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原始仏教コミュの無職でも生計を立てやすくする方法

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(無職のままで生計を立てれるという前提で書かれていますが、絶対に保証するものではないということを了解の上、読んで、欲する人は実践してください)






無職の方のためにこのトピックは作成されました。





生計を立てることを可能にする二つの手段についての原始仏典の記述です。



増支部経典>四集>第四[十四] 人間品

「   第三 仕事の成果

134.比丘たちよ、これら四の人間が存在することが世間において知られる。何が四か。

 仕事の成果によって生活するが、業の[報いの]成果によって生活しない者。
 業の成果によって生活するが、仕事の成果によって生活しない者。
 仕事の成果によっても生活するし、業の成果によっても生活する者。
 仕事の成果によっても生活しないし、業の成果によっても生活しない者。

 比丘たちよ、これら四の人間が存在することが世間において知られる。



 註 仕事 ウッターナ uṭṭhāna 起、規律、立礼、起源、奮起、努力、勤勇
   仕事の成果 uṭṭhaāna phala パラは果、果実、成果
   業の成果  kamma phala  業の報い」

   (『南伝大蔵経18 増支部経典2』大蔵出版 P237−238 に相当)



生計を立てるには「実際に仕事をする方法」と「働かずに業の報いで生きて行く方法」の二つがあり、その組み合わせで四つになるという原始仏典の記述です。

現実に「仕事をしていないのに生きている人」というのは多く存在します。また人間以外の動物たちも無条件で食事と寝るところを与えられている者たちを見いだすことができます。この事実から「生きていくためには働く以外の道もあるに違いない」と推察できます。それが業の報いによって生計を立てるという道です。この原始仏典の記述はまさにそれです。


このコミュニティに参加されている方の中に多くの無職の方がいるのを確認しました。それでこの記述を紹介しようと思いました。無職でも業の報いを信じるならば、生計を立てることができるはずだと考えることができます。寄付や財産のお布施によって福業を積むのは限界があります。そこでやはり慈心による福徳稼ぎが主体となります。結論はこうです。



  「無職でも慈心を徹底的に修せば
   業の報いによって生計を立てやすくすることができる。
    ただし、業の報いと念力の二つが実在していることが前提となる」



   慈心・・・上下前後左右にホラ貝を吹き鳴らすように「幸せになれ」という
        慈しみ・優しさの思いを無限に広げ続ける状態を維持する修行。
        案外、地味な作業ですが、その心は最も美しい心です。





[原典 慈心の修し方]
  
 長部経典 第13経「三明経」[テーヴィッジャ・スッタ]から

「彼は慈を伴って行く心を一方に遍満して住する。
 そのように第二も。そのように第三も。そのように第四も。
 こうして上下に、横に、一切の領域に、一切処に、一切の者に、世界中に、慈を伴って行く心を広く、大きく、無量に、怨みなく、怒りなく、遍満して住する。
 ヴァーセッタ、たとえば力あるホラ貝吹きは容易に四方に知らせる。
 ヴァーセッタ、このように慈心解脱(慈しみへと心が離脱すること)を修習するならば、有量の作された業は彼のところに住することはなく、彼のところに留まることはない。
 ヴァーセッタ、これもブラフマーの仲間になる道である。
 (以下、悲・喜・捨の修し方も同様に繰り返し)」

  ・正式な修行法 「四無量心」
   http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=45368053&comm_id=951429




無職は有罪ではなく無罪であると僕は考えています。家族に迷惑がかかると言う人がいるかも知れませんが、無職の人の面倒や世話を見るのはその世話人が自分で判断することで、無職の人が「私を養え」と強要しないかぎりは無職の人は無罪だと思います。家族が無職の人を嫌々養おうとそれは家族が布施をしてくれているので、家族の功徳です。また家族は無職の人と縁を切る自由もあるので、無職の人が養ってもらっていることは無職の人の業ではなくて家族の人が業を為していることになります。ゆえに無職は無罪です。また出家者は全員無職です。ゴータマも無職ですが無罪です。身体と言葉と心で悪いことをしなければ、出家在家を問わず人は無罪です。しかし身体と言葉と心で悪いことをするならば、働いていても、無職であっても、出家在家を問わず有罪です。

無職である限りは社会的不名誉は致し方ないことです。無職であることを原因として世間から白い目で見られる。これは一つの税金として理解すれば不快感も減ります。一方で、慈心によって社会に貢献するならば自尊心は維持されます。無職の場合、心の闇が広がりやすいのでこう考えると利益があると思います。


