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原始仏教コミュの質問用トピック

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質問用トピックが溜まったので新しく作成しました。質問などがありましたら気軽に書き込んでください。

コメント(41)

農業はとても難しい問題ですが、とりあえず出家者の状況から書いてみました。



出家者は戒においても禁止され、律においても禁止されています。
出家者の自発的な戒においては以下のように農作物である草木を刈ることから離れることが推奨されています。中戒の最初の項目です。

「[草・樹木を刈ってはならない]
 一三、また、修行者・バラモンたちのなかには信者からの布施を受けながら、次のような草・樹木、すなわち根から繁殖するもの・幹から繁殖するもの・節から繁殖するもの・枝から繁殖するもの・種子から繁殖するものの五つを刈ることに専心している者もいる。しかし、かれは、そのような草・樹木を刈ることから離れている。これがかれの戒律の一つである」 (『原始仏典 第一巻 長部経典①』春秋社 P450)



戒ではなく出家者の集団規律である律においては以下のように禁止されています。

・第10パーチッティヤ(地を掘ったり、人に地を掘らせることの禁止)

アーラヴィーの比丘たちが(精舎を)修理するために地を堀り、人に地を掘らせたとき。人々は非難した。「どうしてサキャ族の沙門は自ら地を堀り、また他に掘らせるのか。サキャ族の沙門は一根の生命を傷付けている」。ゴータマ曰く。
「愚か者、あなたたちはどうして地を堀り、また掘らせるのか。
 愚か者、人々は地において有情の思いをなす。・・・
  いずれの比丘といえども地を堀り、
  もしくは他に掘らせればパーチッティヤである」(南伝2 P51 に相当)



また土を掘ることについて第二パーラージカに関連して以下のような記述があります。

陶師の子ダニヤが自分のために純泥の家屋を作ったとき。ゴータマ曰く。
「比丘たちよ、どうしてあの愚か者は純泥の家屋を作るのか。
 比丘たちよ、あの愚か者には実に生ける者に対する慈悲、無害があることがない。
 比丘たちよ、あなたたちは行ってあの家屋を破り、未来の衆生に生ける者を害することを行なわせてはならない。
 比丘たちよ、純泥の家屋を作ってはならない。
 作る者はドゥッカタを犯す」(南伝1 P67 に相当)




・第11パーチッティヤ(草木を切ることの禁止)

アーラヴィーにいた比丘の一人が樹を切ったとき。その樹に住んでいる女性の樹神はその比丘に言った。「先生、自分の住居を作ろうと欲して私の住居を切ってはならない」。その比丘は聞かずに切り、そのためにその女性の樹神の腕が打たれた。そのときに樹神は思った「さあ私は今この比丘の命を奪おう」。しかし思った。「私がこの比丘の命を奪うのは私にとって正しくない。私はこのことを先生に告げよう」。ゴータマ曰く。
「よいかな、樹神。よいかな、樹神。あなたがその比丘の命を奪わなかったことはよい。もしあなたが今日その比丘の命を奪っていれば、あなたは多くの生で悪い報いを受けるだろう。樹神、あなたはあそこに行きなさい。そこに一樹がある。そこに行きなさい」
人々は非難した。「どうしてサキャ族の沙門は樹を切り、人に切らせるのか。サキャ族の沙門は一根の生命を傷付けている」。ゴータマ。
「草木を刈ればパーチッティヤである」
「草木」とは五種の種生がある。即ち、根を種とするもの・茎を種とするもの・節を種とするもの・枝を種とするもの・種子を種とするもの、この五種である。(以下、五種の解説。農作物は全てこの五種に含まれる)」(南伝2 P53−54 に相当)



・衆学73
「『私は無病であるのに立って大便・小便をしないようにしよう』という規律は守られるべきである」
・衆学74 
「『私は無病であるのに青草の上に大便・小便・痰を吐く事をしないようにしよう』という規律は守られるべきである」
・衆学75
「『私は無病であるのに水の上に大便・小便・痰を吐く事をしないようにしよう』という規律は守られるべきである」(南伝2 P332−334)


他にも関連する記述があるかも知れませんが、出家者の戒と律においては大体以上だと思います。


  結論としては「出家者は農業禁止」です。



これはもうご存知の方が多いと思うのであえて言うこともなかったかも知れません。おまけに衆学を書いたのですが、やはり「立ち小便」は上品な作法ではないようです。いつも問題を起こす六人組の比丘たちは「立ち大便」もしていたようです。
問題は本題の在家者はどうなのかということだと思います。正命についての解説が原始仏典には少ないです。ただ「在家信者は人・肉・酒・毒・凶器を販売してはならない」という記述はあります。

