仏教読書していて、湧いたスピリチュアル感想
魔、釣り師、ジャッカルのたとえ
は
スピリチュアルにおける
形而上の架空の大自我の世界観に似ていると感じました
つまりそれらは無明のことです
ジャッカル(スピリチュアルでは主体化催眠に陥った大自我)は亀(小自我)
が
手足や首をだせば
エサとして食べてしまおうとおもっています
(投影に利用しようとおもっています)
それは
いわば貪欲により
六処(眼や意根という内処が、外処について、外相や細相をとらえてしまい)
を防護、調御していなければ
大自我の不自然な心の状態(好奇心であり苦しみ)
を
投影し味わうことが可能になる
ということです
しかし
亀が手足や首を出すスキをみせなければ
ジャッカルもあきらめて去るしかありません
止観道果により
つまり対象について、落ち着いて、無常であると観じて、執着なき八聖道によりいやし、涅槃という果報に回帰する
このように無常の随観は、智を行かせることであるが
それは執着のない意
であり
救済の自性に住む
といわれていることなのである
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