『見当識機能』は 脳の機能なんです。
身体に対して『運動機能』があるように、脳に対して『見当識機能』があるのだから この認識を意識してみる事が大切になると思います。
これを解説すると・・
物体と意識は違うのですけど、意識を物体の性質に近づけて その物体の性質に近づいた意識を似た意識を認識する事が出来れば、他人も自分と近い意識を似たい意識を実感できると言う事。
【見当識機能】を認識する事は 民主主義の鍵になるかもしれないと思えるほどです。
物体は 一定の環境に於いて時間の経過があっても 本質の変化はない物です。
意識(心)は 時間の経過と伴に常に変化をしてしまいます。変化した意識も時間の経過と伴に残して置く事を記憶といいますけど、この記憶を常に時間軸を決めた処で自己の現在と照らし合わせられる能力を持つ意識ではないのです。
『高次の意識』+『高次の感覚(無意識)』+『原意識(記憶も含まれる)』+『原感覚(感覚器官)』=『見当識機能+身体全ての機能』の神経です。
『クオリア』=『見当識機能』有機と無機の接点となる生命工学的機能です。
違う概念ではないのですから 解かりやすくなります。
ギリシャ哲学の概念、近代西洋哲学の概念には 含まれていない初めて科学的証明が必要になる概念です。まだ確立はしていませんけど、これらのタームとその概念は確立しつつあります。そういう意味で科学的分野での論争も現代文化では存在しています。
一般教養として『運動機能』は 初めに保健体育と言う科目で 学校で学びますけど、今のところ『見当識機能』を学ぶ事はありません。学ぶ事は必要な時代が来ると思います。
身体の運動機能を学ぶけど、脳の『見当識機能』を学ばないのは、一般教養の段階から不味(まずい)い事だと思っています。
◎哲学は 真理であったり 因果関係であったり 機能であったり 存在であったり 神であったり ・・時代によっても 社会によっても 進化によっても、その様に意味を変えて存在する。
哲学は 意味を変えて存在しています。解かりにくいはずです、面白いはずです。
◎私達人間の心は 表裏があって意味を成し、観念で構築されている故に表裏をもって存在をなす。二つ以上の多数を持って存在を成す。だから 意思伝達に於いても 言語が違えば伝わらないのだと言う事です。
◎思想哲学の入り口にあるものは・・・感情と理性と言う意識(心)を認識する事が 思想哲学の諸問題を見つめる為の そもそもの入り口になります。
これを言い換えると「無意識の領域から冴える」と言う意味になると考えています。
例えば「職人技」「プロの技」と言う事でリアルに目にする事が出来ます。
それは・・光が、【波の性質】と【粒子の性質】を併せ持っている事と似ています。
意識が 【感情=波の性質】と【理性=粒子の性質】を併せ持っていると考えられるし、感情には大きな振幅を比喩で現してもいます、実際に脳波を波形で表してもいる事にその意味を重ね合わせても面白いと思います。
更に話を進めると、見当識機能は粒子の性質をもってデジタル化・IT社会での向いているのです。
『感情機能』は 波の性質をもってアナログなのです。これこそ マニュアル化できない職人技のように『職人技』=『マニュアルでは伝えられない物』なんだと思います。
面白いですね、人間同士の意思疎通は そうではないように思われているからです。
改めて 記しておきます。
『職人技』=『マニュアルでは伝えられない物』なんだと思います。
職人技とは 不特定多数の人達に賞賛の感情を湧き起こす物なんです。
職人技とは これを会得すると喜びが沸いてきます。
職人技とは 人間の知らない 未知なる機能を誘発しているのかもしれません。
私達の意思疎通だけ考えると 細部と正確さを必要としない感情の伝達と伝播が主体だったのです。
では『見当識機能』とはなんなのでしょうか・・
真宰(しんさい)(根源)は 存在するのか。これは 大昔から 永遠のテーマだと考えられているものです。
光が【波の性質】と【粒子の性質】を併せ持っているように、万物の根源は 複数の真宰(しんさい)から【生まれたる物】だと考えられる根拠があるように思う。こういう意味で、フラクタル理論も根拠になるのかもしれない。
【我思う、ゆえに我あり】を命題とすると・・あらゆる文化文明の概念を認識する事や懐疑する事に於いて このどちらも・・・
これらを考える事は 私達人間にとって『見当識機能』の存在が無ければ不可能だった。
ここで 言語は 粒子の機能を持っていると考えて見るのはいかがでしょうか。
