する」悪なのではないか。
彼のような擬態者も、善悪論の俎上に載せたい。
これは善悪そのものの問題であると同時に、善悪がどこまで観測可能かという問題でもある。
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