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OSHOの黄金の華の秘密を読むコミュの第21章-4 確証の体験

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本目を開けて身体を探しても、もはやどこにも見つからない。
本これが「からっぽの部屋が明るく輝く」という体験である。
本内も外も、あらゆるものが等しく輝いている。
本これはひじょうによいしるしである。


これらのことを理解しておかなければいけない。
こういったことは、あなたがたにもいずれ起こることになるからだ。
理解しておくことは助けになる。

そうしておかないと、ある日、目を開けて、
自分の身体が見つからなかったら、あなたは狂ってしまうかもしれない。
あなたはきっと何かまずいことが起こったと思うだろう。
――死んでしまったか、狂ってしまったかのどちらかだ。
身体はどうなってしまったんだろう?

だが、この経文を理解しておけば、
正しい瞬間が来たときに思い出すだろう。
私がこれほど多くの経典について語っているのはそのためだ。
ことが起こった時にあなたがふいをつかれないよう、
ありとあらゆる可能性に気づかせるためだ。

あなたには知識があり、理解する力があり、すでに地図をもっている。
あなたは自分がどこにいるかを確かめることができ、
その理解のなかに安らぐことができる。


本あるいは、坐って瞑想していると、
本肉体が絹か宝玉のようにまばゆく輝きはじめる。
本坐ったままでいるのがむずかしくなり、
本上に引きあげられるような感じがする。
本これは「精神が天に帰り、その頂点に触れる」と呼ばれる体験である。
本やがて、本当に上昇するような体験をすることがある。


第三のしるしだ――「精神が天に帰り、その頂点に触れる」

これはすぐに起こる。
これはごく初歩的な段階で起こりはじめる。
静かに坐っていると、突然、地面から少し、
十五センチほど浮いているような感じになる。

びっくりして目を開けると、あなたはちゃんと地面の上に坐っている。
そこであなたは夢を見ていたにちがいないと考える。

いいや、夢を見ていたわけではない。
あなたの肉体は地面の上にとどまっていた。
だが、あなたには別の身体、肉体の内に隠されている光の身体
――アストラル体、微細体、ヴァイタル体、
  あるいはなんとでも好きなように呼べばいい――がある。

その身体が浮かびあがりはじめる。
内側から感じられるのはその身体に他ならない。
なぜなら、それはあなたの内界だからだ。

目を開けると、肉体は地面の上に、前と同じ姿でちゃんと坐っている。
幻覚を見ていたのだと決めつけてはいけない。
それは現に起こったことだ。

あなたは少し浮かびあがったのだ。
――ただし、第一身体ではなく第二身体が。

コメント(7)

本肉体が絹か宝玉のようにまばゆく輝きはじめる。


それと同時に、いつであれ地面から浮上したと感じるときには
――まるで重力がもはやあなたに影響を与えなくなり、
別の法則が働きはじめたかのようだ……
私はその法則を「恩寵の法則」と呼んでいる。

法則のひとつは重力の法則であり、それはあなたを下に引きおろす。
私はもうひとつの法則を「恩寵の法則」と呼んでいるが、
それはあなたを上に引きあげる。

そして、遅かれ早かれ、科学はそれを必ず発見するにちがいない。
なぜなら、法則はすべて必ず正反対の法則によって補足されるものだからだ。
単独で存在しうる法則はない。
重力にはそれを補うものがあるはずだ。

昼には夜があり、夏には冬があり、男には女があり、愛には憎しみがあり、
生には死があり、<陰>には<陽>があるように。
だから、それとまったく同じように、もう一方の極を補い、
補完する法則があるにちがいない。

