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OSHOの黄金の華の秘密を読むコミュの感想・意見・質問(全体に関するもの)

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コメント(74)

私の記憶からですが、

Oshoは、

「プライベートなことも含め、手の内をすべてオープンにした。」

それと、『 Real esoterics simply means the science of knowing thyself. 』

という言葉が浮かんでいます。


夜も遅いし、すれ違いのままになりそうですし
もう2人を相手にするのは疲れそうなのでこれで終わりにします。
Good-Night夜
猫 わー にぎやか!

おめでとう??? 猫
にゃんこちゃん、

こないだ、誕生日やったんやね。
おめでとうバースデー
バースデーありがとう!

もう還暦‥ すごいでしょ?
もう、隠居かな(笑)

歳めぐり、光巡り、また楽しからん 春の日々 ‥‥ バースデー
> もう還暦‥ すごいでしょ?

うん、びっくりした目

でも、猫さんの歳と『精神の若さ』は、関係ないですよね。


> 歳めぐり、光巡り、また楽しからん 春の日々 ‥‥ 桜
私もマインドが還暦だ。

よし、隠居しよう。

(と、マインドが語る。)湯のみ
湯のみ すぎと!

ぱちぱち!!魚

座布団 一枚!!魚

おめでとう!バースデー魚
え〜と、寄り道あっかんべー

以前、ネットで読んだことを思い出したので、ここで書きます。
その文章は、もう見つけられないので、リンクはありません。

このようなことです。
仏陀が光明を得る前に、
その当時インドで知られていた瞑想方法をすべてやったことになってます。
その中に、サマタ瞑想もあったらしいということです。
サマタとは、集中ということだそうです。
たとえば、意識を高いレベルに集中して、無心の状態を生み出すらしいのですが、
なにしろ、集中しているときは、その状態を維持できても、
集中を離れたら、元の無意識な状態にもどってしまう。

仏陀は、それにホトホト困っていたらしい。
集中というのは、一点に緊張しているのと同じなので、
いつまでも、できないというのもあります。
一点に緊張しているのが、収束されたときに、
その緊張が落ち、ゆるんだなかで、無心を垣間見るということはありえます。

仏陀は、あらゆる技法をやっても、永遠の平安が得られなかったので、
もう、なんの希望も欲望もなくなってしまった。
光明を得たいという欲望すら、バッタリなくなったわけです。

あとは、みなさんがご存知のとおり、
ぼていじゅだったか、樹の下に座って、明け方を迎える。
修行で弱った体を娘さんにもらった乳粥だったかで、
体もくつろげただろうし、それ以上に、
心には、なんの欲望の雲もなく、まさにくつろぎのなか。

ずいぶんと長い間、なんの期待もなく、ただ待つ。
なにを待つか知らないなかで、
そんな心身がともに、ひとつになったところに、観照が立ち現れる。
その観照者こそ、本来の自己であり、個人という個はないと悟っただろうね。
このへんは、言葉は無いまま、観照者とひとつだね。

たぶん、あすに続きを書くかも。
私が読んだ説では、仏陀は光明を得たあと、
ヴィパッサナ瞑想を再発見したということになってました。
仏陀は、そのヴィパッサナ瞑想を弟子たちに教え、
今日まで、この世界ではヴィパッサナ瞑想は、途切れずに続いているようですね。

私自身は、ヴィパッサナを意識して、その瞑想をやってるわけではありません。
気づきを持って油断なく、自分自身を見守ることが
自ずと起こっているときが、何度もあったので、
とくに意識して、ヴィパッサナ瞑想をやろうという気は起こりませんでした。

そういえば、こんな感じを受けました。
あっ、このサマタ瞑想という、集中瞑想なら、
何度も何度も、やったことがあるなぁです。今の人生ではなくて。
これは、雑念は無視し、無心に焦点をあてることで、
その無心の状態を体験するのですが、
集中がとぎれてしまうと、また雑念にどっぷりという感じだったようです。

