mixiユーザー(id:7016667)

2016年08月13日10:47

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「力なき正義は無力なり、正義なき力は暴力なり」の勝手解釈

ブレーズ・パスカルの著書である『パンセ』の中に書かれている言葉だそうです。(言葉自体は知っていたけど、誰の言葉で何に書いてあるかはさっき調べた「にわか」です)

「それでも地球は回っている」(地動説ガリレオ的)
「自らが暴力を振るうくらいなら、相手に蹂躙されて滅びてもよい」(憲法9条的)
「正論を捨てるくらいなら、私はあえて孤高を保つ」
「自分は正論を言っているのだから間違っていない。間違っておるのは周りのほうだ。周りが愚かなのだ」

という考え。

自分が信じる正しさと周囲の信じる正しさがぶつかった時に人は試されるわけで。「負けても正義を貫く!」というのは非常にかっこよく見えます。人気があるのはそっちなのでしょう。

ただ私としては「相手に理解させるまでの説明が自分の範疇、それをどう理解するのかは相手の範疇」だと考えていて。要は相手が理論的だとしたら、理解させられないのでは自分の責任だろうと思うわけです。

「正論(全体利益にかなっている)というのが本当なら、なぜ浸透させられないのか?」と思うわけです。「あきらめる前に証明しようよ」と思うわけです。

「相手が理論的でない!」というのなら、「どの部分が理論的でないのかを第三者に証明できねばならんな」と思う次第です。(私は理論的でない人相手の説得は「『動物』だから仕方ない」としてあきらめますが、相手がなぜ『動物』なのかが明確になるまでは、相手を人間として扱い、理を尽くした説明をするようにしています)
単に「自分の意見を理解してくれない」というだけで相手を愚かだと断じるのは、断じる人間のほうが愚かである確率が高いもので。

周囲の理解を得る、これは「多数派工作」であり、正義や正論を貫くためには必要な手段です。得手不得手はあるだろうし、好き嫌いもあるでしょうが、必要な手段である限り割り切るしかない。私自身ワンマン社長やワンマンアーミーではないので、自分自身の正義を貫きたいのならその手段まで考察する必要があるんじゃなかろうかと。そしてあなたが唱えているのが本当に正論(全体利益にかなっている)ならば、実はさほど難しい話ではないはずです。

ま、私のこの考えも「理想」であり「理屈」に過ぎないので、当然限度はあるんですけども。

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