  「自分は犯罪者ではない。これはよし。
   自分は身体で悪いことを行なっていない。これもよし。
   自分は言葉で悪いことを行なっていない。これもよし。
   自分は心で悪いことを行なっていない。これもよし。
   世間では働いていても時には悪いことをして仕事をしている人もいる。
   しかし自分には仕事に伴う悪業は存在しない。これもよし。
   社会的な不名誉は不利益ではあるが無罪である。耐えればよし。
   世間体が悪いことは不利益ではあるが無罪である。耐えればよし。
   親が嫌がるのは申し訳ないが、その分は親に慈心を修して罪滅ぼしをしよう。
   親は理解しないだろうが、自分がやっている慈心は価値があることなのだ。
   いずれは理解してくれると信じて、慈心をマスターしよう。
   慈心を修することは善業だ。
   慈心を修することは社会貢献だ。
   幸せになれと念じれば、世間の人々に若干の幸福感が生じる。
   人々に若干の幸福感が生じるならば、上機嫌となり、
   善業が若干増え、怒りや不機嫌を原因とする悪業も若干減るだろう。
   このように幸福感を人々の心に増大させれば、
   社会と世間はより一層住み易くなるだろう。
   自分の慈心を原因として生じる全ての利益と楽。
   それを自分は相続するだろう。
   それは自分の生計を立てるのに十分だろう。 
   社会の仕事で幸福を増さない仕事も多い。
   しかし慈心はダイレクトに幸福感を増す。
   これを金銭で換算すれば莫大な財産と計算できるだろう。
   社会はお金がもらえる仕事だけで成り立っているのではない。
   善意とボランティアも社会には必要なのだ。
   慈心は実に法施に次ぐ最高のボランティアに違いない。
   慈心を一瞬でも修するならば『彼が国の食事を食べるのは
   無駄ではない』とブッダは説く。
   それならば慈心を修する自分は国に貢献しているのだ。
   一切の形ある布施は慈心の十六分の一にも及ばないと書いてある。
   それならば慈心を修する自分は一切の寄付者よりも寄付しているのだ。
   一瞬でも慈心を修するならば百釜の食事を布施した以上の
   功徳があると書いてある。
   それならば慈心を修する自分は莫大な量の衣食住を提供しているのだ。
   それならばその莫大な量の衣食住を自分が相続するのは道理にかなう。
   業の報いはあるに違いない。ないわけがない。
   業の報いがあるならば、慈心を修するだけで生きて行けるはずだ。
   業の報いがないとしても、無職の欠点は無罪となるだろう。
   慈心を修すれば愛される。
   慈心を修すれば異性にモテる。
   慈心を修すれば天界に行ける。
   慈心を修すれば容姿がよくなる。
   慈心を修すれば優しくなる。
   慈心を修すれば怒ることが減り、怒る不快感も減る。
   慈心を修すれば人前に出るのも怖くなくなる。
   慈心を修すれば世間が味方になる。
   慈心を修すれば安心できる。
   慈心を修すれば欲楽が手に入る。
   慈心を修すれば友達も増える。
   慈心を修すれば家族仲もよくなる。
   慈心を修すれば不還に近づく。
   慈心だけでは阿羅漢にはなれないが、
   慈心を修すれば阿羅漢になる一つの原因となる。
   慈心を修しても悪業の報いはいずれ受けなければ行けない。
   しかし今事前に慈心を修すれば悪業の報いという借金を
   返し終わった後は楽しいことばかりだ。
   慈心を修すれば生計が立つ。  
   ならば慈心を修すれば時間稼ぎになりタイムリミットを伸ばせるのだ。
   慈心を修して安心した生活を送ってから不死を目指しても遅くはあるまい。
   慈心もなく、業の報いもないならば、死後の世界もない可能性が高く
   死ねば全てが終わりになるだろう。それはそれでいいだろう。
   しかし業の報いがあり死後の世界があるならば、
   慈心を修する自分こそが成功者になるだろう。
   しかし慈心を修しているからと言って人を見下さないようにしよう。
   そういった感情は慈心とは逆の感情なのだから。
   今、無職であるのだから一瞬だけでも慈心を修そう。
   そうすればきっと生きていけるだろうから。
   生計の不安の分は慈心を修そう。
   そうすれば不安の分だけ福徳が積めるだろうから。
   慈心が今の自分の仕事なのだ。
   慈心を少しでもやれば今日の仕事はやったのだ。
   人間が認めなくても地元の神々は認めるだろう。
   慈心を修するとき何らかの輝きが自分から発しているに違いない。
   それを神々や霊たちは知るだろう。
   それならば地元に貢献する神々が自分を見捨てるだろうか。
   いや決して見捨てられることはない。
   人に認められなくとも真実、世界に貢献しているならば、
   神々がほかっておくはずがない。
   自分は世のため人のためになることをしているのだ。
   もし慈心がそういうものでないなら、
   神々も死後の世界もありはしないのだ。
   そうだ、原始仏典の記述を信じて慈心に人生をかけてみよう。
   そうだ、信じよう。
   信じるんだ。慈心を。
   慈心を信じてやるんだ。
   とりあえず三日はやってみるか」



これはほんの一例です。バカの一つ覚えでよいので、徹底的に慈心を修してください。そうすれば、生計も不思議と立つでしょうし、死後は天界に行けるでしょうし、来世は金持ちで容姿もよく異性にモテるでしょう。慈心を修するならば、今生でも来世でも出家しても布施を得ることができ、安心して修行に打ち込めるでしょう。またゴータマによる「多修命令」(徹底的にマスターするまで修行しなさいという記述)が出ている修行は「慈心と念身」の二つだけです。この原始仏典の記述を信じて、徹底的に慈心を修してください。慈心だけで人生やっていけます。慈心だけで世間の楽しみは全て手に入るはずです。人のために慈心を修さなくても問題ありません。自分の生計のために慈心を修すればそれでいいです。全ては自分のためです。

無職の方が「慈心が自分の仕事」と思って慈心を修すれば、思うに彼は「世間的には無職であるが、実質的に多大な社会貢献をする者」であると僕は信じています。全ては「業の報いの有無 + 念力の有無」にかかっています。「業の報いは存在する。念力は存在する」とこの二つの見解を信じることができる人は、慈心を打ち込むのに十分は見解・十分な原因を獲得しています。

慈心を徹底的に修してから改めて旧い友人に会ったとき、「自分はかなり進歩したな」と久しぶりに友人と会うがゆえにより一層痛感するでしょう。



慈心ができているかどうか不安になることは多々あります。しかし「幸せになれ」と脳内の中で考えるだけでもすでに効果があることは信じてください。そして、できればその慈心を「外に飛ばす」感覚というものを感じるようにしてください。また慈心のスイッチのONとOFFを繰り返すのも効果があります。「今慈心やってる。今はやめた。また慈心を広げた。また慈心をやめた。また慈心を広げた。またやめた。今度は右に広げた。今度は左に広げた。今度は後ろに広げてみた」など。色々と切り替えると慈心を修せているときと修せていないときの区別がわかってくると思います。心は体の内側にとどまっているだけではなくて、体の外側にも思いを広げることができるという感覚を信じてやってみてください。

特定の人一人だけに慈心を修したり、部屋全体や建物全体などに修したりと色々工夫するのも面白いと思います。特に赤ちゃんに慈心を修すると反応が早くて面白い実験になると思います。僕は店に入る前によく事前に慈心を数秒だけ修するのですが、店員の対応がとても愛想よくなったりするので、経験上、確信に変わって来ています。慈心の効果は経験則によって確認していくしかありません。実験と観察を繰り返してみてください。




以下は慈心の修行である四無量の原始仏典の記述です。参考にしてください。


・四無量心        
 0 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=38871429&comm_id=951429
 1 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=32182557&comm_id=951429
 2 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=32449098&comm_id=951429
 3 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=32647966&comm_id=951429
 4 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=32883836&comm_id=951429
 5 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=33092436&comm_id=951429
 6 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=33643596&comm_id=951429
 7 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=41668246&comm_id=951429
 8 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=44931957&comm_id=951429
 9 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=45037354&comm_id=951429
 10 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=42124861&comm_id=951429





結論を再度。


  「無職でも慈心を徹底的に修せば
   業の報いによって生計を立てやすくすることができる。
    ただし、業の報いと念力の二つが実在していることが前提となる」




無職の方々の健闘を祈ります。

コメント(26)