その法則を私は「恩寵の法則」と呼んでいる。
それはあなたを上に引きあげる。


本肉体が絹か宝玉のようにまばゆく輝きはじめる


という体験が起こると、それと同時に……


本坐ったままでいるのがむずかしくなり、
本上に引きあげられるような感じがする。
本これは 「精神が天に帰り、その頂点に触れる」 と呼ばれる体験である。


今や上昇の旅がはじまろうとしている。
そして、いいかね。
上昇と内向は同じものを指し、外向と下降は同じものを指している。

内側に入れば入るほど、あなたはさらに高く上昇してゆく。
高みに達すれば達するほど、あなたはさらなる深みに入ってゆく。
それらは同一の次元であり、同じ次元の二つの局面だ。


本やがて、本当に上昇するような体験をすることがある。


それもまた起こる。
この内なる身体がとても高く上昇しはじめ、
とほうもない力を放ちはじめると、
肉体すらも一緒に浮かびはじめるかもしれない。

それは起こりうるが、わざわざそれを起こす必要はない。
それは愚かなことだ。
いつの日かそれが自然に起こったら、
それを楽しんで、気楽に受けとめるがいい。

こういった確かな手応えとなるしるしは
理解すべきものであって、
得意気に自慢するようなものではない。

こういった体験は誰にも話してはいけない。

そうしないと自我(エゴ)がもどってきて、
そういった体験を食いものにしはじめる。
そしてひとたび自我が入り込めば、体験は消えてしまう。
けっして言いふらしてはならない。

もしそういった体験が起こったなら、
ただそれを理解し、留意して、
それにまつわることはみな忘れてしまいなさい。


本さて、これらの三つの体験はすべてこの世で得ることができる。
本だが、これですべてを説明しつくせたわけではない。


この三つの体験は実際に起こりうる。
だが、それを体験したとしても、
それを言葉にすることはできないだろう。

それに、ここで言われていることはみな象徴にすぎない。
ほんとうの体験は語ることができない。
言ったことはみな嘘になってしまう。

それを口にすれば、
真実を曲げてしまうことになる。
真実は語ることができない。

だが、それでも私たちは何かを言わなければならない。
「神々が谷間にいる」「からっぽの部屋が明るく輝く」
「精神が高みに帰る」または「精神が天に帰り、その頂点に触れる」
――こういった隠喩メタファーが編み出されてきたのはそのためだ。

これらはあるものを指し示す象徴、隠喩にすぎない。
が、体験は広大無辺だ!


本各人の気質や性癖に応じて異なった現象が現れるからだ。


これもまた覚えておかねばならない。
こういったことすべてがあなたに起こるわけではないかもしれない。
あるいは違った順序で起こるかもしれないし、
違った形で起こるかもしれない。

人はみな本当にひとりひとり違っているから、
起こりうることがらも数限りない。
これらの体験は、ある人には
ここに描かれているような形では起こらないかもしれない。

例えば、ある人には上昇してゆくような感じは起こらずに、
どんどんどんどん身体が大きくなって、
部屋中に広がってゆくような感じが起こるかもしれない。
身体はさらに広がり続け、家はその人のなかにすっぽりおさまってしまう。

それはひじょうに戸惑う体験でもある。
人は目を開けて、何が起こっているのか見たいと思う。
「私は狂ってゆくのだろうか?」――

そしてまた
「全存在は私の内側にある。私はよそ者ではない。
<存在>は私の外にあるのではなく、私の内にある。
星は私の内側をまわっている」と理解する瞬間が訪れてくることもある。

あるいはどんどん小さくなって分子になり、
ほとんど目に見えなくなり、
ついには原子になって消えてしまう
といった体験が起こる人もある。
それもまたありうる。

パタンジャリは起こりうる体験をすべて網羅している。
気質、才能、潜在能力は人によってそれぞれ違う。
だから体験はすべて人によって違う起こり方をする。
それはこれに似たことが起こるかもしれない
ことを示唆しているにすぎない。
だから、狂うのではないかとか、
何か異様なことが起こりつつあるなどと
考えてはいけない。


本こういった現象は、人が水を飲んで、
本その冷暖をおのずから知るような性質のものである。


それは体験することだ。
水を飲んで、その水が冷たいか暖かいかわかるのはあなただけだ。
喉が渇いているなら、
それで渇きがおさまるか、ますますつのるか、
それがわかるのはあなただけだ。