OSHOの瞑想の本、「新瞑想法入門」では、
ヴィパッサナには、三つの方法があると書かれています。
まず一つ目は、自分の行為、肉体、思考、感情に対して気づいていること。
自分の体の動きに油断なく醒めていること。
思考についても、感情についても、何が通り過ぎようが、
なんの判断もなく、自己同化もなく、観照者のままであること。

二つ目は、呼吸に気づくこと。
腹に息が入ったり出たりの動きへの気づき。

三つ目は、息が鼻孔から入ったり、出たり、
鼻の先端で息を感じること。

ヴィパッサナは、見守ることのコツをつかむ練習のようだなぁ。
どんな瞑想であれ、見守ることに気づく、
あるいは、中心に気づくようになっているようだ。
なぜなら、それが二元性を超えて、、、
ひとつのエネルギーにもどることだと思えるから。。。
またまた、寄り道蠍座
アニムス、アニマの話から、だいぶ脱線します。
そのたとえ話は、置いといて、、、

OSHOの講話の中では、マインド、ハートという言葉はおなじみですね。
マインドという言葉は、OSHOが使っているので、覚えました。
ハートという言葉は、子どものころから、
すでに日本中で使われていたので、知っていました。

このマインドとハート、
どちらも、日本語では心(こころ)って、翻訳されますね。
マインド(心)、ハート(心)って牡羊座

マインドは頭を指し、ハートは心臓を指すことがありますね。
心は、頭を指し、心臓を指すことはあったのかしら。
心は、思考とか感情とかの入れ物(うつわ)みたいなものかなぁと私は思う。
ということは、日本では、
心の中に、マインドとハートがまるごと入ってしまっていたんだ電球

OSHOの語りの中で、
昔の日本人に、マインドとはどこかって聞くと、ハラを指した。
という話が出てくる。
現在人は、知識偏重教育のおかげで、
マインドとは頭を指し、心の中は考え事でいっぱいなまま、
緊張して生きるのがあたりまえになってる。
ハートの感情は、おおっぴらにはできずに涙

心が、マインドとハートに分離してしまって、
本来の心の広さが、なくなってしまったんだ。
OSHOがマインドでっかちになった現在人に、
ハートに降りてくるように、何度も言っていたのは、そのためだね。
まず、分離した心をひとつにするためだろうか。
心がひとつになったら、
心と身体もすぐにひとつになれるかしらおにぎり

世の中は、だいぶ変わってきたんだろうか。
20世紀のときとは、やはり違う。
何が違うって、私自身がすでに違うからね。
今、読みなおして気づいたんだが、
現在人になってる、現代人のつもりだったけど、
まぁ〜、いいかぁ〜わーい(嬉しい顔)
休憩中コーヒー

全体に、コメントするのに、あきてきました。
「黄金の華の秘密を読む」このコミュですが、
もともとは、OSHOリードのダイナミック瞑想キャンプのなかで、
その本を少し回し読みしたことで、始まったんですよね。
(私はそれには参加しなかった)

文章だけだと、ダレてきます。
OSHOの声が入ったダイナミック瞑想キャンプは、
やはり必要かなと、思う。
このOSHOの声を使ったから、参加者全員に効くというわけではないね。
あっ、でも、それぞれの状態が違うので、
それぞれに、それなりに効いてはいるらしいけれど。

OSHOの声のリード、ダイナミック瞑想をやったあとに、
ここで、紹介されている瞑想法をやるのがベターかなぁと思う。
今年の終り頃までに、ハップンしたらいいとは思うけど、
誰かやる人はいませんか。
わたしゃ今、金欠だけど、そろそろ動きたい。

クリシュナの瞑想キャンプに参加したほうが、早いのかな?
さてexclamation & question
おはようございますあっかんべー
やっと、また、もどれた〜。

弟子の用意が、準備がととのったら、
全存在というマスターがあらわれ、こと、ハプニングは起こる。
ことが起こっていないとしたら、
ただ、それは準備ができていないということだ。

