ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

俳諧師:近江不忍コミュの四、發句と川柳の違ひ 『季語の象徴性による普遍論』

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
     季語の象徴性による普遍論

 この作品を讀む時に、この音樂を聞きながら鑑賞して下さい。
 これは自作(オリジナル)の,

 『Motion1(和樂器・Japanese instrum)』

 といふ曲で、YAMAHAの「QY100」で作りました。
 映像は和歌山懸にある、

 『熊野速玉大社』

 へ出かけた時のものです。
 雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひですが、ない方が良いといふ讀者は聞かなくても構ひませんので、ご自由にどうぞ。





     四、發句と川柳の違ひ


 川柳は『人事』を詠むといふが、『人事』とは自然の事柄に對して人間の生活の事柄を指すものと思はれ、發句の世界では『天文・地理・動植物』以外の題材として『人事』も勿論ちやんとある。
 しかし、ここでいふ川柳における『人事』とはさういふものではなく、『季語』としての役割を持たずに詠む、『流行・人情や風俗』等の『人事』の事を指してゐて、それが何かといふと世相の事件を詠むことだといへば解り易いのではないだらうか。
 この事によつて、短文による發句の『季語』と川柳の『人事』とは何か、といふ事を解析する手懸りになるものと思はれる。


 川柳は「七七」の「前句」を受けて「五七五」の十七文字の平句を詠む事で、連歌の第一句目を發句といふから、發句には川柳のやうに「前句」の「七七」はなく、その發句を受けて次の第二句の脇の「七七」が詠まれ、その「七七」を前句として、第三句目の「五七五」の十七文字の句を詠むので、これを川柳と同じだと考へれば理解し易いと思はれる。
 嚴密には、式目では『第三』は『て止まり・らん止まり』の縛りがあるものの、それを考慮に入れなければ、『季語』も『切字』もないといふ意味では、さう考へても問題はないやうに思はれる。


 そこで發句の『季語』と川柳の『人事』によつて詠まれた作品の違ひはどのやうなものになるのかといふ事だが、そこには判然(はつきり)とした差があるやうに見受けられる。
 例へば、

   役人の子はにぎにぎを能く覺え

 といふ句があるが、これは役人が袖の下則(すなは)ち賄賂を貰つたりしてゐるので、その子共も手を握つたり廣げたるする動作を早く覺えると皮肉つたものである。
 これなどは今日(こんにち)でもありさうな光景で、風俗の著物(きもの)が洋服に變化した爲に袖がなくなつたので、「袖の下」といふ言葉だけを殘したものの、比較的時代に左右される事の少ないものであると言へるだらう。
 因みにこの川柳は、

   うらやましい事うらやましい事  

 といふ前句附けの設問に應(こた)へたものであり、更に、

   斬りたくもあり斬りたくもなし

 に附けられた、

   盗人を捕へて見れば我が子なり

 といふ有名な川柳などがある。


 しかし、その時代に起きた事件などを扱ふ場合もあつて、鋭い世間の批判をする時などは、例へば、發句の川柳に對するやうに、短歌に於ける狂歌にも、

   泰平の眠りをさます上喜撰
   たつた四杯で夜も眠れず

 といふものがあるが、これは嘉永六年(1853)浦賀沖に四杯の蒸氣船で入港した伯兒離(ペリイ・1794-1858)が開國を要求した事件を詠んだものであるが、上等な『上喜撰』といふ宇治の銘柄のお茶を四杯も飲んだら夜に眠れなくといふ意味とを掛けたもので、この事件が日本中を騷がせた當時を髣髴とさせた作品であるのは理解出來るものと思はれる。
 けれども、あれから約百六十年經つた現在、その事件を知らない鑑賞者には解説されなければその意味を諒解(りやうかい)出來なくなつてしまつてゐる事に氣づく筈である。
 それは狂歌のみならず川柳などが世相の事件を詠むといふ性質上時代の經過に耐へられず、歴史の闇に沈んで、その事件が隱れてしまふといふ傾向が強いと言へるからである。


 それに比べて發句の場合は、

   古池やかはづ飛び込む水の音 芭蕉

 この句のやうに「かはづ(蛙)」といふ春の『季語』があつて、これは時間の經過に影響を受けずに、平安時代だらうが江戸時代だらうが、さうして現代だらうが、未來に「かはず」が絶滅してしまはない限り歴史の上に君臨し、讀者の前に説明を必要としない普遍的な存在としてあり續けるのである。
 勿論、『季語』と雖(いへど)も、『砧(きぬた)』のやうに流行(はや)り廢(すた)りの影響を受けるものもあるが、川柳に比べると搖れ幅は少ないと言へるだらう。


 また、發句の『人事』としては、

    物書て扇引き裂く余波哉 芭蕉

 といふ句の「扇(あふぎ)」がそれに當るが、川柳の場合だと、

    寝ていても団扇のうごく親心

 といふ句があり、同じやうな「扇」や「団扇」といふ小道具を使つてゐても、發句の方は心理的な感情の搖れを表現してゐるのに比べ、川柳は道徳的で説教臭く感ぜられるやうに、どちらも時代によつて古びる事のない日常の生活の一部を切取つた作品であるものの、發句が人間の精神に根ざした表現をしてゐるのに比べ、川柳は庶民生活に根差す傾向が強く感ぜられないだらうか。
 嘗(かつ)て發句の專賣特許でもあつた滑稽を信条とする『有心連歌(うしんれんが)』的なものが川柳に移行し、發句は短歌のやうな『無心連歌(むしんれんが)』へと昇華されたやうに筆者には思はれてならない。
 このそれぞれの作品の完成された發句らしさと川柳らしさは、『人事』と『季語』の差によるものだと考へられるだらう。
 その意味で發句と川柳の棲み分けは、充分過ぎる程に完結してゐるものと思はれる。


     二〇一二年六月二十八日午前四時



     續きをどうぞ

五、歳時記に就いて 『發句に於ける季語の象徴性による普遍論』
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=73210069&comm_id=4637715



     始めからどうぞ

前 書 『發句に於ける季語の象徴性による普遍論』
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=73209824&comm_id=4637715

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

俳諧師:近江不忍 更新情報

俳諧師:近江不忍のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング