例によって大前提は「価値観はそれぞれ」「千差万別十人十色」「自分の正解は自分で決めるもの」「価値観を強要もしないし、強要されもしない」ということで。
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「私は自分の目で見たモノしか信じない」「私は過去の歴史や常識に囚われない」と言うと、一見かっこよい。
類型では
「過去にとらわれず、自分の目で判断する」
「私以外の他人がつけた評価なぞいらん私は私の目で人を判断する」
だが、手品師や詐欺師は語る。「そういう人ほどカモだ」と。
なぜか?
1つには「見たモノと実態が違う事」は頻繁にあると言う事が挙げられる。「見たモノしか信じない」と言う人間は自分が見たモノゴトだけ、自分の個人体験だけを「信じすぎる傾向」が強い。逆にいえば見た目さえごまかしてしまえば簡単に引っかかるというわけだ。手品の大半は見た目(見える範囲)と異なる事象がその裏側で発生している。そのギャップに騙される。
自分が見たモノ、見たいものばかりに目が行き、実は客観中立公正的な見方ができないことはどれだけ注意してても発生する。それを防げるのが第三者の意見であり、その集大成である歴史や統計になるわけだ。
2つ目としては「自分の目で見たモノしか信じない」ことを「過去の歴史や統計を一切活用しない」ことを混同する人が多いからである。
自分で経験する、自分で見て判断することを否定するわけではない。だが、自分の見たモノに「過去の歴史や統計」を照らし合わせて判断してこそ正解に近づける。「過去の歴史に囚われない」というと一見かっこよいようだが、自分がそうすることは自分の自由だとして。相手もそうしてくれるとは限らない。某国のように既に国際的な条約や法律で解決したことまで、「感情にそぐわない」という理由にもならない理由で穿り返すケースもあり得る。こちらが過去に拘らずに約束をしても、相手からいつひっくり返されるかわからない。そんな相手とは信義信頼を結べないし、結んでも無駄である。むしろ結ばない方が良い。
過去に幾多の先人たちが累積してきたものが歴史であり、確率統計だ。「たった一人が見たモノ」とは比べ物にならないケーススタディの宝庫である。
自分で見て感じたことは大事にするとよい。だが、それが過去の歴史や統計を学ばない理由にはならないし、怠慢であってはなるまい。
今晴れているという見た目だけを信じて冬山に軽装で登山するのは自殺行為である。歴史や統計を調べれば「今の見た目」と「実際の未来予測」にズレが生じることはいくらでもあり得る。
将棋の過去の蓄積である定跡を学ばず独学で強くなれるか?
仕事で先輩のやり方を学ばずにいきなり自分の感性だけを信じて成功できるか?
6分の1で弾丸が出る拳銃を1回打ってセーフだからといって次の引き金を引けるか?
危ない新興宗教の狂信者や好戦的な首狩り族が、今穏やかな笑顔だからと言って一晩同じ屋根の下で過ごせるか?
「今、私が大丈夫だから」というのは全てを保証するわけではない。それは「たまたま運が良い」だけかもしれない。人を疑い過ぎるのもよろしくないが、かといって信じすぎるのもそれ以上によろしくない。見知らぬ人にも慣れ慣れやすくしやすい私のような人間こそ、こういう戒めが必要だ(笑)。
「賢者は歴史に学び愚者は経験に学ぶ」
「だが、大愚者は経験を活かす機会すら得られない。なぜなら初体験で致命傷を負うから」
「危険紛争地帯に物見遊山ででかけた某人物のように、経験値の多い死体ができあがる」
「レベルアップはできないな。転生できればいいんだがね」
いくら目的や志が尊かろうが、その手段や判断が間違っていれば現実は非情だ。特に致命傷を負う可能性がある問題の判断は慎重であるべきだ。
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