だから、ことが起こるのは、ことにまかせて、ただ準備をしたらいい。
瞑想だ、瞑想だ。
瞑想とは、思考をめぐらすことではない。
瞑想とは、思考、感情が幻想だと気づいて、
思考、感情に、えさをやらなくなることだ。
言葉に、えさをやらなくなることだ。
で、みな、準備はいいかいexclamation & question

私個人は、内側でやることは、終わった。
あとは、存在にまかせよう、すぎと。
もう、どこかに行く幻想も、幻想だった。
すでに、今ここで、よしハート達(複数ハート)
脱線だぁ〜コーヒー

エンライト、光明ということで、引っかかっていたので、
OSHOの本、タイムズなどを、読み返している。
で、きのうは、「狂人ノート」を読んだ。
タイトルが狂人になっているけれど、私なら「普通ノート」にしたいところだ。
ただし、そのタイトルじゃあ、誰にも興味をもたれないねブタ

そのOSHOの「狂人ノート」より、
  
  わたしは感謝している。。。
 マスターたちは皆、自分の弟子に感謝してきている。
 というのも、弟子は、師よりもずる賢いからだ。
 老子は、荘子のほうがずる賢かったゆえに荘子に感謝していた。
 わたしは、荘子が師ほどは素晴らしくなかったと言っているのではない。
 が、師よりはたしかにずる賢かった。
 仏陀は、マハカーシャパのほうがずる賢かったゆえに
 マハカーシャパに感謝していた。
 そして、それは今までずっとそうだったし、これからもずっとそうだろう。
  わたしのほんとうの弟子たる証拠を示しなさい。
 わたしもまた有難うと言えるように。
 そのとおり、ありがとう、ありがとう。
 神は満足している。。。

  世界は、非凡なものを見るためには、
 普通の小さなものごとを見なければならない。
 だからこそわたしは、自分は光明を得ていないと言う。
 光明と無明は全体の二つの局面だ。
 しかし、全体は、
 「わたしはもはや光明を得ていない」と言える者しか知ることはできない。
 たとえば、このノアの方舟の外ではそういう人間はただ一人しかいない。
 J.クリシュナムルティだ。
 だが、彼はあまりに光明を得てい過ぎる。
 彼もまた、無明の者にならなければならない。
 それでこそ初めて彼も<全体>となる。
  これゆえに、マスターの眼を見るというのは、
 無知の眼を見るということだ。
 眼を開くのはむつかしい。
 だからこそ、わたしはまだ肉体の内にいる。
 約束は果たされねばならない。

  わたしの眼の涙をぬぐっておくれ。
 わたしは光明を得ているふりをしなければならない。
 そして、光明を得ている者は涙を流さないことになっている。。。

波
そうだった。

>光明と無明は全体の二つの局面だ。

イエス、OSHO、オッケイだぁ〜泣き顔
この黄金の華の秘密を読むコミュは、
もともと、石裂山(おざくさん)で行われた
OSHOリードダイナミック瞑想キャンプで
その本読みをしたことから、始まっている。
コミュの翻訳公開は。だいぶあとでしょうけれど。
(あっ、その本読みには参加してなかったので、
ここでのコミュの参加がおくれました。)

私が言いたいのは、
マインドを超えてしまったOSHOのリードというのは、
リードなきリードだなぁと。
そこには、自我というエゴはきれいサッパリ消えている。
誰もリードする人がいないのにリードが起こっている。

これは、エゴの死、過去の死、未来の死、
思考の死、感情の死、
この有限にある、限界のなかにあるものすべてに、死が起こらないかぎり、
それに気づけないし、それを感じない。
無意識が、すべて意識にのぼらないかぎり、それがわからない。

それでも、その無意識から、何か反応しているということはある。
その反応に、耳を傾けたなら、
意識への探検、旅が、成長が始まる。。。
ここでプラボードに質問。
13章で終わりだと、なぜか勘違いした、私。
14章まで続いてる。
そろそろ、14章が最終章かしら?

