一見すると身体は連続している。
だが、「意識と記憶」だけが時間を飛ぶ。幼少期Aを経験した次に、老年期Cへ飛び、さらに次は青年期Bへ移る。
そんなタイプのタイムトラベルがある。自己同一性、つまりアイデンティティを考えさせる設定でもある。
このタイプの作品で、私が最初に読んだのは 「ここがウィネトカなら君はジュディ」 だった。作者は F・M・バズビイ。
次に読んだのが、日本作家の 高畑京一郎『タイム・リープ あしたはきのう』 である。
後者はミステリ仕立てで、SFとしての味はやや薄い。だが、前者は強い印象を残す作品だった。
バズビイの作品では、このタイムリーパーが男女二人いる。
しかも、異なるタイミングで意識だけのタイムリープをする。
最初は、自分だけがこんなヘンテコな人生を歩んでいるのだと思っている。ところが、一時期の恋人同士だった相手もまた、同じような奇妙な人生を生きるタイムリーパーだと知る。そこで二人は、次に飛んだ先でその事実を伝え合おうとする……。
身体ごと移動するわけではない。だから外から見れば目立たない。
しかし、これでも立派にタイムパラドックスを起こしうる。
同時に、「意識」や「記憶」とは何かを考えるきっかけにもなった。
脳のニューロンのつながり方や、その発火の閾値の総体として意識や記憶を考えるなら、この部分だけが時間を越えて移動するというのも、実はとんでもない事件である。
肉体ごとのタイムトラベルに比べて地味に見えても、決して小さな出来事ではない。
たしか、ケン・グリムウッド『リプレイ』 も、この系統の長編だったはずだ。
ただ、短編 「ここがウィネトカなら君はジュディ」 の鮮やかな切れ味には、やはり及ばないように思う。
人生を時間順に生きるとは、案外ぜいたくなことなのかもしれない。
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