ここからは僕の考えになりますが「自他を傷付けない生計の立て方ならば無罪の正命」と僕は考えています。逆に「自他を傷付ければ傷付けるほど罪は重くなり邪命となる」と思います。

業の報いが実在するならばそれは法則であり、冷酷で無慈悲なまでに機械的に作用するものだと思います。社会の都合や人間の都合を完全に無視して冷徹なまでに正確に返って来るものだと思います。言い訳に使った理由としての「想」や「見解」はまた別の業の報いとして未来に何かを自分に結果すると思います。農業をする過程で傷付ける全ての生ける者たち、その傷付けた分は必ず傷付けた本人と傷付けるよう指示した人はその報いを受けると思います。それは機械的に完全に正確なものだと思います。

虫よりも四つ足のほうがずっと重たい罪だと思いますが、耕したりする際に傷付けられる者がいるならばその業の報いは軽微であっても必ず返ってくると思います。しかし五邪命に農業が含まれていないのは罪が軽微だからだと思います。五邪命の共通点は「害悪の垂れ流し」です。今はゴータマ在世時代と違って農薬がありますから、農薬を使用する人はそれだけ多くの生ける者を傷付けているでしょうし、農薬を使用しない人は傷付ける有情が最小限に押さえられていると言えるかも知れません。

いずれにしても「農業は良い悪い。農薬は良い悪い」ではなくて、「他の生ける者を害している分は悪く、他の生ける者を害していない分は善い」ということだと思います。農業でも色々な農業がありますから、みなそれぞれ別々に量的にも質的にも異なる業を相続していると思います。職業という肩書きに業の報いが対応するのではなく、自分が犯した一つひとつの行為にその業の報いが対応するのだと思います。

僕もサツキとツツジが咲き終わると毎年、刈り込むのですがいつも嫌だなぁと思いながら刈っています。虫がいないかすごく気になります。神経質になるのも悪作蓋を増大していけませんが、それならば一切に手をつけずに出家して真の乞食になるのも手だとも思います。その勇気がないので一応、家の管理に貢献ということで刈っているのですが正直、僕も毎年悩みます。あとペットを飼う責任も重たいものがあるなといつも思っています。何が犬猫の幸せなのか、果たして自分はペットを傷付けていないのか。猫は自由にさせていますが、犬は首輪のときもありますから。

「生きるために仕方がない」とか「お金がいるから」とか色々と人は理屈をつけられますが、業の法則はまったく無慈悲に動くと考えられますから、誰もが知らず知らずのうちに前世の生計の立て方や今生の生計の立て方の報いを受けているのだと思います。

農業を含めた在家の生計の問題は僕にとっても、とても難しい問題ではっきりと自信をもって言い切れないです。僕自身はグレーゾーンには手を出さないという方針を貫きたいので、いずれはサツキとツツジを刈り込むのもやめるつもりです。僕は「無罪かどうかわからないことはやらない」という方向でどんどん固めていきたいです。


鏡の法門ではありませんがやはり「この生計の立て方は自他を傷付けていないか。この仕事は自他を傷付けていないか。この生計の立て方は未来に何を結果するのか。この仕事は未来に何を結果するのか」という繰り返しの反省が一つの目安になると思います。


最後になりましたが、確か農業について書かれた仏典はなかったと思います。農業をやっている在家は登場しますが、農業については論じず「私は信を種子とし・・・智慧は軛につないだ鋤であり・・・」という「真の農業」についてしか書いてなかったと思います。僕の記憶では農業について書かれた仏典はなかったと思うのですが、僕の記憶違いで場合によってはあるのかも知れません。ご存知の方はまた書き込んでくださると幸いです。
 

[参考トピック]

 ・在家1 「役者の死後」  (南伝16上 P3-6)
  http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=26977059&comm_id=951429
 ・在家2 「屠殺人の死後」 (南伝20 P33-35)
  http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=27006586&comm_id=951429
 ・五邪命 人肉酒毒凶器を売らない   (南伝19 P290)
  http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=47941184&comm_id=951429
やはり直接的記述はないのですね。



結局、どの職業も、、、。

解脱を目指すしかないようですね。
ご無沙汰してます。
お元気ですか?
僕の方は運動不足でちょっとお腹が出てきてしまいました。

先日、中部の根本五十経篇「餌食経」を読んでいたのですが、そこに出てくる五種妙欲を撒く「悪魔」や「魔の眷族」とは、その言葉通りに一種の生命体と受け取っていいのでしょうか?
それとも、欲に負けてしまう自分の心を譬えているのでしょうか?

他にも、お釈迦さまが解脱したとき悪魔(マーラ)がどうこうといった記述や、アーナンダが悪魔に取りつかれていたので、お釈迦さまに「ずっと現世で法を説いてください」とお願いすることが出来なかった、という記述があったのを憶えているのですが、これも含めて「悪魔」をどう理解したらいいのでしょうか?


あと、四門出遊が書かれている経典を探しているのですが、なかなか見つけることができません。パーリ経典ではなく、大乗経典にあるエピソードなのでしょうか?

よろしくお願いします。
お久しぶりです。僕は包丁で切った指の傷跡はまだ赤いままですが、たまに切れ痔になったり治ったりしながらも体調不良はだいぶ改善されてきました。今年は去年ほど辛い年にはならない気がします。

マーラ(māla)は神々(デーヴァdeva)やブラフマー(brahmā)や人間や餓鬼(ペータpeta)や地獄の住人たちと同じで、実在する生ける者たちに含まれる一種の存在者というのが原始仏典の記述です。マーラ・悪しき者・悪魔を比喩としてのみ読むことは極めて困難です。長部経典第20経『大集会経』では神々がゴータマに会いに来るその大集会においてもマーラは外界において天眼によって個々が見ることができる存在者として語られています。

また中部経典第50経の『マーラ呵責経』においてモッガーラナの前世はマーラ・ドゥーシンであることが明かされています。マーラ・ドゥーシンはこの太陽系で最初の如来であるカクサンダ・ブッダとその最強の双弟子の一人であるヴィドゥラを悩まして大地獄に落ちています。一劫地獄に落ちていたわけではないですが、コーナーガマナ・ブッダとカッサパ・ブッダの時代にはまだ転生できず、ゴータマ・ブッダの時代にようやく生まれ合わせたようです。あまりにも長い間、地獄にいたので頭は魚のようであるとモッガーラナは自分で言っています。しかしモッガーラナもマーラとして地獄に落ちて最高の双弟子として神通第一にまで上り詰めていますから災い転じてということもあるかも知れません。マーラにも優しく慈心を修したいです。

ただマーラという種族・転生先・マーラの身体が存在するのか、それとも「悪さをする霊的存在者・神的存在者」をマーラとしているのかは僕もちょっとわかりません。マーラは女性はなれず男性しかなれないという記述はあります。あと中部経典第49経『ブラフマニマンタニカ・スッタ』においてバカ梵天という梵天を手玉に取ってしまうマーラもいることから、マーラという存在者は梵天界にまで食い込むのかということも考えられます。このあたりよくわかりません。

以上のことから原始仏典においてマーラとは比喩でも譬えでもなく、外界に実在する存在者であることが明らかです。原始仏典においてはそういう文脈ということになりますが、では実際にマーラや悪魔が実在するかどうかは天眼通によって自ら確認することが大事だと思います。「悪魔の証明」というような意味ではなく、実際に悪魔的存在者が地上の生ける者たちにどれだけの影響力を行使しているのか、そういう自己の利害に直結した範囲で悪魔の存在の有無というものは天眼通によって自ら確認されるべきだと思います。

従って伝聞や類推による結論は暫時的なものであり、一時的な結論に過ぎず、またそれは聖者だと思われる人の言説への信に過ぎないと考えて、自らその実証に向けて取り組むことが現実を尊重する人にとって相応しい姿勢だと思います。僕はもちろん悪魔は実在すると信じていますが、しかし信じているだけでしかなく、自らの天眼で悪魔を見て確認したわけではありませんから、やはり頑張らなければと思います。道は長そうですが、諦めずに頑張りたいと思っています。
なるほど、原始仏典ではそういう位置付けなんですね。
質問して良かったです。
ありがとうございます。

確かに実体験のために天眼通は欲しいです。
推測だけしかまだできませんから。

ところで四門出遊の件ですが、これは大乗経典の伝説であって、原始仏典には記述はないのでしょうか?
四門に遊んだのはヴィパッシンだけでゴータマが四門出遊したとは原始仏典には書いてなかったと思います。

原始仏典も大乗経典も全て現実に対応しているかどうか、自分で確認するとすればどうすればいいのかという観点で読み進めたほうが無難だと思います。何の教えを信じるかというそのたった一つで人生がまったく変わって来てしまいますから。大抵の人はそれぞれ微妙に異なった自分の常識としての一般常識を無自覚に信じ込んでいるので、それが多くの人にとっての見えない壁です。一般常識もそれぞれの教えも含めてそれらの枠を越えて自分の現実をより幸せなものしていける教えを採用していくのがいいと思います。

最近は多くの教えがあまりにも乱立し過ぎていて、初心者が書店の精神世界コーナーに行くと眼が回ると思います。僕も久しぶりに精神世界コーナーに行って面食らいました。有益な教えもあると思うのですが、あまりにも量と種類が多過ぎて。以前にも増して百花繚乱の感があります。古いものと新しいものがごっちゃになって玉石混淆です。