初めてコメントを書き込みさせていただきます。

読んでいて、最近考えていたことが、素晴らしい文章で、しかも、きちんとまとめられて書かれていたので、すご〜いと思ってしまいました。

個人的なことですが、去年の春から病気で、入退院を繰り返しているため、無職です(苦笑)

もちろん、身体をよくするために、自宅で家庭療法をいろいろと試している状態なので、仕事なんて…という状態なんですけど、ずっと仕事人間だったため、「働けなくなったら、自分の存在価値がなくなる」とまで思っていた時期もあったりしました(爆)

家の収入が不安定で、しかも数ヶ月は収入なしという現実でしたけれど、「私が慈悲があり、五戒を守り、瞑想をするならば、なんとか食べていけるだろう…収入がなくとも、きっと…うーん…」と思いつつ、日々なんだかんだで、なんとかなりましたし、求職中だった家の者も、やっと新しい仕事につきました。

なので、ほんと、なんとかなりましたし、きっともっと慈心を修めれば、生活に振り回されることのない心と、そういう現実が、ごく自然に手にしているものなんだろうなあとも思いました。

読ませていただけて、よかったです。ありがとうございます。大感謝です〜♪
はじめまして、eriさん。

そう言っていただけて僕も大変嬉しく思います。慈心を修する人は善い人です。一人でも慈心を修する人が増えれば素晴らしいことです。今後もeriさん含め無職の方々を応援していきたいと思っています。
阪神大震災で生き埋めになって大怪我をして以来、PTSDから始まり心の病を重ねて、15年ほど無職です。

友人に「働かないで喰っていけるのも、ある意味すごい才能やなぁ」と言われたことがあります。

震災前までは宗教や見えない世界のオカルト話は全否定していた科学万能・物質至上主義でした。(今だから言えますが“科学教信仰者”でした)

8年ほど前に禅と出会い、自分の心と向き合う生き方に変わりました。
5年ほど前に上座仏教に出会い、慈悲の瞑想もはじめました。
目の前にいる人に対する慈悲の瞑想の即効性は、歯医者さんや飲食店、電車の同乗客などで、実感して以来、効果や見返りを期待せずに遠く離れている人(悩んでいる人、苦しんでいる人)にも実行しています。
(効果があったかどうかはわかりませんが、何かの足しにはなっているだろうと信じています。)


無職なのに、なんだかんだで喰っていけるのは、前世の善業の報いなんだろうと思っていましたが(いつか切れる)、このトピを読んで、慈悲の瞑想による慈心の業の報いもいただいているのだと確信させていただけました。

最近、食費を削らないと書籍代や滝行などの修行に係わる費用が厳しくなってきていたので、前世の業の報いがもう切れるのかと心配していましたが、安心して&自信を持って道を修めていけます。

このトピの法施を現実にこの身で証します。


いつもべこちゃんには感謝していましたが、今日の法施にも大変感謝いたします。
m(_ _)m


私は幸せでありますように☆
べこちゃんは幸せでありますように☆
全ての存在は幸せでありますように☆


比古りゅうじ 拝
はじめまして、比古さん。

慈悲の瞑想を以前からやっておられたんですね。素晴らしいです。また心を新たに慈心を修してくださるようで、そのお手伝いができたことをとても嬉しく思います。そのように言っていただけると僕の書き込みも無駄ではないと思えて、今後も書き込みを続ける意欲も湧いてきます。

みなさんの感謝の書き込みには僕自身、とても感謝しています。ありがとうございます。
このトピックに関連して以下の経を原始仏典コミュニティで紹介しました。参考にしてください。


 ・計算できないほど無量の福のまとまり
  http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=45037354&comm_id=951429
僕は今でも「無職の方が一瞬でも慈心を修するならば、その人は生きる価値がある」と信じています。

原始仏典にはやはりそのように書いてありますし、僕自身の経験則からでも慈心には実質的・現実的な効果と成果があると感じています。ですから、無職の方も慈心を修するときは「私は生きる価値がある」と考えてください。

信じることができない人は「とりあえずいくらか慈心を修してその効果が本当にあるか確かめよう。もし慈心が実在するならば、強力な対人兵器を手に入れたようなものだ」という気持ちで実験と観察を繰り返す態度であるならば、心に嘘をつかずに実行できると思います。

こうして再度書いているのは、一度読むだけでは忘れがちでその意義も次第に意識しなくなるからです。できればトピックも読み返していただくと「自分は価値があることをしているなぁ」と思われると思います。繰り返し繰り返し、慈心の意義を復習すれば復習するほど「無職であることを理由に自分を責めること」が減ると思います。

特に「慈心一瞬で百釜の布施」という「百釜の教え」と「慈心一瞬で生きる価値がある」という「弾指の教え」、後「乳搾りの間の慈心で精舎の布施以上の功徳がある」という「精舎の教え」、「一切の形ある布施よりも慈心の方が卓絶して輝いている」という「慈心優越の教え」などを記憶しておくと非常に便利です。心霊現象に悩まされている方は「慈心を徹底的に修すれば非人に悩まされることはない」という教えを覚えておくといいです。でも徹底的に修することが条件です。

僕は「無職であっても慈心を一瞬でも修するならばその人は生きる価値がある」と信じています。上座仏教を愛好している方々もそう信じていると思いますし、もちろん原始仏典そのものを愛好している人々もそう信じていると思います。

こうして「無職であるという逆境がかえって莫大な福を為す機会になる」ということは素晴らしいことです。無職の方がこう考えるならばとても利益が多いと思います。「もし慈心が実在するならば自分は無職であっても非常に有利な立場になるだろう。外で仕事をしている人よりも莫大な福を為し、しかも同時に優しくなって人間的魅力も増大し、仕事のために人を不快にすることもない。これは実に有利な立場だ。それならば慈心が実在するかどうかの真偽を確認することが急務になる。もし本当ならばこれはすごいことだ。よし実験だ」と考えるならばとても利益があると思います。慈心が実在しないならば、やめてしまえば構いませんし、「慈心はやはり効果があるようだ」と経験的に感じてきたならば「これは慈心だけで人生やっていけるかもしれないぞ」と人生の戦況が変化するに違いありません。
慈心はやればやるほどレベルアップします。慈心をわがものとすれば、色んな人に愛されて楽しくなるぞと思えば楽しいです。家族に慈心を修せば、修する前よりはこちらに優しくなるから不思議です。慈心を修するとより一層喜んで家族が養ってくれるようになるので、家族に慈心を修することが立派な仕事のようなものになり、そのとき家族は雇い主であり、パトロンのようなものです。

