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俳諧師:近江不忍コミュの十三、發句の論理性に就いて(1) 『發句雑記』より

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この作品は自作の詩や小説、隨筆などを讀んで戴く時に、BGMとして流さうと思ひつき、樣々なヴアジヨンを作らうとした内のひとつで、今囘は、

『YAMAHA QY100 Motion1(Mirror) &(Substance) 柿衞文庫(KAKIMORI BUNNKO)
Takaaki Mikihiko(高秋 美樹彦)』

で作つて見ました。





     十三、發句の論理性に就いて(1) 『發句雑記』より


 發句は十七文字といふ短い言葉で語られるから、小説などよりも論理的な缺陷(けつかん)が見つけられ易いので、それに留意しなければならない。
 かりに小説だと、十頁目の主人公の思想と二百頁目の主人公の主張が異なつてゐても、存外、注意深くない讀者には見過ごされてしまふものであるが、發句の場合では、句全體の姿に物足らなさを感じ、それが反撥する氣分となつて句に撥ね返つてくる事になる。


 例へば、

   鷄頭の十四五本もありぬべし 

 これは正岡子規(1867-1902)の句で、病氣の作者がその「鷄頭」の赤さに、默(もだ)し難い生命の尊さを感じた句として有名であるが、いろいろと推敲した結果が、

 「鶏頭の〜ありぬべし」

 では堪つたものではないし、またそれが、

 「十四五本も」

 といふ言葉にも引掛つてしまふ。


 この、「十四五本も」に何故ひつかかるのかといふと、その『鶏頭』の本數が絶對に動かせない數字ではないからで、中七句の安定を圖(はか)る爲であるならば、

 「七八本も」

 としても充分に納得出來るばかりでなく、子規の提唱した『寫生(しやせい)』といふ考へから言つても、筋が通らないからである。


 といふのは、『寫生』といふものは對象(たいしやう)物をしつかりと捉(とら)へるといふ事であるから、それが、

 「十四五本も」

 といふ曖昧な事では困るのである。
 それなら一層の事、

 「十六本も」

 と確定すべきであらう。


 しかし、

 「十四五本も」

 といふ不安定な表現が、子規の病氣による精神的及び肉體的な弱さを意味してゐるものだからだ、と主張する向きもあらうかと思はれるが、それならば猶のこと可笑(をか)しな事になつてくる。
 普通、人間の眼で一瞬に感じ取れる花の本數は十本以内であり、それ以上になると、對象をしつかり捉へない限り、「十二三本」でもなく「十六七本」でもない、

 「十四五本も」

 とは言へないのである。
すると、一方では「十本」までをしつかり數(かぞ)へる體力(たいりよく)や精神力がありながら、また反對(はんたい)に寫生に徹するには病氣だから致し方がない、と妥協した事になつてしまひ、論理的に矛盾が生じてしまふ事になる。


 といふ事は、この句はいろいろと推敲してみたが、

   鶏頭の十四五本もありぬべし

 といふ形で目を瞑(つぶ)つてしまつた作品といふ事になりはしないか。
 もし瞬時の情景を詠んだものだとすれば、

   鶏頭の七八本もありぬべし(不忍)

 とでも詠んだ方が的確であると思はれる。


 事實、「俳句入門三十三講 飯田龍太 『子規の推敲』より」では、

   鷄頭の十本ばかり百姓屋

   鷄頭の四五本秋の日和かな

 といふ推敲前の句があつた事を提示してゐて、決してその場かぎりで詠み切つた作品ではない事が解るのである。
 寫生の句だから推敲してはいけないといふのではないが、それをすればする程、寫生の精神からは遠退いて行く事になるものと筆者には思はれる。


 また、一部では、この作品は數の不思議といふ事で歌人の對談(『國文學第22巻2号 宮柊二 飯島耕一』)で語られて、その中には、

   鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉 蕪村

 といふ句と共に、「鷄頭」の句についても語られてゐる。
 それによると、宮氏は、

 『あれが正確に考へて「十六七本もありぬべし」だと、どうしようもない』

 と言ひ、飯島氏も、

 『あれを作る時、いきなり出てきたのだろうけれど、すっと、十四五本となったのでしょう』

 と言つてゐて、何故、どうしようもないのかに觸れてはゐない。
 當然、觸れられはしないのである。
 示されたものを絶對と思つてゐる限り……。


 それ以外に數の句は、

   牡丹散つて打ちかさなりぬ二三片

 といふやうに、蕪村には他にもこのやうな句がある事だらう。
 芭蕉にさへ、

   蔦植て竹四五本のあらし哉

   枯芝ややゝかげろふの一二寸

   奈良七重七堂伽藍八重ざくら

 といふ句があるぐらゐだから。
 しかし、それがどうだといふのだらう。
 その數字が必要だから詠まれた句と、調べを整へる爲にだけに十七文字に纏めて詠まれた句とを、一緒に考へるべきものでない事は自明の理である。
 これは「振る振れる」の問題とも通じるものである。


 「振る振れる」とは、

 『   行春を近江の人とお(を)しみけり はせを

 先師曰、尚白が難に、近江は丹波にも、行春は行歳にもふるべし、といへり。 汝いかが聞侍るぞ。去來曰、尚白が難あたらず。湖水朦朧として春をお(を)しむに便有べし。殊に今日の上に侍ると申。先師曰、しかり、古人も此國に春を愛する事、お(を)さお(を)さ都におとらざる物を。去來曰、此一言心に徹す。行歳近江にゐ給はば、此感ましまさん。行春丹波にゐ(い)まさば、本より此情うかぶまじ。風光の人を感動せしむる事、眞成哉ト申。先師曰、去來、汝は共に風雅をかたるべきもの也、と事更に悦給ひけり(去來抄)』

 とあるやうに、丹波でなく近江の人と別れるからこそ背景の琵琶湖を意識し、行く歳でなく行く春であればこそ、これから向へる暑き夏に身體を勞はる氣づかひを風光に託して一句と成すのであるといふ意味であるが、薔薇が百合に、春が秋に變つても構はないやうな氣の弛んだ發句を發表するなといふ戒めである。
 「鷄頭」の句はこの部分が多く感じられるので、筆者は納得出來ないのである。
 この句は後者の「振れる句」だと言へるだらう。


 そこで、どうせ推敲するのならば、どのやうなものが考へられるかといふと、

   鷄頭の十一本もありぬべし

   鷄頭の十三本もありぬべし

   鷄頭の十四本もありぬべし
  
   鷄頭の十六本もありぬべし
  
   鷄頭の十七本もありぬべし

   鷄頭の十八本もありぬべし
  
   鷄頭の十九本もありぬべし

 の内、いづれでもかまはないが、「十二本も」と「十五本も」は中七句の調べが崩れる關係上、省いた方が無難だといふ事が理解されるだらう。


 これらを考へた擧句、大きなお世話かも知れないが、筆者ならば、

   鶏頭の來年も咲け五六本(不忍)

 とでも詠みたい氣分である。


     一九八八昭和六十三戊辰(つちのえたつ)年十月七日




     次の作品をどうぞ

十四、發句の論理性に就いて(2) 『發句雑記』より
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     初めからどうぞ

一、發句と「俳句」 『發句雑記』より
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