坐ってあなたを外から観察している者には、
あなたの内側で何が起こっているのかわからない
――渇きがおさまるか、ますますつのるか、水は冷たいか暖かいか
――誰も外側からうかがい知ることはできない。

水を飲むあなたの姿を見ることはできても、
あなたが味わっている体験を味わうことはできない。

人々はあなたが瞑想しているのを見ることができるが、
内側で起こっていることを見ることはできない。

ここにやって来て、
人々が瞑想しているのを観察してもいいでしょうか
と尋ねる人が大勢いる。
私は言う――
「どうやって観察するつもりかね?」
観察することができた者はひとりもいない。

みんなが坐ったり、踊ったり、歌ったりしているのを
見ることはできるが、それは本当に起こっていることではない。
瞑想は彼らの内側で起こっている。
それは彼らにしか見ることができない。

だから、ほんとうに見たいのなら、
あなたも参加しなければならない。
あなたは瞑想者にならなければいけない。
それが唯一の道だ。

それは借りるわけにはゆかない。
誰もあなたに知らせることはできない。
だから見物人としてここにやってくる者たちは
時間を無駄にしているだけだ。
こういったことは参加してはじめて知ることができる。


本それと同じように、
本人はこれらの体験を自分で確かめてみなければならない。
本そのときはじめてそれは本物の体験になる。


呂祖が言っているからといって、
それを鵜呑みにしてしまってはいけない。

ただ彼を理解しようとするがいい。
それはあなたの記憶にしまっておきなさい。
こういったことを信じる必要はないし、また疑う必要もない。
ただそれらを記憶のすみにとどめておきなさい。
そうすれば機が熟して何かが起こりはじめたら、
いつでも理解することができる。
これはあなたが道に迷わないように
地図を与えているだけのことだ。

なぜなら、内なる旅の道程にも
道からはずれる地点がたくさんあるからだ。

人は思い違いをしかねない。
恐怖に駆られ、怯えてしまいかねない。
人は内なる世界から外界へと逃げてしまいかねない。

こういった体験は断じて人を怯えさせるようなものではないが、
あなたの解釈がそれを恐ろしいものにしてしまうかもしれない。

考えてもみるがいい。
ある日、目を開けると自分の身体が見えない。
あなたの解釈は恐怖を煽ってしまいかねない。
「これは紛れもない狂気のしるしだ」と。

あなたは瞑想をしなくなり、
瞑想を恐れるようになってしまうかもしれない。

なぜなら、こうなるともう次に何が起こるか、
どこへ進んでゆくのか、どこへ向かってゆくのか、
誰にもわからないからだ。

あなたは体験全体に疑いの目を向けるようになる。
あなたは自分が神経症になりつつあると思い込む。

毎日のように人々は私のもとにさまざまな体験を抱えてやって来る。
自分たちの体験を口にするとき、
彼らの顔や目に恐怖を見てとることができる
――彼らは恐れている。

私がそれはよいしるしだと言うと、ただちに空気が変わる。
彼らは笑いはじめる。
彼らは嬉しくなる。
「これはすばらしい」「あなたはよくやっている」
「あなたはうまく成長している」
といった私の言葉を聞くやいなや、
その場でただちに大きな変化が起こる。
悲しげな顔つきは消え、飛びあがって大喜びをする。