慈心を修すれば修するほど愛される。修していない分は愛されない。しかし修した分は愛される。また慈心を修すれば修するほど認められる。修していない分は認められない。しかし修した分は認められる。このように考えると慈心だけで人間関係のほとんどがうまくいくのではないかと思います。それならば、ぜひとも慈心をマスターしなければと思われるのではないかと思います。

無職であっても慈心を修する人は社会貢献をする人であり、生きる価値がある人であり、駄目人間ではなく、ましてや人間のクズでは決してありません。慈心を修しているならば自信をもって生きていってください。

「人は無職の私を変な目で見るが現実は違う。即ち、慈心を修する自分は無職であっても生きる価値がある人間である。確かに人は無職をよく思わない現実はある。しかし、その現実とは別に慈心を修する私は生きる価値がある人間であるという現実がある。そして多くの人は『慈心を修する人は生きる価値がある』という現実を理解できないという現実もある。慈心を検証していないからだ。これら全ては別々の現実であり、事実なのだ。しかし一番重要な現実である『私は実際に生きる価値がある』という現実は確かに実在する。現実に慈心の効果は出ているのだから、そう信じる理由が私にはある」と考えてください。そうすれば、自分の尊厳を自分で傷付ける思考になりません。

慈心の意義を繰り返し復習すれば、無職の方に有利な情報ですので愉快にこそなれ不愉快にはなりません。ですので慈心の意義をよく復習して吟味してください。そうすれば、慈心を拠り所として後ろめたさを減らして生きていくことができます。ただあるのは「この人は無職だ」と人に思われる不快感だけに限られてくると思います。そのときは「無職を悪く思う人は自分が無職になったときに自分を責め続ける。これが無職を責める人の業の報いだ」と考えれば、さして不快でもなくなります。

無職の方々の健闘を祈ります。
毎日1時間の慈心を修するようになって三週間ほど経ちますが、これだけ長い期間に続けられているのは僕自身はじめてです。


それには理由があって、音楽を聞きながらだらだらとやっているからです。慈心のみでやるとすぐに飽きてしまうし(断蓋せずにやるのがいけないのですが)、時計ばかり見てしまうので、もういっそ好きな音楽を聞きながらやることにしました。そうすると音楽に意識が向いてしまって慈心が中断することはもちろんあるのですが、飽きずに音楽に乗りながら慈心を続けられます。以前は音楽を聴きながら念身をしていましたが、その際はイヤホンを使用したほうが念身には向いていると思います。慈心を修する場合はイヤホンなしで普通に音楽を流したやり方が僕は好きです。初禅をやるときは音は邪魔になりますので、無音で椅子に座ってしています。座禅は足が痛いので。


「金も地位も名誉も異性も欲楽も慈心のうちにある」と思うと普段の雑念の分を慈心に切り替える思考が働き始めるのでおすすめです。雑念は外界への欲と不快感と自分のいつものやり方への執着が大半を占めていますが、「慈心によって外界が獲得される」という想を繰り返すと慈心が雑念と入れ替わっていきます。雑念と慈心を比較すると「雑念を放置するよりも慈心に切り替えたほうが本当に欲しいものが手に入る」ということがよくわかりますので、そうなっていきます。


修行をやることが目的ですので、修行の助けになるなら音楽を聴いてもいいと思います。そこは受験勉強と同じだと思います。とにかくいい成績を上げればいいので自分に合った勉強法・修行法を確立していくのがいいと思います。出家しているわけではないので。人によってはお香を焚くのもいいと思います。


修行はあまり気構えないで、バットの素振りとかジョギングとか英単語の暗記ぐらいの気軽さで、音楽を聞きながらでもテレビを見ながらでも、慈心を修していくのがいいと思います。慣れることがまず第一で、さらに上を目指すのは慣れてからでも十分間に合うと思います。


「慈心を一瞬でも修するならば、その者が国の食べ物を食べるのは無駄ではない」という原始仏典の記述を信じつつ、日々の慈心を通じてどんどん社会に貢献していきましょう。
はじめまして。
いつもありがとうございます。
慈心を修する事は、宗教や思想を問わず全ての人が行える、素晴らしい心の行為だと思います。
はじめまして、栗田さん。
そう言っていただけてとても嬉しく思います。

書き込みを通じて慈心を修している方が増えていると思うと、本当に素晴らしく善いことだと思います。ありがたいです。
恩を知り恩に感じることは善人の証であり、恩知らずは悪人の証という主旨のことが原始仏典に書いてあります。また恩を知る人間は出現し難いと書いてあります。それに関連して僕はたまにこのように考えて慈心を修しています。


「自分を産んだことが無駄ではなかったということを両親に知らしめよう」と両親に慈心を修します。「この福の報いは必ず一滴残らず自分が相続するだろう。この信が正しかったかどうかいずれ確認できるだろう」と補足しつつ。

また「自分を育てたことが無駄ではなかったということを両親に知らしめよう」と両親に慈心を修します。

他にも「自分と関わったことが無駄ではなかったということを知らしめよう」と関わった人たちに慈心を修したり、同様に恩師や守護霊や関係霊全般や友人や親族など自分の周囲の人々に慈心を修します。

また自分の属する地域や地方や日本に慈心を修し、地球や太陽系に慈心を修し、銀河やそれ以上に慈心を修します。「自分に利益を与えたことが無駄ではなかったということを知らしめよう。そうすれば人々は自分に利益を与えることは無駄ではないと知るだろう。そうすれば信用は向上し、人々からのさらなる利益が期待できる。復讐することによって自分をナメさせないようにする鞭の教育法もあるがこれは行なわず、飴による教育法である慈心を採用しよう。慈心によってこちらに利益を与えることが無駄ではないということを教えてやろう」と考えて慈心を修します。

こうして業の報いも相続し、人の好意も信用も得て、四摂事の一環として慈心を繰り返し修習し、慈心の攻撃力をさらに高め、短時間と少ない努力でさらに莫大な福を獲得できる梵力を鍛えていきます。「慈心を修して善きことさえあれ悪いことはないだろう。人々を幸せにして善きことさえあれ悪いことはないだろう。慈心の福の報いを相続して善きことさえ悪いことはないだろう。こうして一部の苦は減少し、一部の楽は増大するだろう」と考えつつ。


