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俳諧師:近江不忍コミュの17、古語雑談 佐竹昭広 岩波新書350「摂取本(セツシボン)」

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この作品は自作の詩や小説、隨筆などを讀んで戴く時に、BGMとして流さうと思ひつき、樣々なヴアジヨンを作らうとした内のひとつで、今囘は、

『YAMAHA QY100 Motion1(Mirror) &(Substance) 柿衞文庫(KAKIMORI BUNNKO)
Takaaki Mikihiko(高秋 美樹彦)』

で作つて見ました。










     17、古語雑談 佐竹昭広 岩波新書350「摂取本(セツシボン)」

 人によつて極めて爲になり面白い本といふものがある。
 個人の趣味や興味の對象(たいしやう)の違ひによつて樣々な傾向があるので、一概にこれといふ書物を提示する事は出來ないが、筆者などは言語や詩歌及びその解説、辭典(じてん)だとか古い文獻(ぶんけん)を見たり、樂譜を見ると至福の時間と云ふ事になるのである。


 そのひとつが恰度この『古語雑談』といふ本で、例へば『11「たのし」と「かなし」』の章では、

 「当時「たのし」という形容詞は(中略)『今昔物語』や『宇治拾遺物語』にも裕福を意味している」

 とあり、

 「「かなし」には貧乏の意が濃厚である」

 といふ文章に、さうだつたのかと思はず身につまされてしまふ。


 さうかと思ふと、『47 九九』の章では、

 「「一一が一、二二が四」と数えながら、この数え方をわれわれは「九九(くく)」と呼んでいる。「いろはにほへと……」を「いろは」と略称せずに、「せすん」と呼んでいるようなもので、いささか奇妙ではないか」

 と意表を衝かれ、

 「「一一が一」に始まる数え方が、なぜ「九九」なのか」

 と問はれて、慌てふためいてしまふ。


 その理由が、

 「古い形式の「九九」は文字通り「九九=八十一」から数え起こした」

 からだと教へられ、その根拠を、

 「十世紀の『口遊(くちずさみ)』といふ書物に右の順序を列挙し、「之を九九と謂ふ」と注記した明証がある。十五世紀の『拾芥抄(しゅうがいしょう)』所載「九九」の項も順序は同じ」

 と明示してゐる。


 それだけでホツとしてゐると、

 「ただし江戸時代の算書にはすでに「九九八十一」から始まる方式は載っていない」

 と述べ、更に、

 「ジョアン・ロドリゲス編『日本大文典』(一六〇四―一六〇八、長崎学林刊)は、古い「九九」と新しい「九九」の二種類を列挙し、前者を「日本人の使う日本の「九九」、後者を「我々と同じように使う別々の九九」と区別している。江戸時代もごく初期には、まだ新旧両様の「九九」が併存していた」

 と頭腦を擽(くすぐ)られ、とすれば「我々と同じ」といふからには、もしかすると現在の「九九」は南蠻(なんばん)から流入したのではないかと推理する前に、う〜んと唸つてしまふのである。


 因みに、南蠻は中華思想からの請賣(うけう)りで、東西南北を夷(い)戎(じゆう)蠻(ばん)狄(てき)と身分の賤しい存在として分け、「東夷・西戎・南蠻・北狄」となるが、その中心こそ華ある中國といふ國家だといふ事なのだが、こんにちの西洋人が何故「南蠻」なのかといふと、喜望峰を廻つて印度洋の航路を開拓した伽馬(ガマ1469?-1524)によつて、彼等が南から來日したからであらう。


 こんな風な逸話(エピソオド)が幾つもあつて讀む側を倦(う)ませないのだが、この中でどうしても紹介しなければならないと思つたのが次のやうなものである。

 『96 指を折る』に、

 「連歌の初心者は句作の際、指折り数えて苦吟する。(中略)「数を数える」ことを「数をヨム」という言い方もあるように、連歌であれ和歌であれ、音数を正しくヨム(数える)ことこそ「詠む」ことの第一歩である」