納得できないことは保留にして安易に信じず、ゆっくりと粘り強く求道をしていくことが誰にとっても利益ある態度だと思います。
>何の教えを信じるかというそのたった一つで人生がまったく変わって来てしまいますから。大抵の人はそれぞれ微妙に異なった自分の常識としての一般常識を無自覚に信じ込んでいるので、それが多くの人にとっての見えない壁です。

曖昧に感じていた部分を文字にして頂いてホントに頭が下がる思いです。
あらゆる概念を払しょくしていくことが大事だなとは理解しています。

質問への解答以外でも、こういった教示を受けることができる、これがぺこちゃんさんへの質問の強みだ思っています。

また勉強になりました。
ありがとうございます。
言いたいことをお節介で書いているだけですので恐縮しました。
でもお役に立てたようでよかったです。
また何かありましたら気軽に書き込んでください。
こんにちは。お世話になっております。
質問させてください。

転生するときは、性別はどうなるのですか?
変わることもあるのでしょうか?
また、何か理由があって変わるのでしょうか?
長部経典第21経『サッカの質問』にサキャ族の女性在家信者ゴーピカーが神の子ゴーパカとして三十三天に転生したことが書いてあります。


「(サッカ曰く)
353.先生、ここにカピラヴァットゥにゴーピカーという名のサキャ族の娘がいて、ブッダを浄信し、ダンマを浄信し、サンガを浄信し、戒を円満していました。
 彼女は女性性[女性の心]を離れて男性性[男性の心]を修習して、身体が破れて死んだ後に善趣・天界に生じた。そして三十三天の仲間である私たちの子となった。
 ここでは彼はこう知られている。『神の子ゴーパカ、神の子ゴーパカ』と。

 註 女性性 itthitta
   女性の心 itthi citta
   男性性 purisatta
   男性の心 purisacitta」

  (『原始仏典 第2巻』春秋社 P350 に相当)


原始仏典における性別の転換における記述はこの記述が一番印象深いもので他には特になかったと思います。ゴータマの前世譚は全て男性だったと思います。転輪王・サッカ・マーラ・ブラフマー・如来は女性はなれないと書いてありますが、理由の解説はありません。もちろん女性も阿羅漢になれます。

原始仏典の記述から類推すると「性別選択は努力すれば可能」ということが見えて来ます。ゴーピカーは男になるために「女性性を離れて(itthittaṃ virājetvā)、男性性を修習して(purisattaṃ bhāvetvā)」と書いてありますから。「別の性の心を修習すれば転生時にその性に転換可能」ということだと思います。

無努力では性別変更は難しいかも知れませんが、十分に努力すれば自分の好きな性別に転生できるというのは上の原始仏典だけでなく、その他の精神世界系の書籍にも書いてあります。僕の考えでは「見解」が強い影響力を持っていると思います。「男性のほうが得だ」とか「女性のほうが得だ」とか「自分はこの性別のほうがいいのだ」というような考え方です。

この見解に応じて思考・言葉・行為・生活・努力・念・集中・知・解脱が生じます。先のゴーピカーは「自分は男性になればいいだろう」という見解により、日々それに対応する八支を繰り返し、最後は女性性から解脱するという形で男性に転生していると思います。ですから転生時における性転換は努力次第で可能だと思います。努力しなければ難しいかも知れません。

そのあたりは地獄や天界に転生するのと同じようなものかも知れません。何も考えずに漫然と人生を過ごせば、餓鬼さまになったり、地獄に行くことになるかも知れませんが、意識して天界に転生するために日々を過ごせばそこに修習が生まれて美徳も備えて福を作ることになると思います。同様に性別を変えたいならば、それを意識して過ごせばそこに達する可能性も上がると思います。

転生先についてはガンダッバやナーガやスパンナや雲天に転生したい場合もそのように願って布施をしたりして生活すればそこに転生するという記述がガンダッバ相応にありました。性別もそれと同じだと思います。いずれにしろ神通により性別決定の原因を見抜ければ理想的です。

転輪王・サッカ・マーラ・ブラフマー・如来になりたい方は男性に転生する必要がありますが、あえて目指さない人は自分の好きな性別を選択すればよいのではないかと思います。
男性性を修習…
参考にしてみたいと思います。
ありがとうございました。
《信心銘》ってご存知の方いらっしゃいますか?
信心銘

著者 和尚(OSHO)
発行所 (財)禅文化研究所

TEL 075ー811ー5189


これなら知ってます
和尚による解説書のなかに僧サン禅師によって現された、その詩がのっています。
> DOCHIRADEMOYOIさん
> wandさん

情報ありがとうございます。

アマゾンで書籍の検索くらいしてから質問すべきでしたf^_^;
(今、見ましたらプレミア価格の中古本しかなかったので、購入するか迷ってます)