僕が思うにその街に慈心を修し続けた人が死ぬとその街の守護神に転生すると思います。
同様に、その地方に慈心を修し続けた人が死ぬとその地方の守護神になると思います。
その国に慈心を修し続けた人が死ねばその国の守護神に。
この太陽系に慈心を修し続けた人が死ねばこの太陽系の守護神に。
この銀河系に慈心を修し続けた人が死ねばこの銀河系の守護神になると思います。

僕はなんとなくですが太陽系の守護神というのはトゥシタ天の王ではないかと考えています。ゴータマがトゥシタ天から来たこと、如来が一世界に現れるとすれば一人ということ、ブラフマーの支配領域の最小単位は千世界以上であることを考慮してです。もっとも原始仏典にトゥシタ天の王の記述はまったくないので、これは僕の憶測に過ぎません。

いずれにしても梵力を太陽系レベル、銀河系レベルまで鍛えた上で阿羅漢になれば、ブラフマーの称号を獲得すると同時にアリヤ(聖。阿羅漢)の称号も獲得できるので、そのほうが梵力が弱くブラフマーの称号を獲得していないアリヤ・阿羅漢よりも優れていると思います。また四無量心を行なえば優雅沙門への道も開けます。



慈心が実際に効果があるかどうかは家族や友人やペットを実験台にして、慈心を修した場合と修さなかった場合を繰り返して対照実験を行なうとよりデータが収集できると思います。この実験は誰も傷付けない実験ですので問題ありません。天眼の力が高まった人は慈心の威力を量的にも質的にも細かく分析できるかも知れません。

さっき飼っている猫に二十秒ほど修してから抱き上げて触っていたら、普段よりも喉をゴロゴロ鳴らすのが大きくて上機嫌なように感じました。こういったデータを自分で集めていくと日常生活も面白いと思います。


慈心だけでなく、仕事に見合った評価と給料が出ない仕事をしている方でも、家事が当たり前のこととして感謝されない主婦の方でも「この福の報いは一滴残らず自分が相続するだろう。この福の報いは必ず自分が相続するだろう」と繰り返し考えるだけで、不満も減ると思いますし、喜びが生じて前向きに取り組めるようになると思います。他人を傷付けていない利益ある活動は不満を持ちながらやるよりも「きっと福になるぞ」と喜んでやることによって福の報いが来たときにいやいやでなく喜んで受け取ることができるようになると思います。

こうして正見とともに正精進としてのモチベーションも確保でき、福も積めるので「この福の報いは一滴残らず自分が相続するだろう」ということを念頭において繰り返すことはとても善い未来を結果すると思うのでおすすめです。最近、僕は家事などをしていて不満になったときは「この福の報いは一滴残らず自分が相続するだろう」と考え直してやっています。
年末年始に色々な人と会いましたが「慈心を修する人は本当に少ないな」と思いました。


慈心の根拠である「業報の法則」と「念力の実在」を多くの人に信じさせることは難しいです。実験と観察による検証を行なわせることはもっと難しいです。原始仏教の見解は一般常識の価値観からあまりにも乖離し過ぎているので、洞察力がない人の心は即座に反発するようになっています。特に自他を傷付ける行為を幾分すでにしてしまっている人はより一層、業の報いの考え方に反発します。その仮説を受け入れれば、自分の未来は悪行の分は確実に暗くなると感じるからです。そう考える彼の未来予測の知恵は短期的なものが限界であり、長期的な視野による展望、それに基づく忍耐は彼の全存在の中には能力・実力として存在していないということでもあります。仕方ないということです。

あらゆる技術や知識の分野であっても、はじめは馬鹿の一つ覚えのような決まりきった型しかできないものであり、その決まりきった型を一つひとつ繰り返し繰り返し行なうことによって一つひとつマスターしていきます。そして最終的には自由自在の境地に達することを目標とします。壊れた機械のような動きを繰り返す初心者が、縦横無尽の動きに次第に近づいていきます。それは正しく蓄積された諸行によるものです。「彼の知恵と力はどこから来たのだろうか」と言われれば「それは彼が過去に為したところによる」と言えます。「如来の大神通・大威力はどこから来たのだろうか」と言われば「それは彼が過去に為したところによるのであり、それは一つひとつ量的にも質的にも限定された一つひとつの行であるに違いない」と言えます。

人間関係は第一印象が大事と言われますが、僕が思うには会う前にすでに半分以上が決まっており、後は時に応じた利害の擦り合わせで決まるものだと思います。説法もまた説法する前に半分以上が決まっており、後は時に応じて相手の欲求と恐怖と疑いに応じるような適切な話をすることが大事だと思います。

自分の周りの人たちを耳がある人と耳がない人の二つにとりあえず分類することは有益です。自分が会った人、今会っている人、会おうとしている人に「彼に耳はあるか」と考えれば、何を話すべきかの大筋が立てられます。話す前に話す話題について熟慮するのは賢者に相応しいことです。難しいことであり、その能力は無限に進歩するので長い道ですが話題について熟慮することは善いことです。四諦の話題は最上であり、一般の人にはレベルが高過ぎます。一度の会話で相手を流れに入れるゴータマの説法力は異常であるかのように感じますが、一方でゴータマがどうしても説得し切れなかった多くの人々が確実に存在したことをも考慮に入れるべきだと思います。

如来の称号を持つ存在者もまた失敗を犯しています。不浄想の修習を特に賞讃してゴータマは三ヶ月引きこもりましたが、出て来たら多くの比丘たちが自らの肉体を嫌悪して自殺していたというのは、ゴータマの説法内容の選択の失敗です。しかし、ゴータマの三行は清浄であり、ゴータマは無罪です。しかしさらに適切な説法もあったということも事実です。ときにゴータマのあら探しをすることによって如来の称号を持つ生ける者の性質を調べることも有意義です。

生活に疲れ切っているにも関わらず自分のやり方は間違っていないと考えている人はまったく耳がありません。生活に疲れ切っていても「自分のやり方は間違っていたのではないか」と考え始めている人は心が安心していなくても耳がある場合があります。中途半端に不満な生活を送っている人には聞く耳がありませんが、自ら過ちを認めざる得ないほどの完全な行き詰まりを感じている人には耳が出来始めている場合があります。その場合は説法が有効です。そのときは「一般常識ではもう無理だが、超常の領域から現状を見ればまだ間に合う」と期待を持たせて、わずかでも安心感を与えて話を始めたりすればいいと思います。

