ニコラ・フラメルは自分の原稿と蔵書をぺリエ(Perrier)という、甥に遺贈しました。ぺリエは錬金術に興味を持っていました。
ぺリエはおじ(フラメル)の薫陶によって利益を得、また、フラメルのような気前のいい賢人的生活を送ったことは間違いありませんでした。
その後200年間、貴重な遺産は父から子へとひっそりと相続されました。それが再び現れるのは、ルイ13世治下のときでした。
まだ粉末(賢者の石)の備蓄を有していたに違いないデュボア(Dubois)、というフラメルの子孫は、先祖の賢明な(慎重な)態度を一変させて、同時代人を幻惑するのにその粉末を用いました。彼は国王の御前で、鉛の玉を金に変えました。
この実験の結果、彼は、彼の秘密を得たいと思っていた枢機卿リシュリュー(Cardinal de Richelieu)と多くの対談をおこなったことが知られています。
デュボアはしかし、フラメルの原稿あるいは、『ユダヤ人アブラハムの書』を理解することができなかったので、リシュリューの問いに何も答えることができず、早々ヴァンセンヌ(Vincennes)に投獄されてしまいました。
リシュリューは彼の財産を没収し、フラメルが所有していた家を差押え、くまなく捜査させました。
この頃、サン・ジャック・ド・ラ・ブーシュリ教会(the church of Saint-Jacques la Boucherie)に、強盗が夜中に侵入し、フラメルの墓石を持ち上げ、棺をこじ開けました。この事件の後、棺が空っぽであったということが分かり、フラメルは生きていて、フラメルの亡き骸は棺に納められることがなかったという噂が広まりました。
いかなる手段を用いてか、リシュリューが『ユダヤ人アブラハムの書』を所持していたと信じられています。彼は達人の原稿を読み通し、神聖象形文字を解釈せんがために、リュエイユ(Rueil)の城に実験室を建てました。彼はしばしばリュエイユに訪れています。
しかし、リシュリューのような政治家にそれを理解できるわけもなく、結局何の成果も得られませんでした。
リシュリューの死後、この本の図版の複製が頻繁に作成されましたが、その文章の方は完全に失われてしまいました。
図版の複製については、カブリエールのセニョール(Seigneur of Cabrieres)に属するその複製を見るために、『Tresor des Recherches et Antiquites Gauloises(研究とガリア遺物の宝?)』の著者が、ミラノ(Milan)に旅したことも17世紀に記録されています。
いずれにせよ、現在、その神秘的な本を見ることはできません。
恐らく、その原書あるいは複製本は、どこか地方の図書館で埃の下に眠っていることでしょう。