やはり、禅僧の作でしたか…。
原文は漢文のようですが、日本の僧で真に理解できる方はほとんどおられないでしょうね。


最近読んだ『覚醒の炎―プンジャジの教え―(ナチュラルスピリット社)福間巌 訳』の補遺として載っていた《信心銘》の訳文を日記に掲載しましたので、ご興味ある方はどうぞ。
http://m.mixi.jp/view_diary.pl?&id=1456172390&owner_id=12812030


こちらのコミュに掲載していただいて、法友の方々とシェアしたいのですが、大乗系のお経のようなので…ダメですょね。(著作権ムシしてるし(笑))
プンジャジの師であるラマナ・マハルシは有名なので教えの是非は別として学んでおいても無駄ではないと思います。僕はまだ読んでいませんが機会があれば。信心銘は知りませんでした。

僕が学んでいない教えも多いので、他の教えの紹介はほどほどにしてくだされば嬉しいです。
『信心銘』について教えてくださった方々、ありがとうございました。
その後、この作者は禅の三祖である僧燦-そうさん-(燦は火へんでなく王へん)という覚者であることがわかりましたわーい(嬉しい顔)

漢文ではなく訳文の方ですが、毎日のように読み返してます。
“読経”ってこういうことなのかなと感じてます。



で、また質問です手(パー)

お釈迦さんが、

「三千人に飯を盛るよりも、ほんの一瞬冷静でいなさい」

と語ったと、ある本で読みました。
ご存知の方おられましたら、何に記載されているのか、教えてください。

はじめまして。和彦と申します。よろしくお願い致します。

中部経典の「小空性経」を読んだのですが、難解でよく理解できませんでした。
原始仏教では、「空」はどう定義されるのでしょうか?
はじめまして、和彦さん。

僕もいまだ空をその身に触れて住することはできていないので推測によって語るしかありませんが、僕の理解では原始仏教における空とは「そこにおいてそれが無いことを知ること」というのが基本の意味であると考えています。しかし空三摩地を意味することも無相三摩地を意味することもあり、また究極の空として三漏の尽の自覚を意味することもあり多義的です。とりあえず「それが無いことを知ること」を意味すると思っています。ただ無いだけではなく「無いと知ること」という実践的なものであり一つの修行であり一つの住であると考えています。

和彦さんが挙げられた中部経典第121経「空小経」においても「このミガーラマートゥの講堂において家畜や金銀や男女の集まりについては空である。しかしこの空でないものがある。即ち比丘衆というただ一つのものである」と書いてあります。この場合も「比丘衆以外は空であると知ること」が肝要だと思います。

従って九定などの一時的な瞑想状態において「ここにおいてこれらは無い。空である」と知る、その有無・空不空について知ることも空の修習に含まれると思います。また特に空三摩地・無相三摩地・無願三摩地の三定や不動に絡めて空は説かれます。このあたりの細かな差異は僕には詳らかではありません。

究極の空として設定されていると考えられるのは同経典にもあるように「ここにおいては欲漏・有漏・無明漏は空である」と知る状態です。「三漏においては空であるが、この六処ある身を縁として生じるものについては空ではない」という認識状態です。

原始仏典を読んでみると「空」(スンニャー suññā)は世界理解・現象理解のための用語というよりも、修行方法およびその修行によって達するべき状態として空が語られていることがわかります。原始仏典を読む限りでは、原始仏教において空は実践的なものであると言えると思います。僕は特に「ここにおいてこれは有るがこれは無い。これは空であるがこれは空ではない」と「知ること」、その知見・その自覚が空住の修習において重要だと考えています。

空に関する重要経典である中部経典第121経「空小経」と続く第122経「空大経」もあるいは翻訳して紹介することもあるかも知れません。


結論を言えば、原始仏教における空は第一義的に修行方法であるということ、そして基本的には九次第定や無相三摩地をはじめとする様々な精神状態において「これは有るがこれは無い。これは空だがこれは空ではない」と知ること、それら諸々の空のうち究極とされるのが「三漏において空であることを知ること」であること、以上が原始仏典に沿った空の理解であると思います。