一部の人はまったく親しくない人から言われたことでも道理にかなうことは受け入れます。道理に導かれる人は最上の人だと思います。こういう人たちはほかっておいても進歩します。一方、自分の眼で見たことしか信じない人には耳がありません。耳で聞いたことに左右される人がいますので、その人には繰り返すことが証明になり、繰り返すことによって洗脳が可能です。洗脳に二つあり、その洗脳によって本人がどんどん不幸になる洗脳と、その洗脳によって本人がどんどん幸せになる洗脳です。業の報いを信じる説法者は洗脳される本人がどんどん幸せになる洗脳しか行ないません。業の報いを怖れるので。
見たものしか信じない人もいれば、聞いたものしか信じない人もいます。道理を信じる人が最上ですが、粗野なことしか信じれない人も多くいます。粗野な人、愚かな人に対しては、親近感を高めて信頼を得ないかぎりこちらに心を開きません。しかし、そこまで手間をかけさせる人をどうしても助けたいと思う理由はなく、ついにはこちらのモチベーションが不足してきます。そして説法は最後には煩わしいことになります。

「なぜ説法するのか」「なぜ慈心を修するのか」、これらはまとめて「なぜ利他をするのか」とまとめることができます。答えとしては「他者に利益を与えることによって現世においてはあるときはそれを原因としてこちらが利益を得ることもあり、あるときはそれを原因としてこちらの利益とならないこともある。しかし業の報いという仮説が正しいならば、他者に与えることができた利益は一滴残らずこちらが必ず相続するはずだ。無常ではあるが。しかしこの現世の利と来世の利を見て、他者に利益を与える」ということができます。

すべて四摂事は「自己の勢力拡大」という利に行き着くところのものだと僕は最近思っています。この利は漏尽の利に劣ります。しかしこの利はこの利として漏尽の利とは別にあります。しかし渇愛滅尽の利には劣ります。外界との利とはそのようなものであり、内界の利としての漏尽はそれに勝って当然だからです。しかし外界はまた外界です。優雅沙門は内界と外界の両界に完全に勝利します。この利があって在家信者の目標とすべきは説法第一チッタ居士と摂事第一ハッタカ居士と言われます。

慈心が極まれば如来となると思います。次の如来がメッテーヤ、メッテッヤ、メッタの人、慈しみの人、優しい人を意味するのもそういうところがあると思います。如来だけが獲得する特有の利益を考察して覚知すれば、その人は如来になる原因を手に入れたようなものだと思います。如来特有の利益への考察が如来になるための努力を継続させる根拠になります。慈心の利益を知れば慈心を継続するモチベーションの原因の確保となり、説法の利益を知れば説法を継続するモチベーションの原因の確保となり、如来の利益を知れば如来になるための道を歩み続けさせるモチベーションの原因の確保となります。

知によって水路を引いて、後は流せば増大します。知れば卵を得ます。後は暖めるだけです。正しく知れば後は時間が経過するだけで自然に進歩していきます。種と条件が整った地球に対しては太陽はいつも通り照らすだけで、様々な動植物が勝手に進化し繁栄し盛んになるようなものです。「智慧の増大によって増大しようと学べ」と書いてある通りです。

慈心を修する人は少ないです。慈心を修するようになってどれだけ自分が優しくなったか。どれだけ自分が怒らなくなったか。どれだけ自分が相手の立場に立つようになったか。どれだけ自分が見ず知らずの人の生活を思うようになったか。どれだけ自分が地域や国や人々のことを考えるようになったかを反省してみれば、慈心の効果が人格の向上だけにおいてもどれだけあるかわかると思います。外界への影響が実在するならば、想像を絶する福が蓄積されていると予測されます。

慈心を修しながら、適度に「この慈心を原因として何が結果されるか」と考察すれば、慈心を修することをやめるということはあり得ないと思います。慈心を修している人が「自分は社会に大いに貢献している」と考えてもそれによって他者を見下さなければそれは驕りなき正しい事実認識だと思います。少なくとも原始仏典の記述に沿っています。

慈心を修し続けていると慈心を修していない人たちにはある種の麗しさが欠如していることに気がつき始めます。如来にとって凡夫と同席し続けることが楽しみということには決してなりません。同様に、慈心を十分修し続けている人が慈心のない人と同席し続けることは苦痛になっていきます。慈心があるからと言って、特定の愚かな人と同席し続けるということはまったく別のことです。ある特定の愚かな人と長時間の同席によって別の人々への慈しみが阻害され、効率の悪い救済事業となります。それゆえに慈心と馴れ合いはむしろ反発するものです。第二結集において登場する慈住を愛好する阿羅漢であるレーヴァタが多くの比丘たちと一緒に行動することを好まなかったのもそういう面があると思います。ゴータマも四衆に悩まされて無言で去って引きこもった逸話があります。
新年度になりましたので、今年度の目標を設定するのにもよい機会だと思います。正月の抱負をさらにここで強く固めて、年が終わるまでに頑張るという感じだと思います。


僕は今まで通り、無害と慈心の二本立てで行く予定です。無害と慈心を調子がいいときは一時間ずつ、体調不良のときはまったくやらなかったりするのですが、これを習慣にして五ヶ月が経ちますが、かなり成果は上がってきています。安眠できるようになりましたし、性格もより一層円くなったように思います。猫を無理に抱くことも減りました。人格のレベルは目下の存在にどういう態度を取るかが試金石になると思います。犬猫に対する態度と自分の子供や部下や後輩に対する態度は似ていると思います。弱い存在に対して自分の本性が出て来ると思います。特に身内。

僕のリアルの友人も無害と慈心をやって四ヶ月ほど経っていますが、すごいスピードで雰囲気全体が良くなってきていて物腰も柔らかくなってきています。経験則としては無害と慈心の効果は間違いなくあると僕は確信しています。

体調が確実に良くなってきているので、今年度は無害と慈心をコンスタントに一時間はできればやるようにして、さらに余力があればそこに念身を一時間加えていきたいと思っています。体調が悪いときは養生するつもりです。僕は無害・慈心・念身いずれも瞑想の補助輪として音楽を聴きながらやっています。音楽がないと退屈して途中で寝てしまったりだるくなるので。多分、念身を多修すれば音楽という補助輪は必要なくなるのではないかと今は期待しています。