言語以外の表現は他にもあります。『見当識機能』が無ければ理解できないと思います。絵・音楽等々 これらはアナログ的なんですね。でも『見当識機能』が無ければ理解できないと思います。文化文明とは 人間の見当識機能の進化発展の賜物なのだと思います。
生と死について・・
生と死の間には 意識(心)=【見当識機能と言う概念と感情的機能と言う概念】が あたかも空気のような存在が当然のように有るように、当然のようにあるのです。
生と死の間には 心と言う二つの機能が この良し悪しは別としても存在しているのです。
『因果応報』や『因果律』は『見当識機能』の一部分の解説書のような物です。
【見当識機能】と【感情的機能】は 道徳や社会規範(法律等々)や宗教を越えて これらの既存の考え方には無い処の正義とも言い換えられる概念になる素地があると考えています。
今までは 存在が空気の様な見当識(見当識機能の事を含む)は・・・
【見当識】を 誰もが常に認識可能な社会システム(常在民主主義社会)として考える事が 心に生まれる安心感と不安感のバランスを持たすことに役立つ思想哲学にする事ができるかもしれません。
【見当識】と【感情】は ・・・
生物の本能行動は ミトコンドリアと生命共同体を成す その産物です。従って副交感神経は 生命共同体としての身体の機能として獲得した産物です。見当識機能は ミトコンドリアと一定の距離を保つ為の産物です。生物各種、そのおのおのの心の産物です。(by 桜の花)
『見当識』とは 私たちが漠然と使っている『社会性』と言う言葉の『大本になる機能』に当たると思います。
故に『社会性の基本』についても考える事になると思います。
故に『思想哲学』なのだと思います。
故に 既存の道徳や法律を含む社会規範よりも宗教教義よりも 科学的にも立派な社会的基準になるはずです。将来は 道徳等々に社会的考え方の立場が入れ替えられると思われます。社会規範の変化も意義あるものになると予想できます。研究する価値があります。
『見当識』と言う存在の認識を通して、 改めて 私達の過去からの文化文明と現在の文化文明そして未来の文化文明を 真の民主主義的意味に於いて 誰もが 有意義にする事の役割を担えるようになると思うのです。
『見当識と感情』 これは 人間の生死の中間に位置している物として考えています。
『見当識と感情』の議論は IT技術の進化発展と伴に起こった論議である「哲学的ゾンビ」論に対する挑戦と解決の糸口になります。
どんなに優れた 文化文明も思想哲学でさえ【見当識】に負う処が全てといえるかもしれません。
人間の五感さえも 見当識機能障害と感情機能障害になると役に立ちません。
睡眠から覚めた時 記憶が途切れずに 記憶が繋がっている機能を備えているのです。
逆に この【見当識と感情の機能】の進化発展が 人間社会の文化文明を支えていたと言えます。
古代文明と現代文明の切断も 言い換えると【見当識機能的・感情機能的両面の切断】と言いかえらけるかもしれません。
ここで【見当識機能的・感情機能的切断】とは 不可抗力の意味があります。
【見当識機能障害と感情機能障害】は 機能と言う言葉の意味の属性に「社会性」と言う意味を含むように、社会性の中で意味が違うと考えています。
【見当識機能障害と感情機能障害】と言う私の意味する概念は まず「見当識と感情とは、人間は 赤ん坊で始まり 年老いて亡くなるまでの人類の一人一人の一生の姿を見ています。そして それを補佐できる概念は「真実と現実」だと考えています」、従って「見当識機能障害と感情機能障害」とは 「真実と現実」を無視しするか 嘘や虚をもって偽る事を意味する事と考えています。
上記の概念を間違って認識するだけで 思想哲学の精神から逸脱するだけでなく 科学的なベクトルや目的さえもが失ってしまうと思います。
人間の感覚の【第六番目の感覚】が【見当識】だと仮説をもって 思想哲学に役立てたいと思っています。
【人間の心は 神経の働きに帰結する】(by 桜の花) と考えても差支えが無いように、人生の中で この感覚の神経系の成長と衰退を持って考える事はとてつもなく大切だと考えたいからです。
神経が心を持つまでに進化発展したと考えられるからです。
人間の脳の機能の統合脳もこの【見当識】の守備範囲だと思います。
私達が各人各様に理想とする社会も【見当識】の守備範囲なのだと考えています。
そして私達の一つの絶対が【生と死】と言う文化的認識もこれに伴う宗教観さえ楽しく覆してくれると考えてもいます。
そこでこの【見当識】が思想哲学的でもあると思えるし考えられる事になるのです。宜しくお願い申し上げます。