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原始仏教コミュの謝罪と訂正:涅槃について

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涅槃について大変な思い違いをしていたかも知れないと思ったので書かせていただきます。もっとも重要なその部分に思い足らず大変申し訳ないと思っています。お許し下さい。


僕は「固定的な身体を一切の執着がない存在はまとうことがない」という表現をいくつかしており、流動的な身体を得たり脱いだりすることがある程度自分の意思でできるかのような書き込みをしてしまいました。しかしそれは間違いである可能性が非常に高いことに気付きました。

第一にパーリ語の大般涅槃経で四大聖地のストゥーパに行って拝めば「良家の子は心が清らかになって天に生じる」という主旨のことが書いてあったように思います。それは暗に「死んで無余依涅槃した阿羅漢たちは供物や祈りなどを受け取らない」ということを意味していると思います。

実際、もし供物が無余依涅槃した阿羅漢たちに届いているとすれば、生前のみならず死後の阿羅漢にも利益を与えることが可能になり、ストゥーパに供物を供えたり無余依涅槃の阿羅漢たちに慈心を修するだけで(僕はこれをある事情から絶対に勧めません)、有余依涅槃している阿羅漢たちに布施をする際に生じる莫大な福業の報いを相続することができると考えられるからです。

また原始仏典には無余依涅槃の阿羅漢に慈心を修したり供え物をせよとは書いていないと記憶しています。

現段階の僕の見解は涅槃については「無記」、として考えるべきではないという考えを持っています。しかし一切執着の放棄は楽であると考えています。


この件について考察・検証するのが遅れてしまい、大変申し訳ありませんでした。どうかお許しください。

コメント(4)

大変勉強になります。
どうもありがとうございます。
涅槃をまったくの無記、何とも言いようのないこととしてしまったら、涅槃という主語に一切の述語をあてえないことになってしまわないでしょうか。
せめてこの世の苦しみの一切から救われる先の喜びとしてイメージできなければ、四聖諦のうちの滅諦や道諦が成り立たなくなってしまうと思います。
>僕は「固定的な身体を一切の執着がない存在はまとうことがない」という表現をいくつかしており、流動的な身体を得たり脱いだりすることがある程度自分の意思でできるかのような書き込みをしてしまいました。しかしそれは間違いである可能性が非常に高いことに気付きました。


もう身体を受け取らないということが意志によるのか否か、ということでしょうか。
もちろんその意志を起こしただけで、また身体を得てしまう人もいるだろうし、まさに無上の悟りに達し、再び身体を得ない人もいるでしょう。
恐らく仏典に載ってる仏教用語は初期に入ってから記載されたもので多くが邪見を含んでいると考えられます。
擁護されてから前と後では形が異なると思います。
邪見も正見も正確な意味を表現出来ないもの
また悟りの過程も涅槃も同じだと考えられます。

無記ではなく、正確な意味を表現出来ない為と言葉にすると本来の意味をなくなる為に表現出来ない。

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