【第一段階=内心の自由】
別に法律で規定されずとも内心の自由は誰にも奪われることはない。というか基本的に奪いようがない。
【第二段階=表明の自由】
表現としてアウトプット、外部に表明することまではとりあえずさほど問題があるとは思わない。とりあえず言葉(の意味)で人を殺すことは比ゆ的な表現はともかく原則として不可能なことだ。まあ大音響で耳元で叫び続ける位だろうかね。
ただし、自分の意見を表明する人間は、その自分の意見に大した他人が意見を表明することにも同程度に寛容でなければ公平性を欠くというものだ。自分が唱える「表明の自由」は当然相手にも認めなければダブルスタンダードである。ある意志体が自分の気に入る意見を認める一方で、気に入らない意見を制約することこそが表明の自由への危機だと考える。
その意味では一方でイスラムの方々への風刺をしつつ、他方で襲撃された新聞社を風刺する表現をする人間の身柄を確保するのは公平性に欠けると考える。
意見Aは表明の自由の範囲内で意見Bは表明の自由の範囲外だという判断、区別した扱いそのものが自由を奪っていることになるんだが。
むろん、他人を必要以上に傷つけるような事実に即さない表現を無制限に許すというのも無理があるし、また風刺を受けたからといってテロリズムに訴えるのは論外だが。
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私個人としては、たとえ嫌いな相手でも表面上はにこやかに接するように心がけている。相手の表面の感情を傷つけても、敵として認識され反撃を受けるのではつまらない。戦いたいのではなく相手に効果的にダメージを与えたいのなら敵意は内心に秘めて隠密裏に攻撃をする方がよほど効果的だと思うんだがなぁ(笑)。相手の不可知の位置からの攻撃の方が一方的に攻撃できて効果的だと思う。
敵意の表明や宣言が有効なのは第三者を仲間に引き込む場合だろうかね。たとえば私は全体利益を減らす輩は敵だと高らかに宣言するようにしている。これは第三者を味方に引き込む「錦の御旗」にも同時になるからである。あとは真摯に相手に修正を求め、相手の成長を促したい場合だろうか。この場合的意図はちょっと違うか。
要は手段として有効な方を選べばよいのだと思う。
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