何も変わってはいない。

彼らの体験は同じだ。

ただ私が違う解釈を与えただけだ。

彼らは知らなかったので怯えていただけだ。

こういったことがらは信じる必要もないし、無視する必要もない。
ただいつかその時がきたら正しく解釈できるように、
記憶の片隅にとどめておけばいい――

そして正しい解釈には<このうえもない>意義がある。

それなくしては内なる旅はきわめてむずかしいものになる。
きびすを返し、世間にもどって、まともな人間になりたいと
思う地点がたくさんある。

人は何か異常なことが起こっていると思いはじめるが、
「異常」という言葉には非難が込められている。
瞑想を一度もしたことがない人々に話したら、彼らは言うだろう。

「精神分析医か精神科医のところへ行ったらどうだい。
診てもらったほうがいいよ。
君はまったくおかしなことを言っている
――身体が大きくなるだって!
理性をすっかりなくしちまったのかい?
身体が浮かびあがり、重力が消えてしまうだって?
あるいは、どんどん小さくなってゆき、消えてしまうだって?
君は幻覚を見ているんだよ、まぼろしの餌食になっちまったんだ。
精神科医のところへ行きたまえ、
君をちゃんともと通りにしてくれる、
君を治してくれるよ」

そして、精神分析家や精神科医のもとへ行ったら、
<確かに>彼らは治してくれるだろう。
彼らは自分たちのいわゆる知識でもって
あなたの頭をぶっ叩くだろう。
彼らは瞑想に関しては何も知らず、
瞑想はまだ彼らの意識のなかには入っていない。
彼らは道の途上で起こる体験に関しては何も知らないが、
狂った人々のことならたくさんのことを知っている。

そして、ここでひとつこころにとめておくべきことがある。
それは、瞑想者にも起こるが狂人にも起こる
類似した体験がたくさんあって、
それらがひじょうに紛らわしいので、
精神科医はまず間違いなく
「この人は狂っているから、治さなければならない」
と見たてるだろうということだ。

彼はあなたを狂人として治療する
――彼はあなたに薬を飲ませ、注射を打ち、電気ショックを与え、
正常な精神状態に連れもどす。
彼はあなたの瞑想への可能性をすべて台なしにしてしまうだろう。

今や西洋ではこうした大きな危険がある。
瞑想を学んでいる人々が西洋にもどり、
自分たちの解釈を超えた何かが起こったので、
それを聖職者に話したとする
――キリスト教の聖職者は瞑想のことはまったく何も知らない――
聖職者は彼らを精神科医のもとへ送り込む。
精神科医に話しても、彼が知っているのは狂人に関することだけであり、
覚者(ブッダ)に関してはまったくの無知だ。

しかも彼らの体験のいくつかは似かよっている。
医者はきっとこう解釈するだろう
――あなたは正常な状態から転落したのであり、
引きもどしてやらねばならない。

そして彼がやることはどれも破壊的であり、
あなたの身体、あなたの精神に打撃を与える。
その害があまりに大きいので、
あなたは二度と再び瞑想に入れなくなってしまう
――医者はそういうひどい障害をつくりだしかねない。

だから、ときに何かが起こったら、
必ず瞑想している人々のところへ行きなさい。

世界中にセンターを開きなさい、
と私がしきりに言っているのはそのためだ。
そうすればそこでサニヤシンは瞑想することができるし、
何かが起これば他のサニヤシンに会うことができるし、
体験を分かち合いに行くことができる。

少なくともそこには共感を示してくれる人が誰かいるだろう。
少なくともあなたを非難しない人がいるだろう。

その人は
あなたの体験を尊重し、
あなたの体験を受け入れ、
あなたに希望と霊感を与え、
「それでいい、先へ進みなさい。
 もっと多くのことが起こるだろう」
と言ってくれる。

まさにこのために師が必要とされる
――あなたが信頼を寄せることのできる誰か、
ただ
「それでいい、もっと先へ進みなさい」
と言ってくれる誰かが。

そこでようやくあなたは前進することができる。
その旅は危険に満ちているからだ。
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本文はここまでです。
以下に、感想・ご意見・質問等をコメントとして書き込めます。
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 第21章の経文 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=67708518&comm_id=4419288
トピックの先頭 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=68388363&comm_id=4419288
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知らないことへの恐れは、
まだ体験していないことへの恐れでもある。
恐れを、信頼に変えることができれば、
先へと進める。

私も、おおいに、けつまずきながらだけどうれしい顔
すすんでいくつもりわーい(嬉しい顔)

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