 といちいち尤もな説を唱へられてしまふ。


 これに續いて『97 字余り』の章で、

 「和歌(やまとうた)は三十一文字(みそひともじ)から成る。(中略)ジョアン・ロドリゲスの『日本大文典』に(中略)[五音節が]六音節となったり、[七音節が]八音節となったりすることもある。その場合には、[歌が]三十二音節から成ることになり、もし余分の音節を持った韻脚が二つあれば、三十三音節となる。このような余分の音節を「字余り」と呼ぶ」

 といふやうに述べて、『和歌大綱』を引いて

 「五文字を故なく六文字になし、七文字を故なく八文字になす、」

 と言ひながら、

 「裏には「故あれば差し支えなし」と許容する気持のはたらいていたことも事実であった」

 と展開されるのである。


 續く『98 一字千金』では、

 「耳ざわりでない場合は幾文字余してもかまわないとする歌学者もいた」

 と言つて、細川幽齋(ほそかはいうさい・1534-1610)を擧(あ)げ、

   月見れば千々にものこそ悲しけれ
   わが身ひとつの秋にはあらねど

 といふ大江千里の有名な歌について、

 「第五句「秋ならねども」などと平板に詠むより、「秋にはあらねど」の方が断然すぐれている、まさに一字千金の「字余り」であると激賞した」

 といふのである。


 ここからが本題で、『99 西行と宣長』を見れば、

 「その効果をねらって意図的に「字余り」歌を作る風潮が中世以降かなり盛んになった。「文字余りの歌、好みて詠むべからず」「飛鳥井雅親『筆のまよひ』」とは、裏がえせば「好み詠む」人が多かったということであろう」

 シヤアロツク・ホオムズよろしく推理を開陳され、その上、順徳天皇(1197-1242)の『八雲御抄』を引用して、

 「文字を余す人多し。これ(中略)見苦しき事なり。これは西行などが言ひたきままに言ひたる真似びて悪しく取りなす」

 と西行を嚴しく批評してゐる。


 この作者、佐竹氏は、

 「音数の制約に縛られず、必要に応じて自由な「字餘り」の歌を作った西行は、あわせてまた漢語の愛用という点においても、「やまとうた」の伝統にとらわれない、文字通り型破りの歌人だった」

 と褒めたのだか貶したのだか判らないやうな評をしてゐる。
 しかし、「字餘り」の語學的法則を發見した本居宣長(1730-1801)の舌鋒は鋭く、

 「西行ナド殊ニ是ヲ犯セル歌多シ」

 と批判して、『100 宣長の法則』を披露するのである。


 宣長によれば、

 「歌ニ五モジ七モジ余シテ、六モジ八モジニヨムコトアル、是レ必ズ中(なから)ニ右ノあ、い、う、え、おノ音アル句ニ限レルコト也(字音仮名字用格)」

 といふ法則があると言ひ、それを佐竹氏が「字余り」には、

 「句中には必ず単独の「あ」「い」「う」「え」「お」のいずれかが含まれているという事実の発見」

 があつたと解説するのである。


 その詳細は、古今の有名な和歌の實例を掲げて讀者に確認して見せ、『101 あらはに余りたり』の章では、

   月見れば千々にものこそ悲しけれ
   わが身ひとつの秋にはあらねど

 といふ大江千里の有名な歌の第五句、

 「細川幽齋が「一字千金」と絶賛した「字余り」であったが、「秋にはあらねど」の句中には、宣長の「字余り」法則に指摘する単母音「あ」の存在を確認しうる」

 と謎を解いて見せるのである。


 その後、『102 と思ふ』で「字余り」の句は、
 
 「句中には必ず単母音の「あ」「い」「う」「え」「お」のいずれかが含まれているという宣長の法則を『古今集』三百余例の実例について当たり直してみたところ、(中略)一応問題となる「字余り」(中略)かれの見解は『字音仮名用格』に明記されている。」

 と言ひ、

   ひぐらしの鳴きつるなへに日は暮れぬと思ふは山の陰にぞありける(巻四、二〇四)

