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2026年02月16日08:07

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ブッダや奇跡講座ACIMの問題点

主体化解離催眠の存在(アイアム)
が設定するシナリオ(最後のカリキュラムという罠)
について、ご説明いたします。

まず奇跡講座について。

主体化催眠と解離催眠は
ほんらいまったく分けることはできず
(わけたとしても作り話です)
つまり

空想された個
への
主体化催眠は
すなわち解離催眠である
と説明いたします

そして
解離催眠は
ただ在るだけでいい、ということを忘れている主体という無明であると説明いたします

主体は、好奇心であり苦しみです
すなわち不自然な夢の行為者です

彼は、自分の性質を投影したシナリオを計画します
そして心身や世界を投影するのです
そして分裂した魂がそれを経験します

そのシナリオのなかには
創造主(主体化催眠存在)を敬い、恐れる
シナリオ、
そして
素敵な欲(慈善欲)や、醜い欲(利己欲)のシナリオによって成り立つ
活動の苦しみのシナリオなのです

そのなかには
仏陀や阿羅漢、奇跡講座
というシナリオも作られてこの世界で
伝えられています
それらは夢の輪から抜けたい
さいごらへんのシナリオ(カリキュラム)です
しかし
それらは以前として
努力妄想(主体化マインド)を前提としているため
夢を作り出している主体化マインド(大自我 アイアム)自体
を
終焉させることはできない学びなのです
(つまり完全覚醒できるわけではありません)

仏教の瞑想は意図的なものですし
それは
アイアムという主体化マインドの領域にあります
また、戒律や破戒や、天国地獄は
無明である大自我という投影者が語る、二元性のシナリオ世界なのです。二元性からの解脱は
一元性(天上天下唯我独尊)という無明から始まった幻想です。

奇跡講座もまた、
主体化(でありすでに解離催眠)マインドに陥った存在を前提としたメソッドです
そして
対象となる聖霊や父は
救い主であるとともに怖れる架空存在です
それは
主体解離催眠の存在の性質を客体としてあらわした
幻なのです
それは
もう一方の選択(自我)と異なる主張していますが
じつは
同じ主体化催眠を鏡にうつした
同じひとつの自我の性質なのです
だから実際には
それらの選択は
同じ客体であり
善と悪と
二つにみせかけているにすぎません
言い換えると
努力という条件つきの無罪か罪か
という二元性として
同じものを二つにみせかけているだけです
その正体は不自然な活動である
好奇であり苦しみという
主体化催眠の同じすがた
なのです

そして
真の基盤である神(真のナチュラルスピリット)について
奇跡講座を学んでいて誤解しやすいのは
解離催眠のあとに
マインドは
ナチュラルスピリットの神に恐れを感じていると錯覚しやすいということです
これは
とんでもない不条理な勘違いなので
ナチュラルスピリットからの恩寵の力により
誤解を説く必要があります

主体化解離催眠された神の子は
催眠前のことを忘れています

つまり
しらないナチュラルスピリットにたいして
私は神から分離して罪悪感を抱いているのです
と語ることはありえません
忘れているのですから

そして
催眠前の存在つまりナチュラルスピリットのほうは
空想された個にたいして
主体解離催眠をかけた側なので
もちろんこちらも恐れはありません


つまり
どちらも
罪悪感や恐怖
はありえないのです
(あるとすれば
主体化解離催眠の存在であるがゆえの
無条件、無努力にただ在ればいいことを忘れた、
不自然な状態すなわち好奇心であり苦しみの状態なのです)

以上のような罪悪感や恐れという奇跡講座の学習における誤った説明が
スピリチュアリストの間で伝えられています

すなわち
私はナチュラルスピリットから分離催眠してしまってナチュラルスピリットを恐れています
??

という混乱した不条理な
誤解した説明が

スピリチュアリストによって広まっていたりします

それは
ありえないのです
^_^笑

以上

主体化解離催眠マインド(アイアム)が作成した
シナリオ(さいごのカリキュラム)
ブッダや奇跡講座ACIMというシナリオ
の問題点について
シェアさせてもらいました。

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