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2022年02月09日04:40

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【「分かり合う」or「いがみ合う」】


ネット上では自分の考えを理解しない相手を「バカだ」「非論理的だ」と下に見る方を散見する。
私の観点で言えば「その態度自体が非論理的」と感じる。
同じ日本人どうしてあれば最低限義務教育は修了しているわけであり、
相手には相手の論理性がある=少なくとも一定の論理理解力は有すると見るほうが自然だろう。
つまり感情的になって相手を罵倒したり冷めた目線で相手をバカにしてる時点でもはや「論理的態度とは程遠い」のだ。
「自説を理解してくれない」⇒「嫌い」⇒「バカにする」というところか?
まず、生まれも育ちも立場も価値観も異なる人間の考えが同じでないのは「当然」なのだが、それを理解してないのだろう。

私にとっては論理のやり取りは「相互理解を進め、可能であれば論理的正解に至りわかりあうための手段」という前提がある。
おそらく相手を罵倒する方々の目的は「分かり合う事」ではなく「いがみあう」ことではないか。
鼻息荒く「絶対に正しい自説で相手を論破して叩き潰す!」という方とは最初から話し合いが成立しないのだ。
相手の話を最初から聞く気もないし、絶対に正しい自分が意見を曲げることなどないという「信仰心」をもってるわけだから。
だからこそ相手への敬意を欠いた言動をするのだろう。
そもそも議論が成立しない(「議論するつもりがない」「能力がない」のどっちでもこの際どうでもいい。
仮に「発言内容が論理的に正しく、価値がある」のだとしても、それ以前の問題で「不快感が勝つ」ので私は相手をしようと思わない。完全に無視するだけだ。
意見の違いは問題ではない。私は文明人どうして建設的で論理的な議論をしたいだけだ。それ以外は時間の無駄だ。
その意味では私は相手を非文明人と決めつけているのかもしれないが、わざわざ相手が非文明人であるという立証をする手間をかけるつもりもない。
相手がどう思うのかは相手の自由だし、私がどう思うかは私の自由だ。

オラオラ営業マンの不出来】
そもそも自説に自信があるのなら相手を罵倒する必要なんてない(笑)。
淡々と自説を論理的に述べて、理解しない相手には「残念です」とでも言っておけばよい。
むしろ自説への自信のなさが浮き彫りにならないように感情的になってわめきたてる必要があるのかしらん?と邪推してしまう。

「いや俺は絶対に正しいから間違ってるやつを叩き潰すし、上から目線でガンガンいくよ」という人間がいるとして。
仮に述べてるのが正論だとしても、少なくとも私は「彼『以外』に説得されたい」と思ってしまう。
「いい商品だけどあのオラオラ営業マンからだけは買わない」というところか。
まあこれは私の感情的な未熟さによる「好き嫌い」として認めざるを得ない(笑)。
完全に論理性が高ければ、好き嫌いに関係なく、即座に自分の間違いを認めるべきだろう。
ただ、私と同程度に感情的になる人間こそ世の多数であろうから、やはりオラオラ営業マンは
営業マンとしては不出来だと言わざるをえまい。売ってる商品(=発言内容)がどれだけ正しく優秀だとしても、
むしろ売ってる商品が正しく優秀であればあるほど、そのダメさ加減が引き立ってしまう。

なお、ある事象について論理的に考えた結果で得られる結論が真逆であることは
別におかしなことではない。
ある国に靴の市場調査に行った人間が2名、全く同じ環境を見てまったく逆の結論を出した。
A「この地域では皆靴を履く習慣がない。だから靴は売れない」
B「この地域では皆靴を持ってない。だから靴は売れる」
この2つの真逆の結論は共に「論理的には間違いではない」のだ。
「俺が正しいのだからお前は間違いだ」とは必ずしも言い切れない事例もあるということだ。

【悪魔の証明の先、大悪魔の証明】
なお「捏造だというならそれを立証しろ」というのは元CIA(内部監査人)の立場として
生真面目に答えるなら「では相応の調査権限をもらおうか、でなければ無理な相談だ(真顔)」となる。
陰謀論の証拠の捏造はその説を強く主張したい側で作成される。
その組織に入り込まなければ陰謀論や捏造の証拠をつかむことは極めて困難だ。

製造物責任法(以下PL法)がなぜ「個人による瑕疵の立証責任」から「組織による瑕疵のない立証責任」になったのかを考えればわかりやすい。

本来は「瑕疵がないことの立証」は「ないことの証明」いわゆる「悪魔の証明」であり、
不可能に近しいことである。「瑕疵があった」と主張する個人が立証責任を負うのが従来であった。

ただ上記の通り、「捏造の証明」は極めて難しい。
だから互いに相手の説の捏造を証明することなく自分が「信じる」資料を引っ張ってきてぶつけ合うことになる。
この勝負は「相手の話を聞いたほうが負けです」となってるので相手の説や資料などまともに目も通さない(ことが多い)。
これでは「建設的な議論」など望むべくもない。
とはいえいちいちすべての資料を吟味してられるほど現代人は暇じゃない。
「エビデンス」「論文」といったところでそれを作成した人物がいるわけだから、
どこかしら「信仰」の要素は入らざるを得ない。
それが嫌ならば衆人環視一般公開の上でコロナウイルスやコロナワクチンの実物をもって自らが実験をするしかない。
そしてそれは非現実的なことだし、仮に行ったところですべてが立証できるものでもないので手間の割に得るものが少ない。
やはり、どこかで「えいやー」と見切り、自分が信じられる人物を信じて決断するしかないのだろう。
論理的の行きつく先はごく一部の実験者を除いて「信仰に似たもの」になってしまうというオチでございました(笑)。
長文失礼しました。

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