ここからは推測ですが、多分「これは有るがこれは無い。これは空であるがこれは空ではない」という知と想の持続・継続としての修習、それが原因となってより一層様々な精神状態の境界を明確にすることができ、さらなるヴィジョンの制御、境域の制御を可能にすることができるのだと思います。「あるものが無いということへの常時の自覚としての修習」、そのような想の有用性において空を説くのかも知れません。空住は偉大なる者の住、大人住として原始仏典では設定されています。原始仏教における空は、見解ではなくある特定の精神状態を意図的に作り出すことを指しているということは確かだと思います。
ありがとうございます。
う〜ん、難しいですね。キモは一種の精神状態の精神状態ということでしょうか。
あとタイ上座部仏教のプッタタート比丘は、
「ブッダは、「サッペー タンマー ナーラン アピニヴェサーヤ。ありとあらゆる物、つまりすべてのタンマは、何もかも、自分、自分のものとするべきではない」、と答えました。それが空です。俺、俺のもの、がない空です」
と言ってますが、この空の解釈は原始仏典の立場からみてどうでしょうか?

http://space.geocities.jp/tammashart/tao-kuu.html
プッタタート比丘の教えはほとんど学んでいないので何とも言えませんが、一切を我・我がものと見ない修行法は無我想、あるいは一切五蘊無我観と名付け、空と命名しないほうが実際の原始仏典の空の修行法との混同がないと思います。一切に我を見ない修行はどのように名付けたとしても、もちろん苦滅に有効だと思います。

原始仏典の空の記述で重要なことは、空は修行方法であり修行によって到達される境地の一つであるということと、「あるものが空でありあるものが空でないことを知ること」、その意識の働きに焦点が置かれているということです。原始仏典において「空」の語の用法としては世界を説明するためのものとしては語られていません。

他の教えで色々と空について語られることはあると思いますが、その空とは別に原始仏典で語られる空はあります。ですから、それぞれの教えにおける空のそれぞれの意味を別々のものとして暗記し記憶して、同じ空という語でも意味が異なる用法を混同せずに理解して、その上で改めて自分でそれぞれの空の真偽・内実を検証して行くというのが堅実な態度だと思います。
ご教示ありがとうございます。
また、質問するかもしれません、、、
また気軽に質問してください。良いように。
こんばんは、尊師よ(笑)
寒さが続きますね。

ところで、心解脱と慧解脱という言葉をちょくちょく見かけますが、
正確には把握できていません。

四禅をマスターしたら心解脱で、滅尽定や煩悩が滅して阿羅漢になったら慧解脱なのかな〜という感じです。

実のところ、どうなんでしょうか?

それと、こういった仏教特有の概念は、経と律を読めばハッキリわかることなのでしょうか?
それとも、別の読本が必要なのでしょうか?

よろしくお願いします。
だからグルじゃないって。って言わせないでください(笑)


最近寒過ぎて足が軽くしもやけです。だからアンカ入れて寝てます。

僕は解脱(ヴィムッティ vimutti)とは「ある境地へと離脱・到達すること」だと思っています。たとえば慈心解脱は「慈しみの境地へ心が到達すること」、悲心解脱は「哀れみの境地へ心が到達すること」などです。

阿羅漢の条件として決定的に重要な解脱は「無取心解脱」であると僕が考えています。それは「無執着の境地へ心が到達すること」です。このとき彼が死ねば無余依涅槃界に入るはずです。しかし慧解脱をしていないので、堕落して執着を再形成する可能性があります。予断を許さない状況です。ゆえに漏、特に無明漏は完全には尽きていないと思います。

一方の慧解脱はそれだけでもはや堕落することがあり得ないとされる真の阿羅漢の条件とされています。堕落があり得る阿羅漢と堕落があり得ない阿羅漢のうち、後者です。慧解脱は無明漏を尽くしていますので、「これは苦・不利益になる。たとえば毒杯に同じ。だから取らない」と明瞭に認識する境地です。四諦知を完全にマスターしている状態です。ですからすでに執着はなく無取心解脱しているはずです。

倶分解脱というのは、この慧解脱に加えて寂静解脱である四無色定に達することができる者であると原始仏典に書いてあります。想受滅に関しては寂静解脱に含まれるとは書いてありません。想受滅は想受滅、滅想定なのだと思います。テキストに従えば、倶分解脱は「慧解脱 + 寂静解脱」となります。四無色定や想受滅の滅想定が出来てもまだ阿羅漢ではありません。この段階では身証です。四諦知をマスターして慧解脱の阿羅漢となります。

問題は「無漏の心解脱」が四無色の寂静解脱を指しているのか、無取心解脱を指しているのかです。漏は三漏があり、欲漏・有漏・無明漏です。慧解脱が無明漏に対応すると見れば、無漏心解脱は欲漏・有漏からの解脱であるから五欲と有への執着を断つところの無取心解脱であると見ることはできます。しかし倶分解脱は心解脱と慧解脱のセットであるので、無漏の倶分解脱は経典通りなら四無色定と四諦知のマスターを意味することになります。しかし四無色定だけでは無漏と呼ぶに相応しくないわけです。受想行識に執着が可能ですから、有への漏はそこにあります。そこのあたりは不明です。ですので寂静解脱・慧解脱・無取心解脱・愛尽解脱ととりあえず名称を分けて覚えてしまってもいいと思います。

