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見当識・感情【思想哲学】無意識コミュの正岡子規の写生論と月並論は一心と裏一心

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正岡子規の写生論は 解かりやすすぎる表現でもあったようだ。
ところが 子規の造語の『月並』は 逆な意味で 夏目漱石を持ってしても解かりにくかったようだ。

私は 子規の言いたかった『月並』とは 思想哲学的には『裏一心・裏多心』を深いところで意味していたのだと考えている。
だとすると『写生』と言う意味は 思想哲学的には『一心・多心』であり普通に言うと『理性的理解』と言う意味になるだろう。

子規の言う『月並』とは 『理性的理解』に対する『感情的理解』もしくは『感情的解釈や表現』の手法を意味しているのだろう。

漱石が「我輩は猫である」の中で話題にする『月並』と言う正岡子規の造語は まさに『裏多心・裏一心』的な「感情表現」としての意味として理解できると考えてみた。これは 正岡子規の生活の一端である政治活動に於いても思想哲学として理解した方が 鎮魂の意味にもなるだろうと私は思う。 

もし 正岡子規の生きている時代に「見当識機能」や「ミトコンドリア」の認識や知識があったならば、ベースボール以上に、正岡子規は 思想哲学という学問に傾倒していたかもしれないと思うのです。

コメント(6)

確かに 感情とは【月並】と考えるべきなのだと思う。感情の持つ振幅が主観性を言い表すには相応しい。

それは・・光が、【波の性質】と【粒子の性質】を併せ持っている事と似ています。
意識が 【感情=波の性質】と【理性=粒子の性質】を併せ持っていると考えられるし、感情には大きな振幅を比喩で現してもいます、実際に脳波を波形で表してもいる事にその意味を重ね合わせても面白いと思います。
正岡子規 写生と月並 この比較を「見当識機能」を軸に考えると人間の意識(心)の進化論にも踏み込めるのではないかと思います。

古来から人間の心は 少しも進化していないと思っている人は 多いはずですけど、私は この「心の進化説」が無駄な事だとは考えていません。
正岡子規が明治の時代を育んだ、その文化の一角を作り出した事をもって、心の進化を考えない事へのささやかな反論になると考えてもいるからです。

「見当識機能」と言う意味が 具体的でもあり実証的でもあり科学的でもある事が「写生」の意味を際立たせているのです。

人間同士の意思疎通は【感情の交流】として行われていました。
【感情の交流】は【月並】なのです。子供でも誰でも出来る事で、誤解を恐れずに言うと【見当識機能障害】があっても、感情の交流はできます。【感情の交流】これだけならば 人間の心は進化していないと私は思います。

【理性の交流】は【写生】と考えられます。この【理性の交流】【理性的交流】、これは健全な【見当識機能の働き】をもってして可能なのだと考えています。これは 自我が確立した大人になって初めて獲得できる【人間らしい機能】だと考えています。

この二つの視点の違いの認識は 私達の健全な社会生活に於いて、とても大切な事なんです。
なぜならば・・・
「健全な見当識機能の働きが 私たち人間に備わっていなければ、私達の社会は そこが抜けた状態の社会に成っているからです」(by 桜の花) そこの抜けた社会とは「懐疑論」が幅を利かす人の生まれる社会を意味しています。

私達の意識が 光と同じように、【感情=波の性質】と【理性=粒子の性質】を併せ持っていると考えられる。
私は 「懐疑論」「懐疑主義」に於いても 意識(心)の一つの要素である【感情=波の性質】、この要素が偏って強くなったのだと考えています。そしていま一方の【理性=粒子の性質】が 意思気の中で働きが弱いとそうなるのだと考えています。なにしろ 子規流に言うと 感情の働きを誇張するのは 擬人法もそうなのですけど【月並】何だと言う認識になるようです。
正岡子規は 俳句に於いての松尾芭蕉を 明治期には認識されつつあった科学的知識の目からの他の目を加えて 文学としての新たな要素をもって、芭蕉の俳句の姿勢を発展させたい その試みだと考えています。

