■頭髪強調のポスター「不快だ」 大阪司法書士会が回収へ
(朝日新聞デジタル - 05月14日 18:02)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=6517740
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・本人が平気というから良いということの是非
いちいち身体的特徴をすべて禁じていては表現は大幅な規制を受けることになる。禁じられる表現の範囲をだれがどのように定義するのか?その定義は大多数の賛同を得られるのか?
現実性が低いと言わざるを得ない。
規制ルールは「平等」の概念だ。規制ルールは誰かの自由を制限することで成り立つ。ゆえに規制は「必要最小限とするべきもの」である。理解するために極論化してみよう。とんでもない「規制だらけの世の中」を想像されたい。厳しい校則のような服装や髪形制限が社会全体に適用されるとか・・・規制でがんじがらめな世の中はとても不自由なのだ。
もう一例。日本における入れ墨賛同者は少数派(弱者)であり、反対派が多数派(強者)としてみよう。(世界的には弱者と強者の立場が入れ替わるかもしれないが、立場が入れ替わったとしても矛盾しない主張をいかに記す)。
私は入れ墨は大嫌いだし、自身が入れ墨をしようとは決して思わないが「入れ墨を入れる自由」はもう少し認められてよいとも思う。ただし、すでに入れ墨禁止ルールがある状況で、社会的に入れ墨を嫌っている人が多い日本で、あえて入れ墨を入れる人は、それに基づく不利な扱いを受容するのが当然のことだ。不利を受容する覚悟もなく入れ墨をするのは覚悟が甘いといわざるをえない・・・というところか)。
あ、本記事の結論としては「本人が許諾している者については是(規制ルールなし)とするべき」だと思う。
こういった「ハゲとかデブとかの一般的にマイナスとされそうな身体的特徴」が話題になることで同じ身体的特徴の人が傷つくこともあり得るが、基本的に無数にある表現者の表現を制約するよりも弱者の心根を強くするほうが現実的で手っ取り早いのだ。
悪いのは悪意を持って表現する側だが、そいつの身を索敵し糾弾する手段が極めて難しい。被害者側が努力をせねばならないのは一見理不尽だが、強くあるしかないし、強くなるほうが手っ取り早い。
性犯罪者が悪いのは100%断言するが、対策を立ててあやしいばしょにちかづかないとか女性占領車両を利用するとかで自衛をしたほうが被害は減らせるのだ。「加害者が悪いのだから被害者である私がなにかしないといけないのはおかしい!」というのは理論としては正しいが、実行する(対策を立てない)と被害にあいやすくなるという現実があるので手段としては正しくないのだ。
今まで幾度か書いてきたことなので簡潔にまとめる。
自由平等博愛の順序。各自の自由が基本だが、各自の自由が互いを侵害しないように平等の概念で調整する。博愛は自由と平等で救えない弱者救済の概念であり、社会的資源が有限な中で行われる「理想を目指す努力目標」に過ぎない。絶対的な目標ではないことは社会資源の乏しい原始時代の弱者救済を想起すればわかりやすい。社会に余裕がなかった時代の弱者はほぼ救済されなかったわけだ。
ゆえに弱者が強気な主張をするのは弱者自身にとっても、社会全体にとってもいただけない。強者の側からすれば自分のリソースへの侵害を感じ(例:男女トイレや更衣室よりもLGBTの方の更衣室やユニバーサルトイレの面積を広げると男女トイレや更衣室が手狭になる)、おもしろくないので反発されやすい。「弱者の権利は当然」と強気で主張するのは自身が社会的弱者であることをよく理解していない証左であろう。弱者は強者を論破するのではなく賛同をこそえなければならない。弱者の強気の主張は同じ意見の方々の勝算は得られようが、本来説得しなければならない強者(多数派)の反発を呼ぶ。そりゃ、ごく一部の強者の「憐れみ」「お情け」くらいは得られるかもしれないがデメリットが大きすぎる。弱者こそ戦略を誤ってはならない(だから電動車いすの伊是名氏はやりかたがおかしいのだ)。
なお、一般的な強者弱者というのと別に、同一人物でも「ある話題では強者だが別の話題では弱者」というのが一般的なので「弱者救済」というのは社会全体にかかわる問題だ。「ボクシングは得意だが算数は苦手(バイソン)」とか「会社では社長だが釣りでは弟子になる(釣りバカ日誌)」とか。
「弱者救済という理想」と「弱者不利という現実」。両方を見ずして解決はあるまい。
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