相手に恵まれて、実に楽しい議論ができた。大変満足している。自分と異なる視点や価値観からの良く練り込まれた思考に触れるというのは自分を成長させる最大効率の方法だ。
それが書籍によるものなのか、目の前の相手から得るものなのか。へんな感情やプライドがないのなら、目の前の相手に語ってもらうほうがよりダイレクトに異なる思考や価値観に触れることができるんじゃねぇかなと。
改めて思う。「音楽の方向性の違いはグループ解散の決定的要因ではない。その違いを許容できなくなったことが決定的要因だ」と。意見が違っても楽しい議論ができる人というのは異論への許容範囲が広い=論理性が高い。とイコールで結びつけて良いなと。
自分の見たり聞いたり信じたりするもののウエイトがデカすぎる人=ある種の狂信者になってる人はたとえ客観的な証拠や論理を示されても「信じたくない」と言う思いで受け入れられない。論理性、ある種の冷静さのある人間ほど自分の意見に固執、拘泥しない。「間違ってたら変えりゃいいんだ」という強かな柔軟性がそこにはある。
私の感覚としては、私の意見はポケモンに過ぎない。ポケモンが否定されても、ポケモンマスターあるところの私が否定されるわけではない。もし間違いを指摘されたら、「より的確なポケモン」に切り替えるだけだ。
ポケモン(自分の意見)は「手段」であって「目的」じゃあない。「目的」は話し合いの中でより客観中立公正な正解に近いものに到達することだ。当初の自分の意見が「絶対的」に正しいか間違っているかはさして重要じゃない。
目的は軽々しく変えるべきじゃないが、手段は目的や状況変化に応じて最適化を目指し、むしろ柔軟に変えるべきだ。あまりに見切りが早すぎるのも問題だが、固執して変えられないという問題に比べればなんてことはない。
おそらく自分の意見に固執・拘泥してしまう人と言うのは「手段の目的化」が発生しているのだろう。
私は無宗教だが、強いて言えば「論理性の信者」だと自称する。
論理性の信者たるもの、あるべき態度は「仮に自説と異なっても、論理的に正しいと思えることを受け入れる(信じる)」ということかなと。
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