英語版を、読みに行ってないので、知りません。
英語で読む気力がありません。
だから、とても、助かってます。
プラボード、ありがとうございます。

実は、プラボードがこの翻訳を始めたのを見て、
私も、もう20年前に買った英語版の本の、
翻訳を再トライしてみようと思い、ちょっとやったのですが、
すでに、ギブアップしてます。

ということで、
日本版になっていない本の翻訳をやってほしいような気がするのだけど、
どうなんでしょう? プラボードさま。
これって、ありなのかどうかも、わからない。
とりあえず、質問ですexclamation & question
>すぎと

英語版の黄金の華の秘密(The Secret of Secrets)は、Vol.1とVol.2があって、
会わせて31章あります。
(Vol.1とVol.2の境は、単に1冊の本に収まらないので、真ん中でぶったぎった
 だけのようです)

今14章まで来ているのですが、今のペースで行っても、31章まで載せるのに
あと2年近くかかるので、気長におつきあい下さい。

他のOSHOの講話の翻訳は、やりたい気持ちは満々です。
ただし、翻訳に時間がかかるので、本格的にやるのは、黄金の華の秘密の
翻訳が終わってからかな・・・

できるかどうかわからないのですが、密かに思っているのは、OSHOの
ダンマパダ(法句経)です。この英語版が全部で12巻あり、全巻持って
おり、2年近く掛けて読みました。
ダンマパダは、日本語の本としても、出版されていますが、1巻だけです。
(英語版の何巻に対応するか知りませんが)

これを、この黄金の華の秘密のように、訳しながらmixiに載せていくのも
いいなと思っているのですが、何年かかることやら。
(計算するのも恐ろしい)

まぁ、気が向いたらそのうち始めるでしょう・・・あせあせ
>51 の補足

インターネットで検索してみたら、OSHOのダンマパダの日本語訳の本は、
現在2巻目まででているようです。
なので、今後シリーズで3巻以降も翻訳されて出版されるのかもしれません。

でも、黄金の華の秘密の日本語版のように、質疑応答の章はカットされて
いるので、それを翻訳する意義はあるかもしれません。
31章、うわぁ〜。
すごいね。ありがとう目がハート

私自身のエネルギーというのは、限られていて、
OSHOの英語版を読むのに、回らないというのが、
再認識されて、良かったです。

自分が、この肉体にいて、
今、エネルギーを最大限に使うことが、カギだなぁ。

他の人から見て、完璧じゃなくて、欠点があるように観えるけど、
それでも、最大限に使う方向性というのが、
今この瞬間にとどまるということだと、わかる。
何度も見失いながらだけどわーい(嬉しい顔)

今この瞬間は、いつも滑りおちていくので、
この瞬間この瞬間この瞬間と、次々にあり続けるというのは骨が折れる。
それが実感として、わかる。

確か、13章あたりの発表で、
読むのを、ギブアップしてました。
もう、いらんわって、感じで、引っ込んでいたのでした。

自分自身とは、ということへの再発見みたいなことは、
もう終わってしまっている。
で、ここで終わって去ればいいのだけど、
これで終わりではないと、うるさいの。〈言葉で聞こえてくるわけではないけど)

なまけたいし、だらけたい。
こんな状態で、怒りが表面にやってくるので、
何を、これから自分はやるのか、わからないまま、
動き出しました。私のなかで。

とりあえず、わからないまま、読み続けます。
それに対して、コメント入れ続けるようです。
一瞬先のことは、わからない。
流れるままに。

ではでは満月波満月波満月
僕自身も、翻訳が自分の意志を超えて続いていることに、
自分で驚いています。
翻訳は、僕にとっては苦痛ではなくて、喜びになっています。

まぁ、黄金の華の秘密の翻訳が終わった後のことは、今から
考えていても、そのときには、そのときの風があるから、あまり
意味ないかもしれません。

今でも、奇数章を載せているときは、(翻訳不要なので)余裕が
あって、OSHOの他の講話を部分的に翻訳したりしています。

すぎと、いつもコメント、ありがとうね。ハート
>災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。
>死ぬる時節には死ぬがよく候。
>これはこれ災難をのがるる妙法にて候。  良寛

良寛の時代にも大きな地震があり、
家はつぶれ、死者が何人かでたらしい。
誰かの安否の便りに、良寛はその返事をしたらしい。

災難にあったら、災難に直面するがいい。
死がおとずれたら、死に直面するがいい。
これこそ災難をのがれるコツなのだ。

面と向かえと言っているね。
↑ これが「ハラにいる」ということですね。

「ハラにいる」というのは、マインドで強制するもんじゃなくて、
瞑想的に気をつけていることからくる、結果だというのが、
今回の震災の中で経験したことでした。
日本という国、
禅の流れでは、「ハラにいる」というのは、ポピュラーな言葉だけど、
私にとっては、
それは、日本のなかでの個としての体験を指す言葉だと思います。
集合の中の個ではなく、ほんとに個としての個を体験したときのね。

私は、我ながら、個として日本人を、
そんなに体験していないような感覚があります。
だから、ハラという言葉も、より日本人に近い人が感じる体験かなぁと思います。
すべての体験は心のなかの出来事です。
その心のなかの現れが、すべて現象するわけではないけれど、
逆に、目の前に現象したことは、集合的な心の深層に現れてたってことになるね。
突然現れたように感じるから、
私も地震だぁ、うわぁ〜、津波だぁ〜、うわぁ〜って、なるなる。

私の感覚では、
プラボードが言う「ハラにいる」という言葉は、
「中心にいる」という言葉と同じです。
もっと、さらに言うと、
「頭にいる」ということが、「煩悩」だとしたら、
「ハラにいる」ということが、「悟り」だということです。
「頭にいる」ということが「周辺」だとしたら、
「ハラにいる」ということが「中心」だということです。

そして、煩悩と悟り、周辺と中心、
これも、2元性だと理解してしまえば、
煩悩即悟り、周辺そく中心ってことが、なんとなくわかる。
この2元性と同調しないことが、エンライトメントを超えるってことになる。
これを、みなに、説明したいけれど、ほんとは説明できないだよ。

まぁ、ありがとうかなぁ。
こんにちは。

今、手元にある、英語版のOSHO禅タロット。
そのXXI Completion(21番 完成)に書かれた、
OSHOの言葉を入れていきますひよこ

英文
This is the way of Zen, not to say things to their completion.
This has to be understood; it is a very important methodology.
Not to say everything means
to give an opportunity to the listener to complete it.
All answers are incomplete.
The master has only given you a direction...
By the time you reach the limit, you will know what is going to remain.

This way,
if somebody is trying to understand Zen intellectually he will fail.
It is not an answer to the question but something more than the answer.
It is indicating the very reality...
The buddha nature is not something far away ---
your very consciousness is buddha nature.
And your consciousness can witness these things
which constitute the world.
The world will end but the mirror will remain, mirroring nothing.

慣れぬことやって、ちょっと、疲れちまったわーい(嬉しい顔)
次のコメントにて、
翻訳したものを、入れたいたいと思います。

あそびですひよこひよこひよこ
以下翻訳。訳者すぎとひよこ

これは禅の道(やり方)だ。
成就したことを黙っているのが。
これは理解されないといけない。
それはとても大事な方法なのだと。
なにもかも黙っているのは、
それを成就するのに聞き手になる機会を、
本気で与えようとしているのだ。
すべての答えは未完成だ。
マスターは、ただあなたに方向を与えるだけだ。
あなたが限界に達する頃には、
何が残りそうなのかわかるだろう。

このように(この道は)、
もし誰かが知的に禅を理解しようとするなら、
彼は失敗することになる。
それは質問に答えないが、答え以上の何かなのだ。
それはまさに真実を指し示している。
仏性ははるか彼方にある何かではない。
あなたのまさに意識が仏性だ。
それから、あなたの意識は、
世界を構成する物事を目撃することができる。
世界は終わるが、鏡は残り何も映さない。

翻訳、簡単そうに見えて、かんたんじゃないわーい(嬉しい顔)

存在に、感謝ペンギン
すぎと、
Oshoのいい話の紹介をありがとう。プレゼント ・・・ハート

OSHO桜

>私のジョークはジョークではない。
>みんなの不意をつくための手段だ。
>ジョークを聞いているとき、
>人は「落ち」を聞き逃すまいと集中する
>・・・これが施術に絶好の機会となる。

>単純なものは、時に偉大な経験をもたらす。
>存在にとって「単純」も「偉大」も違いはないからだ。
>ジョークが霊的な成長に使われたことはなかった。
>あらゆるメソッドが使われてきたが、
>ジョークを用いる勇気のある者はいなかった
>・・・事の全体を不真面目なものにするのを恐れたのだ。

>私は平気でジョークをメソッドとして使う。
>私にとって、深刻さはスピリチュアルではないからだ。
>それは単に心理的に病んでいることにすぎない。
>陽気であること、ほほえんだり笑ったりすること・・・。

>笑いこけるとき、エゴは消える。
>ジョークは人を殺さず、血も流さずにエゴを殺す。
>笑いのただ中で、あなたは突然いきいきする。
>たまっていた埃がいっぺんに吹き飛んでしまうのだ。

OSHOコーヒー
インタビュー記事、目崎茂和という生き方 より

「地理学」「珊瑚礁学」「環境学」「風水学」そして「神話学」…その全ての学問領域において、大学教授という職を辞した現在も第一人者であり続け、その異様なまでの存在感から、『帝都物語』の作者である荒俣宏をして「怪人」と呼ばれた男、目崎茂和。

目崎:たとえば沖縄で「ガンバレ」は「チバリヨー」って言うんだけど、「チ」っていうのは中国語で言うところの「気」の意味だからね。で、その「チバリヨー」っていう言葉が東進すると、大阪弁の「気を張れ=キバレ」になるわけ。さらに京都弁だと「おきばりやっせ」になる。それが関東に行ったときに「ガンバレ」に変わるんだよ。なんで「気を張る」っていうのを「頑張る」としたのか。そこに日本語の面白さがあるんだよな。まあ次はそういう本を書こうと思ってるんだけど(笑)。
がんばれって、気張れだったとは、
目からウロコexclamation ×2
「気」という言葉をつかうなんて、思ってもみなかった。

気を張りつめることと、
気を巡らすことは、おなじじゃないけど、
なんとなく、方法が、ちがうだけで、
いたるところは、おなじだとおもう。

深く入っていけば、
深く入ったところは、おなじひとつだよねと、
ひとりごと湯のみ
新しいシリーズを、はじめたい。
といっても、わたしの内なることやから、
個人的すぎるかもしれない。

まず、わたしは、
年長さんだったか、小学1年かどっちかのとき、
おかあさんに連れられて、どっかに行ったかえり。
あたりも真っ暗な夜。
わたしは、おかあさんの手をにぎりながら、
夜道をあるいていた。
ほんとに、眠くて、うとうとしながら、あるいてた。
とつぜん、電信柱に、あたまをぶつける。
目が覚めたはいいけど、ぶつけたとこが、いたくて、
うわぁ〜うわぁ〜泣いてた。

この瞬間に感じた。
本気で目覚めるのに、親をあてにできないのだと。
この瞬間に感じた。
前世からのやり残してきた 続きをやるのねと。

身体を見守ること。
思考を見守ること。
感情を見守ること。
この3つを同時に見守ることが、いちばんむずかしい。
ていうか、わたしには、できない。
だから、ひとつずつトライする。

身体だけを見守ること。
身体を内側から見守ること。
これが、できたあとに、
思考や想念だけを見守ること。
考えがよぎるのを、内側から、見守ること。
これが、ほぼ、おわりの状態で、
今世にはいったらしい。

数年前から、感情だけを見守ることに入っていたけれど、
感情に同化しすぎて、見守ることが安定してなかった。
今やっとこさ、ほぼ、おわりかなぁ。
感情というのが、だいたい、わかってきたから。

わたしの場合は、
なんらかの観念にとらわれてたら、感情がでてくる。
自分の思いや考えだけが正しいんだぁ。
そんな潜在した自己主張があると、でてくるみたいあせあせわーい(嬉しい顔)
> すぎと

ここ数ヶ月体調がよくなくて、「黄金の華の秘密」の講話を
掲載するスピードが遅くなっていて申し訳ないのですが、
翻訳は継続しています。

今日もこれから1トピック分を掲載予定です。

この講話を載せていくことは、もう僕のライフワークになって
いて、とても楽しいというか、使命というか、これを中断する
ことは考えられなくなっています。
このため、この講話シリーズはこれで最後まで継続してゆきます。

31章まであるので、あと9章分で翻訳する必要があるのは、この
うちの半分です。もう1年か2年か、調子をみながらの作業です。

今までもそうしてきたのですが、「黄金の華の秘密」を翻訳す
るのと並行して、興味のあるOSHOの講話を翻訳して、このコミュ
や別の場所に載せていました。

もし載せてほしい講話があれば、リクエストしてもらうと、
翻訳できるかもですハート

言葉は、あれやけど、
わたしが言う新しいシリーズとは、
OSHOの他の講話のシリーズを指してないです。
あしからず。。。

だから、ほんとにわたし個人の、
個人的な新しいシリーズのことです。
勘違いさせたようなので、ごめんなさいね。

わたし個人は、生き生きとした静かな静寂というか、
そこに、ひとりひとりが、気付いて欲しいという
感じはあります。
でも、これは、人に押し付けることはできません。

静寂の方向に向かないのは、ちょっと残念かなぁと、
自分で自分に感じることがあります。
感情にとらわれると、
ほんとに、感情にとらわれちゃってるからね。
これは、そういうときもあると、
ただ気づけば、いいだけかも。

プラボードの掲載のスピードがおそいとかは、
ぜんぜん気にしてなかったので、
マイペースで、好きなように進めてくださいハート
体調わるいときは、無理せずにね。
体調がわるいときは、体の声を聞くのに、
絶好のチャンスやね。

さいごに。
みなさん、最近いろいろ内面に変化はありませんか。
わたしは、あります。

では、では湯のみ
> すぎと
あはは、「新しいシリーズ」は、僕のとんだ誤解でしたね。ふらふら

> 体調がわるいときは、体の声を聞くのに、
> 絶好のチャンスやね。

そうそう、仕事でもなんでも、つい突っ走る性分があるので、
身体の声を聞くのは大事だと気付いたところでした。

> みなさん、最近いろいろ内面に変化はありませんか。

311の東日本大震災の後、生命の危険を目の当たりにしたせいか、
腹が据わって、内側を見るのが自然になったのですが、
最近(一時忘れていた)その感じがまた戻ってきました。

次の大きな震災や火山噴火が迫っているからなのか(?)
あの幼少のころの感覚がもどっているわけではないけれど、
あの感覚にもどれて、日々の世界を、あらたに見つめなおせたら、
どんなにか、うれしいだろうかぁ、とおもう。

でも、そういうわけには、いかないようなので、
現状を受け入れつつ、また、あゆんでいきましょう
という、じぶん確認をしているところでしたわーい(嬉しい顔)

新しい流れは、自分で創るもののようです。
この感覚に、今、すご〜く、とまどっています。
で、第一歩ですかねハート達(複数ハート)わーい(嬉しい顔)
おはようございます。ごぶさたしてます。
ひょっとしたら、だれも、ごぶさたしてないかもですが。

ひとり、ほとり、という、せかい、
いかにも、いかにも、ほんとは、だれも、いない、
エネルギーが、みちた、あそびが、
ここ、かしこ。

あたらしい、エネルギーにのって、はじめましょう、
なにが、おこるか、起こらないかは、
わたしじしんも、ほんとのところは、わからないけれど、
いま、ここ。
ねぇ、ママー?
勇気って何かなあ?

本当の私って、誰? って
全霊を込めて問い続けることよ・・・ハート

http://bit.ly/147hlqs
プラボード さま
お誕生日、おめでとうございます富士山

コメント復活したいと、おもいます。
アイデアとして、1年以上まえから、あったのですが、
気がのらなくて〜〜〜〜〜〜〜、
今日まで、来てしまいました。

質疑応答の偶数の章だけ、
新たに、はじめから読み返して、
コメントをつけていくという、感じがあったのです。
OSHOの英語も読んでから、コメントをつけるという。

英語読みが、どうも、進まなくて、ギブアップ。
どっちにしても、
英語文、読みを、ずっと、さぼってきたので、
最近は、家にあるOSHOの英語本を、
少しずつ、読み進めてます。
知らない単語をノートに書き取っては、
インタネット辞書で意味を調べては、書き加える。

なんてことやってたら、
だんだん、英語文、読むのに、慣れてきたわ。
でも、急に、スラスラはムリなので、
マイペースで、少しずつ、偶数章、読み始めていきたい
とおもいます。

いちおう、なんらかの行動をはじめないとなぁと。
宣伝しておいてから、
気おらずに、気楽に、はじめるきっかけを、
自分で、創りましたわーい(嬉しい顔)
すぎと、どうもありがとうハート

4/6からの3週間の瞑想キャンプ参加もあり、
mixiから遠ざかっていたのでこのコメントに気づきませんでした。
ごめんね。

OSHOの英語講話読みは、僕も同じように始めました。
20年以上前のことです。

OSHOの禅シリーズは当時日本語の本が出ていなかったのですが、
瞑想センターで英語の本を見つけて、読めるかどうかわからないまま、
清水の舞台から飛び降りる思いで(^_^);;、買ってきて読み始めました。

最初は、OSHOの使う英語の単語を1つ1つ辞書で調べては、
Excelのメモに書き出していました。

でも、英語はOSHOのネイティブ言語ではないので、
ボキャブラリがそれほど多くなく、
そのうち、辞書の参照頻度がどんどん減っていって、
Excelのメモがあれが、だいぶ読めるようになっていきました。

そうして、センターで売っていた禅シリーズの英語の講話の本を
全て読んしまいました。

調子に乗って、しまいには全12巻もある英語のダンマパダの
講話も2年くらい掛けて読み通しました。

すぎとの努力に敬意を表して、
ふれー・・・ふれー・・・すぎと!
ふれっ、ふれっ、すぎと!
ふれっ、ふれっ、すぎとーっ!
プラボード、どうも、ありがとう。
こちらは、英語読み30年以上さぼってきました手(チョキ)わーい(嬉しい顔)

25年以上前にプーナのアシュラムで買った英語版の本、
何の本か知らなかったんだが、
中国の宋代の臨済宗の僧、Ta Hui 大慧宗杲(だいえそうこう)
に関しての本だった。

禅のことも、他の宗教のことも、全然知らないなか、
なぜ大慧宗杲の本を手にとってしまったのか、
今なら、よくわかります。
自分も、Ta Hui とおなじようなことをやってきたから、
引き寄せたんだわと、笑ってしまいました。

その本をやっとこさ、5分の一、終りました。
日本語に訳してないけど、おぼろげながら、中身がわかります。

このコミュにかかわるのは、
自分の瞑想だと、全体の瞑想だと、はっきりわかってきました。
何度か、ここから、離れてはいましたがねハート達(複数ハート)

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