mixiユーザー(id:282502)

2021年08月05日12:03

165 view

『玆山魚譜』日本語訳本の所在が判明

 鄭文基氏についての情報は韓国の検索サイトNaverで探しているが、「鄭文基」ではヒット数が多すぎる。鄭文基は「流水」という号をつかっていたので、「流水鄭文基」で調べてみると、まさにその名前で「水産学者 流水鄭文基博士記念館(@yoosoochongmoonki)」というFaceBookページが作られており、そこに釜山の国立海洋博物館所蔵の「玆山魚譜 日本語訳」の写真が載っていた。
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=944665072332833&id=936038849862122

そこには李文雄氏のFaceBookの2017年1月25日の記事へのリンクがあった。
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=1857236297857269&id=100007127500703

それをPapagoで訳してみると、こういうことが書いてあった。
l2017年1月25日

 Facebookの威力は実にすごいようだ。私は、水産学者の鄭文基(1898〜1995)博士が丁若銓(1758〜1816)先生の『玆山魚譜』を発掘して世に知られるようになった書誌的背景を追跡する一連の作業を行ったことがあり、これをFacebookと私の「映像アーカイブ」で紹介した。
このような縁で、鄭文基先生の遺族が「水産学者、流水鄭文基博士記念館」がFacebookに構築されていることを知らせてくれ、さらにいくつかの興味深い情報を伝えてきた。
その中でも特に注目すべきことは、1943年5月に渋沢敬三の提案で韓国の水産関連古典を日本に知ってもらおうという作業で、鄭文基先生が手がけた『玆山魚譜』を日本語に訳した草稿である。

 私がすでに明らかにしておいたが、鄭文基先生は、当時、さまざまな異本で存在していた「玆山魚譜」の筆写本と照らし合わせながら、今広く知られた「玆山魚譜」の原文を新たに編集して(この時、韓国では通用するが、日本では使われていない漢語は、日本人でも読める漢語に変えて【=EMY注:これはあくまでも李教授の推測である】)、ここに日本語の序文をつけて渋沢に送ったが、第二次世界大戦終戦後の混乱期のため、結局、日本での出版が霧散してしまった。その後、鄭文基先生が終戦6年後に米国を訪問し、帰りに東京で渋沢を自宅に訪れた際、「『玆山魚譜』をすでに日本語に翻訳する作業も終えた」と言ったが、現在、もともと鄭文基先生が送った『玆山魚譜』テキストと日本語の序文が所蔵されている横浜所在の中央水産研究所の収蔵庫には、この日本語に翻訳された原稿はなかった。私はその後、「日訳原稿」が古書籍商を通じて現在釜山・影島にある国立海洋博物館に所蔵されていることを突き止め、その写真の一部をFacebookにより公開した。

だが、今回、鄭文基先生の遺族が送ってくれた写真は、海洋博物館に所蔵されている原稿の草稿本のようだ。ここに紹介する一方の原稿だけでも、鄭文基先生がどれほど精魂を込め、情熱的にこの作業をこなしたかを窺うことができる。理解を助けるため、きれいに整理された海洋博物館の原稿と遺族が保管している草稿を一緒に提示する。この写真を送ってくださった方によると、鄭文基先生は生前、先生の며느리(嫁=息子の妻の意味と思われる)である모친(母親=その写真を下さった方の母親と思われる)にこの原稿を大切に保管するようにと伝えられたという(この写真を送ってくれた人は、孫にあたるか?)。
この貴重な情報を送ってくださった遺族に深く感謝したい。
参考:[水産学者流水チョン・ムンギ博士記念館]


 これによると、やはり、パクデホン氏が買い集めた鄭文基氏の一連の蔵書や資料の中に、この日本語訳本が含まれており、それが、国立海洋博物館に所蔵されることになったようだ。
 一方、この記事の書かれた2017年の時点でも、李文雄氏は「横浜の中央水産研究所に送られたものは、日本語訳本ではなかった」と2014年の探索結果と同じことを繰り返されており、成川彩氏が私に伝えた「日訳本は二部作られ、一部は横浜に、一部は釜山に」という内容とは食い違う。ただ、2017年以後に、李氏によって「横浜にあることが確かめられた」のだとすると、それは大発見と言うことには違いない。

 しかし、私は、今回、2017年から現在までの李文雄氏のFaceBook記事を通覧したが、横浜で新発見をしたということが書かれた記事はなかった。
 最近では、映画化された「玆山魚譜」について、人類学的な観点からコメントしたり、成川彩さんのインタビューを受けて、その記事がデジタル版朝日新聞Globe+に掲載されたということにも触れられている。
 近年は、日本の自然農法に関心を持ち、各地の自然農法の農家のフィールドワークのために頻繁に来日されており、その記事も多い。けれども、鄭文基が渋沢に送った『玆山魚譜』については、「日本人にわかりやすい漢字に書き換えた」という解釈で一件落着したと考えているのか、横浜の中央水産研究所に探索に出かけたという話はなかった。

 ともかく、これで、『玆山魚譜』の鄭文基による日本語の訳本(製本したもの)は、釜山にあり、その草稿は、ご遺族が保管されているということは、明らかになった。
 しかし、草稿の方はご遺族が残していたというのに、完成した日訳や、校訂に用いた原文写本は古書市場に流れていたというのは、今もって理解しがたい。
 また、鄭文基が1951年に日本に来たのは、アメリカ訪問の帰りに立ち寄ったとあったのも新しい情報だった。
 それにしても、FaceBookの威力は確かにすごいですね。私はやっていないので思いつきもしなかったけど、FaceBookで検索していたら、もっと早くにこれに到達していたかも知れない。

 写真は、左から、国立海洋博物館所蔵の『玆山魚譜 日訳本』表紙、その原稿1ページ目、遺族の所蔵する草稿の1ページ目。


1 3

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2021年08月>
日 月 火 水 木 金 土
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    

最近の日記