正岡子規がそうであったように、思想哲学に於いても同様の事が言える時代が訪れているのだと思います。そのカントの時代、芭蕉が生きていた時代は更に百年前だったですけど、この子規と芭蕉の関係は似ている。その1700年代 どんなに偉人であっても、子規が活躍したよりも百年新しい現代を背景としていると考えれば、思想哲学に触れ合う意識(心)の面でも、現代科学の成果を生かす事すら想像していなかったであろう事は チョット自分の「見当識機能」を働かせてみれば 自分が専門家でなくても 専門家と遜色の無い考え方が出来るかもしれない。

要するに カントの言う「純粋理性批判」の難しい解釈である「空間と時間」の概念すら、簡単に「見当識機能」の生物科学的知識で モット完璧な形で 私達の直面している現実と形而学上の違いすら違和感を持たずに 認識できてしまう事になります。

カントの時代 人間以外では 絶対者として「神」のみしか その対象物を想像する事は許されない 背景もありました。
私たちは 「そういった神」よりも モット大事な存在「生命共同体として存在している ミトコンドリア」を 私達が生きる為の機能として 自身の自主性を認識する機能として そういう意味でのIT社会の時代へと変わりつつあります。

もっとも 原始人さながらに、さしたる理由も無く、ミトコンドリアの存在すら無視するのであれば どんなに天才な方でも その考え方はカント以下である事は当然だと思います。
何しろ カントの時代には「見当識」と言う概念が微塵もなかっだ時代にもだったのですから。カントでさえ「超越論的観念性」に陥る処が一連の思考の限界なのかもしれません。本来は 現実の文化文明に於いて 証明されているように、 文化文明に限界が無かったように 限界などは無いはずです。 
無意識は 言葉でも書物でもマニュアルでも、それだけでは人には 伝わりません。

無意識の領域に あるから、これの色々
素晴らしいとしか言えないと思いますww

これを言い換えると「無意識の領域から冴える」と言う意味になると考えています。そして「無意識の領域に近い本能行動」=「変態」と言うのではないでしょうか。

これが「変態」を 粗末に扱えないと思うところです。
無意識の領域を知りだすと 面白いし 楽しいし 癒されるし 人には恍惚をもたらすものだといえるかもしれないと思いますけど。

これを言い換えると「無意識の領域から冴える」と言う意味になると考えています。
例えば「職人技」「プロの技」「武道の技」と言う事でリアルに目にする事が出来ます。

無意識は 言葉でも書物でも説明書でも それだけでは人に伝わりません。意識だけが心でもなく 無意識だけでも心ではないと言えそうですね。
自転車の運転も学問的にいえる無意識の事だそうですから、・・でも わかるようで解からない人もいると思います。

この 自転車を乗っている人も「変態」に当てはまると思いませんか(愚問符)
寿司職人が 握る一握りで 米粒の数がいつも ほぼ揃っているとか(感嘆符)

「人命」の概念が 今までの私たちは間違っていた事を意味しています。
「人命」の概念は「人の命」と言う事が 人間の歴史上では規定の事ですけど、間違っているはずです。
「人命」とは「人の命とミトコンドリアの命」が正しい事を前提に考えたいと思います。従って「人心権思想」とは「人とミトコンドリアの権利全般」を意味していると考えています。
「人間の意識の思い上がりへの反省」の意味が 少しお解かりいただけましたでしょうか。

面白いと思いませんか? 天上天下唯我独尊では無いからです。
個人の生き方が大事にされた時代から 個人も不特定多数の人間も ミトコンドリアとの共生が大事にされる時代に既に変わりつつあります。
感情は 
人間とミトコンドリアと共有している心かもしれない

子規の造語の『月並』は 
そういう意味で腑に落ちる

感情も理性と二つで 人(見当識機能)を支える車の両輪

《参考資料》躁うつ病研究室 
http://square.umin.ac.jp/tadafumi/MitochondrialCalcium.html

ミトコンドリアによるカルシウム制御と気分障害
気分障害病態にミトコンドリアによるカルシウム制御が関与しているかについては、現在筆者らの研究室(躁うつ病研究室http://square.umin.ac.jp/tadafumi/CV.html)で検討中でありまだ解明されていない。

しかし、双極性障害におけるカルシウム反応異常が一体いかなるメカニズムによるのかについては、世界中で検討されつつある。

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