   忘れなむと思ふ心のつくからに在りしよりけにまづぞ恋しき(巻十四、七一八)

 と問題の歌を示し、

 「日は暮れぬと」の第三句と、

 「忘れなむと」の第一のこの二つの「字餘り」には、母音の「あいうえお」がない。


 これに對して、

 「宣長がこれを見のがすはずがない。(中略)すなわち、二〇四番の第三句は句末の助詞「と」を次の句に送って、日は暮れぬ とおもふは山の……」と読むべきもの、七一八番の第一句は「忘れなむ とおもふ心の……」と読むべきもの、「すべて云々と思ふ、とつづく所には、この例多し。かやうなる「と」文字は次の句へつくこと也」と。実に明快きわまる解釈である」

 と佐竹氏は絶賛してゐる。


 さうして難問を氷解させた返す刀で、

 「西行ナド殊ニ是ヲ犯セル歌多シ」

 と述べ、

   春のほどは我が住む庵の友になりて古巣な出でそ谷の鶯(『山家集』)

   散ると見ればまた咲く花の匂ひにも後れ先立つためしありけり(同右(上))

 實例を示し、その理由を、

 「『古今集』三百余例の実例について当たり直してみたところ、西行の歌における「散ると見れば」「友になりて」のやうな例外現象(母音の「あいうえお」がない事(筆者註))は皆無であった」

 と西行を切りつけるのである。


 西行(1118-1190)を好む人は多いが、字餘りと共に漢語を使用する、即ち「やまとことば」で和歌を詠むといふ常識を崩した事も忘れてはならず、必ずしもこれに類するものではないかも知れないが、宣長は「漢心は潔く捨てなければならない」と言つてゐる。


 漢語や俗語を「俳言」と言つて、これを和歌に使用する場合は俳諧歌と言つた。
 俳諧歌とは「おどけ」とか「諧謔」といふ意味で、これを「無心」と云ひ、正當な和歌を「有心」といふ。
 俳諧から派生した發句は滑稽を旨としたが、鬼貫や芭蕉は「まことの俳諧」を求めて、滑稽を脱却した。
 俳句の「俳」は俳言を使ふといふ意味であるから、發句から先祖返りをした事になる。



 確かに「字餘り」は許されてゐるのだが、それは感情の亂れが五音や七音を凌駕した場合にこそ用ゐられるのであつて、それは例へば、

   塚も動け我が泣く聲は秋の風 芭蕉

 といふ句の上六音の「塚も動け」の「字餘り」を、

   塚動け我が泣く聲は秋の風

 といふやうに「塚動け」と上五音する事も出來るが、さうすると語調が整つた事が却つて感情の高ぶりを希薄にしてしまふ事が諒解出來るものと思はれる。
 『奧の細道』で弟子の一笑に會へるのを樂しみにしてゐたが、訪ねて見ればその姿はなく塚へと變貌してゐ、その墓の前で、私の泣く聲を運ぶだけではなく、せめて塚を動かしてほしいと世の無常を詠むのである。
 勿論、芭蕉は聲を立てず、吹きすさぶ秋の風の音を泣いたと見立てたと解釋してもかまはないが、「塚動け」と五音にせず、「塚も動け」と六音にした所に彼の手柄はあつたと云へるだらう。


 芭蕉の字餘りの句は隨分あつて、

   旅に病んで夢は枯野をかけめぐる

 この「辞世の句」にもそれは見られる。
 などとこの書物はこんな事まで考へを擴げさせてくれるのである。
 斯くの如く、筆者にとつては智的滿足ともども愉しくて仕方がなかつた。
 けれども、殘念な事に他の人にとつては門外漢の欠伸(あくび)をもよほすだけなのかも知れない。
 實(まこと)に、書物といふものが誰にとつても面白いといふのは稀であると言はざるを得ない。







18、七草考・『日本語で一番大事なもの』大野晋 丸谷才一 中央文庫 摂取本(セツシボン)
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