色々な解脱を書き出してみます。



 八解脱     詳細不明。ただし後半は四無色と想受滅。解脱では最強。阿羅漢。
         八解脱が可能になると紅蓮沙門(サマナ・パドゥマ)の称号獲得。
       
        【称号】
       不動沙門[サマナ・マチャラ  ]→ 預流者
       白蓮沙門[サマナ・プンダリーカ]→ 阿羅漢
       紅蓮沙門[サマナ・パドゥマ  ]→ 阿羅漢+八解脱
       優雅沙門[サマナ・スクマーラ ]→ 阿羅漢+多楽少苦

 無漏の慧解脱  漏尽。諸漏・無明漏を尽くす。阿羅漢。
 無漏の心解脱  寂静解脱か欲漏・有漏を尽くすと見れば愛尽解脱・無取心解脱。
 無取心解脱   一切執着の放棄へと心が達する。阿羅漢。
 愛尽解脱    渇愛が尽きた境地へと達する。阿羅漢。
 寂静解脱    四無色定に達する。これだけでは阿羅漢ではない。
 信解脱     有身見・戒禁取・疑の三結を信によって断ち離脱し預流となる。
 無相心解脱   一切の相が無い境地へと心が達する。
 浄解脱     慈心解脱を七覚支修習したときの究極。八解脱の一つ。詳細不明。
 慈心解脱    慈へと心が達する。悲喜捨も同様。 


原始仏典に基づく僕の解脱に関する現状の考えは以上です。僕はとりあえず「一切の執着を断って無取心解脱して(心学)、二度と執着が生じることがあり得なくなるように四諦知をマスターして慧解脱しよう(慧学)。四無色の寂静解脱はひとまず置いておいて」と考えています。そうすれば「二度とこのように(輪廻して再度の身体を獲得することに)なることはない」と自分で確認できるはずと思っています。

あと八勝処と八解脱に関しては原始仏典ではほとんど解説がありません。この二つの具体的修行法は僕もわからないですが、修行が進めばおいおいわかってくるのではないかと考えています。僕はお金もないし今は実践で満足しているので、他の経典や論を読む可能性は低いと思います。色々と余力がある方はこれらの詳細を他の書籍にあたるのも良いと思います。


 ・七聖    (南伝10 P301−305)
  http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=38517581&comm_id=951429
これだけでとても詳細だと思います。
十分全体像は掴めました。

「七聖」もとてもよく分かりました。

やはり質問してみるものですね。
有難うございます。

シモヤケがでてきましたか。
身体の芯、内臓の奥まで冷えてきた証拠ですので、
湯たんぽをお腹に乗せたり、貼るカイロを腰とお腹に貼って寝てると、
温が芯まで届いてシモヤケがなくなりますよ。

2日ほど布団の中でじっとして温まっておくと、
あっという間にシモヤケがふやけてしまったりします。

参考になったようでよかったです。

しもやけは椅子に座っているときも足下にアンカを置いて保温するようにしたら、ほとんど治りました。またなったら無職なので一日布団で猫とゴロゴロしてもよさそうです。まだ寒さは続きそうですね。
質問です。
在家で四禅を修したチッタ居士(名前うろ覚え)って、どの経典で出てくるんでしたっけ?
探しているのですが、見つかりません。
たしか、チッタ居士と外道の修行者が出てきて、チッタ居士は在家で四禅に到達できているのに、その外道の修行者は20年間苦行的修行しても、大した効果はなかった、だから仏教は素晴らしい、みたいな内容だったのですが…
相応部経典のチッタ相応の第九裸行で、南伝15巻のP456−460です。