自覚は気付いたときに。五欲の苦しみが過度な場合は執着対象の欠点を考察するか、欲自体の欠点を考察する患観を無常苦無我と苦因要素も含めて行おうと思います。初禅は長らく作っていません。初禅は、一つひとつの五欲と無欲楽の比較対照、欲の欠点と無欲の利点を意図的に考察しないと僕みたいな智慧を重んじるタイプには難しいです。常時生起している欲求不満の波がいまだ達成していない無欲よりは、よく馴染んでいる欲望充足のほうに解決を求めやすいからです。


以前よりも翻訳も書き込みも減っていますが、かえって僕は修行に集中できて進歩できています。この機会に自分の利益のために、良い習慣を設定するのは利益が多いと思います。
地域の回覧板にあった警察署からのチラシには、僕が住んでいる市内の1月〜2月の犯罪件数が去年の五分の三ほどに急に減ったということです。


一方で県内の犯罪件数はほぼ横ばいです。全体としての犯罪件数が変わらないのに、自分が特に慈心を修している市内の犯罪件数が減ったので、僕は自分の慈心の効果も少しはあったかなと嬉しく思っています。

僕は市内と旧国と全日本と地球全土、さらに広範囲の対象に順次それぞれ五分ほど慈心を修していますので、僕の勘違いかも知れませんがこういったデータの収集はモチベーションの補給にはとてもいいです。実験と観察による検証の一環にもなります。

他にも生放送中に慈心を修したりして出演者たちの雰囲気が良くなるかどうか実験してみるのも面白いと思います。僕は一度フィギアの大会のときに気が向いた選手のときに会場全体に慈心を修したことがあります。結果的にこういうのは良くないと反省しました。もう二度としないと思います。

生放送中への慈心は競技と関係ないところでやるのが疑蓋が生じなくていいと思います。国会中継とか普通に毎日のニュース番組などです。そのあたりは無害を意識して気をつければ、生放送中の慈心は色々と面白い結果が出ると思います。自ら実験と観察によって慈心を検証したい方はぜひやると良いと思います。

最近は気候異常で作物に影響が出て来ていますし親殺しも増えてきていますので、自分の生活の土台を固めるためにも、市内や地方や日本や地球に慈心を修するといいと思います。そうすれば、市内で接触する人も優しさを返してくれるでしょうし、食糧も確保しやすくなる業の報いが動くのではないかと思います。

自分の生活も確保しつつ、世界も住みやすくなるということで慈心は一石二鳥三鳥四鳥が期待できます。慈心の真偽は賢明な人が自ら検証するに足る、善き考えだと思います。慈心を無量に広げるヴィジョンを作るのは最初は大変ですが、慣れればこんなに楽でお得な作業はないと思います。


自分の生活の安定のためにも慈心を実験的に修して自ら検証してみてください。
そろそろ僕が無職になって丸五年が経とうとしています。


四年間は経典研究。去年の終わりから修行ノルマを設定してやっと半年ちょっとです。大学を卒業して院に入って実践を始めたという感じです。この半年は全人生で最高の手応えを感じています。現状修行時間は2時間半から3時間です。無職は毎日日曜日なので休みは基本的に体調不良のとき以外はないです。日本と地球に慈心を修するときはこれで結構社会貢献しているつもりです。

この間、塾や飲食店のちょっとした手伝いの他は一切働いていませんがなんとか生きています。この「なんとか」が慈心による福業の報いか、前世の福を削っているのか、あるいはただ周囲の人の慈悲なのか判断が難しいですが。誰もが無職であるというだけで自分で自分を責める心の動きになり、心の闇は増大しやすいと思います。僕も無職になってしばらくは精神的なダメージを世間体と将来の不安からかなり受けていました。

しかし「これは絶対に社会貢献になっているはずだ。誰も認めないだろうが」と思いながら慈心を修すると気持ちは落ち着き、世間の人へ好意を抱くようになり、向こうもこちらに好意を抱いてもらえるようになり、僕の気分もだいぶ落ち着きました。働くのも大変、働かないのも大変、人生大変です。自分で自分の心を守らなければ、生きているだけで心が傷つく時代だと思います。自業自得も多分にあるのですが。

最近、身内の大往生による遺産相続で多分、我が家にとっては財産が削られる形になるので、財政的にはより逼迫すると思いますが大丈夫だと思っています。先祖供養と慈心により大難が小難になっていると思います。

僕が「慈心で生計を立てる」件の言い出しっぺなので、僕が実験台になり一つのテストケースとして状況をたまに報告するのもよいかと思いました。そろそろ両親から家を追い出されるかも知れませんが、多分大丈夫です。業の報いによる奇跡は起きる、いや「奇跡を起こす」の意気込みで頑張りたいと思っています。両親、特に片方はあまり僕のやっていることに感心していないものですから。それにまだ親族の受け皿の候補もあります。さすがに危険になったら普通にバイトしますが。

たまに僕を先生扱いしたり、グル扱いしたり、僕に依存しようとする人がいますが、そういう方々を減らす意味でも僕の駄目なところをちゃんと書いておくことはよいことだと思います。僕が原始仏教というわけでもないですし、僕は一個人でしかなく、阿羅漢でもなく、超常の力もなく、ただ推理推論によってべらべら書いているだけですから、盲信は危険です。僕が見た原始仏教とは違う原始仏教を各自で見いだしていただければそれが最善です。

修行も義務ではなく、五感の快楽も禁じられてはいません。あるいは三悪行も。ただ欲望に危険を見る人、欲望の危険を信じる人だけが禁欲すればよいだけですし、悪業の報いの実在を信じ、加えて悪業の報いを怖れる人のみが三悪行を離れて五戒を守ればよいと思います。ですから「来たれ悪業の報いよ」と潔く言える人は殺しと盗みと嘘と不倫と酒と麻薬もやりたいならやればよいと僕は思っています。ただ悪業周辺と苦受の周辺の因果連鎖を考察してさらに悪業に突き進める人はなかなかいないとは思いますが。

神も悪魔も自由に振る舞っています。多分。人はもっと自由なものだと思います。あるいはすでに自由ですし、人はすでに自由に振る舞う力があり、誰も彼らの為そうとしていることを妨げることはできません。善であれ悪であれ。僕は僕の信念を貫きます。結局人は、自分を変えるとしても今の自分から始めることしかできませんから。

現在、僕はオフ会をする予定はなく、何かの会や宗教団体や宗派を作る気もなく、講演会や説法をする予定もなく、書籍を出版する予定もありません。名もない無職が気楽でいいです。僕は自由を愛好しています。ただ原始仏教を学んでからは「自他を傷付けない限りの」という注意事項が付くようになりました。真の自由は一切悪法からの解脱がもたらすものと思っています。とにかく僕が今まで一度も宗教的なことで一円も稼いでいないことは僕にとって良かった、そう思っています。色々な意味で。

僕のリアルの周囲の人たちが原始仏教にほとんど興味がないというのも、逆に僕にとって利益なのかも知れません。静かな暮らしです。僕には期待せずに、自分の拳を握る力に期待してください。僕も自分の力を信じます。


最近の慈心を修する量はだいたい音楽を聞きながら、1時間〜1時間半です。無量が約30分。他は対象指定です。多分、まだ死なないと思います。また追って報告するかも知れませんし、問題が生じない限りは報告しないかも知れません。無職の方々の健闘を祈ってます。働いてくださっている方々には感謝しています。
今年は夏から葬儀や遺産のことで多くの親族や業者と会う機会がありました。

若いと仕事や結婚のことをよく聞かれますがその都度「無職です」「まだです」と答えています。大抵、親切な中高年男性から色々と諭され助言され、ときには駄目出しされるのですが至極まっとうでごもっともな話です。不愉快なときもありますが言ってくれるうちが花でもあり、悪意はゼロなので僕も悪くは思わないようにしています。それが僕の実力ですから。それはそれとして僕は福を欲して福を為して福は来たる、そう思っています。

生計の原因、生活ができるようになる原因、食いつないでいく原因、生きのびる原因、それを自分で見る努力が大事だと思います。そうすると自営業や経営にもつながる視点にも思いが飛びます。人がお金や財産やサービスを提供する原因についての考察にもつながっていきます。僕の場合は結局、勤めに出るよりは慈心という仕事に落ち着いてしまうのですが。

自分で生きるための原因を見て、その生きるための原因のうち自他を害するものを捨て、自他を害さないものを取るのは業の報いがあるという前提において正命になります。今の暮らしを維持する原因を見て、今の暮らしを維持する原因の原因を見れば、正命への道が見えてくると思います。

僕のこの無職・ニート・引きこもりの暮らしはパトロンである両親にとってお金の面でも精神の面でも負担になっているところはありますが、僕の両親への慈心をはじめとする三慈行は向上を続けていて、親子関係は今まででもっとも良好な状態にあります。昔は僕のわがままのせいで不仲でしたが。無職を丸五年続けても僕の体調は別にして精神状態はいたって健康良好で、人前で無駄に五蓋が増大するところはありません。心の闇が広がる原因を見ればいくつかの手は打てます。慢性的な五蓋とその因、その因の滅のための努力と念と集中に関する経験知があれば。

僕はすでに慈心の効果に関して自分自身では疑いがない状態まで経験則を集めていると感じています。僕が慈心を修することをやめることはあり得ないと思います。その果の味をいくらか知ったと自分で考えるからです。また今も慈心を修することはやめないようにしようという思いを修習しており、同時に今後慈心を修することをやめる気が自分の中にまったくないことを確認します。また慈心中に無常苦無我断離貪滅の六明分想を生起させることもできるようになってきており、ブラフマーの果の増大とともにアリヤの果への道筋、慈心中の阿羅漢道も具足、手に入れて来ているところです。

慈心を信じる人、慈心の果を欲する人、あるいは慈心の結果の真偽を自らの体験の中で確認したい人に僕は以前よりも慈心を恐れることなく勧めることができる段階に至ってきているかも知れないと少し感じます。ただ天眼による検証をしてからはじめて慈心における無畏説法の位に達すると思います。今はまだ経験則の範疇です。

そのゆえに在家でも出家でも一日に一瞬でも慈無量心を修する人がいれば、僕はその人を応援したいと思っています。一日に一瞬でも慈無量心を修する人がいるならば、あるいは無量でなくとも特定の人の幸せを慈をもって念じる人がいるならば、その人は生きる価値があると思っています。食糧としての有機物がその人に食されることを原因としてその有機物が一慈心量に変換されるならば、それは世界に存在する因果連鎖としては有意義なエネルギーの形の変換であると考えるからです。

つい先日も男友達に飲みに誘われて勧められて飲んで破戒したところで、だから全然僕は戒円満ではないというか地鎮祭のお神酒の残りも最近寒いし食中毒の予防とか言ってちょこちょこレンジでチンして飲んでしまっているのですが、それでも戒円満を諦めたわけでもないし、「ほんとは駄目なんだけど」という慚愧がないわけでもないし、戒学をやめたわけでもありません。破戒者として家族と世間のみなさまのお世話になり、一部迷惑をかけていることを認めつつも、慈心を通じて日本と世界に貢献することを諦めてはいません。悪法が自分にあってもなくても善意は押すべきであり、善法は修するべきであると思うからです。自ら善を欲するならば。

だからもし日本と世界に慈心を修する人がいるならば、あるいは無量に慈を広げる人がいるならば、それは僕にとっても嬉しいことです。利益ある共通の目標と共通の手段に住する人々がいるならば、嫉妬とケチと妨害工作がそこにないとき、それは互いにとって喜びとなることです。無職は無職として、それはそれとして、慈心を通じて社会に貢献する、福を作る、人格が向上する、それは全然可能だと思っています。
今年の3月で定年退職して無職になりましたたらーっ(汗)
たくさんの仲間から離れ孤立 孤独の道
収入の道は絶たれ
日々ニートたらーっ(汗)閉じこもりです

明け方などは不安で押しつぶされそうになります。

定年ってこんなもんかぁ〜…と、思いましたバッド(下向き矢印)
コメント読ませていただきましたが
貯えのある方はそれで生活出来るかも知れません。

しかし現実味
毎月家のローンも引かれれば
固定資産税や県民税も容赦なく引かれていくわけです。

少ない年金を切り崩していくしかないわけですよね。

減っていく蓄えは収入でしかカバー出来ないわけです。
お久しぶりです。

慈悲心ですが…


松毛虫が大量発生してダバダバ殺しました。
そうしないと両親の遺していった松が枯れるからです。

毛虫や虫はまた生まれ変わりますか?

殺すことは殺生ですよね。
あまりにたくさんの毛虫を殺し過ぎましたたらーっ(汗)
はじめまして。

日本の三大義務に反しています。

日本に暮らす限り、勤労の義務と納税の義務がありますので、トピ主の主張はちょっとおかしいと思いました。

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