内容はチッタ居士と在家時代からの友人の裸行のカッサパの会話です。カッサパがこのマッチカー山に来ているらしいと聞いたチッタ居士はカッサパを訪ねます。

「先生、あなたは出家してどれだけ久しいですか」
「居士よ、私の出家は三十年です」
「先生、あなたはこの三十年で超人法であり十分に聖なる知見の領域と安穏住を得ましたか」
「居士よ、この三十年で私は裸の行と頭を剃ることと毛を抜くことの他に、超人法であり十分に聖なる知見の領域と安穏住を得ていない」
「不思議だ、あり得ない。正法が善く説かれていることは。三十年経っても裸の行と頭を剃ることと毛を抜くことの他に、超人法であり十分に聖なる知見の領域と安穏住を得ていないとは」
「では居士よ、あなたは優婆塞になってどれぐらい経つか」
「先生、私は優婆塞となって三十年です」
「居士よ、あなたはこの三十年で超人法であり十分に聖なる知見の領域と安穏住を得たか」
「先生、在家にもこれがあるでしょう。
 先生、私は欲するがままに欲を離れ、悪法を離れ、尋があり、伺があり、遠離より生じる喜と楽がある初禅に到達して住します。
 先生、私は欲するがままに・・・第二禅に到達して住します。
 先生、私は欲するがままに・・・第三禅に到達して住します。
 先生、私は欲するがままに・・・第四禅に到達して住します。
 先生、私がもし先生(ゴータマ)に先立って時が来て死ぬならば、先生が私について「繋縛がもしあるならばこれに縛されてチッタ居士は再びこの世界に来るだろうが、この繋縛は彼にあることはない(不還果)」と記説されることは不思議ではない」
「不思議だ、あり得ない。正法が善く説かれていることは。白衣を着る在家がこのような超人法であり十分に聖なる知見の領域と安穏住を得るとは。
 居士よ、私はこの教えにおいて出家を得て具足を得よう」

それからチッタ居士は裸行のカッサパを伴って長老比丘たちのところを訪ねて言った。
「先生方、この裸行のカッサパは私の在家からの旧友です。先生方は彼を出家させ具足させてください。私は彼の衣食住薬資具を得る努力をしましょう」
そうして不放逸に住したカッサパ尊者は一人の阿羅漢になった。


という話です。重要部分であるセリフはある程度忠実に紹介しました。以前、解脱について質問されましたが、このチッタ相応にある問答を忘れていて改めて読んで勉強になりました。

「無量心解脱、無所有心解脱、空心解脱、無相心解脱の差異は何か」というものです。チッタ居士の解答はこうです。

無量心解脱は、ここに比丘は慈を伴って行じる心を一方に遍満して住する。 そのように第二も。そのように第三も。そのように第四も。 こうして上下に、横に、一切の領域に、一切処に、一切の者に、世界中に、慈を伴って行じる心を広く、大きく、無量に、怨みなく、怒りなく、遍満して住する。 悲・喜・捨も同様。
無所有心解脱は、ここに比丘は一切の識無辺処を超越し、「何もない」と無所有処に到達して住する。
空心解脱は、ここに比丘がいて森や樹下や空家に行ってこうする。「ここに私や私のものは空である」。
無相心解脱は、一切相を作意しない無相心三摩地に到達して住する。
貪瞋癡は量を作すが、漏尽の比丘にはその根は断たれ未来に生じない。無量心解脱のうち、不動心解脱はそれらで最上と言われる。そしてこの不動心解脱は貪瞋癡において空である。
貪瞋癡は障碍だが、漏尽の比丘にはその根は断たれ未来に生じない。無所有心解脱のうち、不動心解脱はそれらで最上と言われる。そしてこの不動心解脱は貪瞋癡において空である。
貪瞋癡は相を作すが、漏尽の比丘にはその根は断たれ未来に生じない。無相心解脱のうち、不動心解脱はそれらで最上と言われる。そしてこの不動心解脱は貪瞋癡において空である。

というものです。空心解脱がないですが、それはこの三種(無量・無所有・無相)において貪瞋癡が空となっているという、その空心解脱において説いているものと思います。ゆえに空心解脱においてもただ自分と自分のものを空と観じる空心解脱と、その空心解脱が不動心解脱に達して貪瞋癡をも空として空心解脱の差異を説き、後者を最上と説くと思います。いずれにしても貪瞋癡の三悪根を根絶して未来に生じない状態にすることが不動心解脱であると読めます。癡が尽き、無明が滅している段階で慧解脱であることは間違いないと思います。

律蔵において解脱の義は「空解脱・無相解脱・無願解脱」と書いてあるということも少し前に確認しました。この機会にお知らせしました。
ぺこちゃん様

ありがとうございます。
解脱については、経典ごとに各比丘の解脱法がバラバラな傾向があるので、アビダンマを学ぶ必要性を感じています。
では。
8月は墓参り お盆
この時期が近づいてくると毎年分からなくなる。

お盆に帰ってくるのなら
なぜ毎日線香もご飯も仏壇にあげるのか?

お盆に地獄の釜の蓋が開いて
悪霊も ご先祖様も帰ってくることが出来るなら
何故毎日何処に向かって線香もご飯もあげているのか?

33年経ち浄土から涅槃に到達したご先祖様はお盆に帰ってきても
浄土から涅槃に到達出来ずに生まれ変わったご先祖様は
別の姿に生まれ変わっても以前の姿で帰って来れるのか?

そうなると
即身成仏を唱える真言宗の教えだと
お盆は必要ないことになりませんか?

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