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超自然芸術研究所コミュの芸術の地図

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2007.5.31 

http://beinart.org/modules/Word-Press/2007/05/16/satoshi-sakamoto-psychedelic-oils/  

 とあるオーストラリアのアーティストによって運営されている、ヴィジョナリーな作品のサイトがあり、そこでトピック記事として、Satoshi Sakamotoのことを書いてくれている。 

 また先日、ミネソタのギャラリーからオンライン展覧会への誘いがあり、ちょっとしたテーマで篩いにかけるコンペ形式もとりいれているようだが。それはこういう趣旨であった。 

             

             記

「シュールリアルなものや幻想といったものは数百年にわたって芸術家にとっての活動領域であった。しかしながらごく僅かの顕著な具象芸術をのぞいては、そういった芸術はしばしばメインストリームからほとんど無視されつづけている。」 


「量子物理学が目覚める一方、グローバリゼーションと世界を被う不満のもとで、神話や、ニューエイジへの価値観の回帰が続いている。それら全ての思念の、グローバルな人格への流入は、芸術家にグループをつくらせ、かつ彼らは影響力をもつにいたっている。 
 今月の展覧会はそのような戦う芸術家に捧げられるものである。」 

  アーティストの募集
 
「もし、あなたの作品が上記のようなコンセプトを扱うものであり、あるいは過去の巨匠、ウィリアム ブレイク、ヒエロニスム ボッシュ、 ダリ、マックス エルンストなど、もしくは現代における、HR Giger Alex Grey Mark Ryden 、Amanda Sage、といった芸術家にインスパイアされたものであれば、 是非、私達のもとへ申し込んでみてください。」 


 まさに自分がそっくりそのまま、フィットしている領域であり、ひたすら長年一人で考えてきたことが、こうやって知らない遠い国で同様の問題意識として成熟してきている様相が少しづつ分かるようになった。そのことはインターネットの距離を越えた世界と密着並行して、意識の地図、そしてそこから芸術の地図の輪郭を浮かび上がらせてきている。 
  
 どこの国に住み、かつ所属しているかは、この意識の地図では関係なく、いわば魂の故郷がどこにあるのかが問題になってくる。 

 芸術には国境がある。芸術は言葉を超えて分かり合えるというのは大きな間違いで、人類はその意識の国境の中で自分達の言語しか理解しない。その言語というのは価値観のことで、その違いはグロテスクなまでに大きい断層だ。 

 少なくともMyspaceの中では、現代美術の画像をほとんど見ない。自分が起点だから、そう言うと公平さを欠くのだろうけど、そこには美術雑誌では見ることがないネットならではの趣味の偏向があるように思える。 
  
 自分が高校生のときいらい抱きつづけていた、例えば美術手帖への不満、それは現代美術に百万語文章を費やしても、何一つ感覚的衝撃力とは関係ないということであった。 
 
  Myspaceでやりとりされている画像はむしろ19世紀以前の細密な神話的な絵画であったり、現代のサイケデリックで複雑な文様であったり、つまり濃縮された感覚的印象と深みのほうがモニター内では満足度が高いのだろう。そして自分はまさにこういう世界の住人であることがここ一年ちょっとで自覚されてきたのだ。 

 こういった芸術の地図を、東北の田舎で説明するのも難しいかもしれない。日本の細長い地形は、いまでも時勢の落差をもたらしている。東京で自分の絵を公開するなら、「まだこんな古いことやっているひとがいるんですねえ。」という感想もありうるが、青森県なら、「うわー現代的で、わからないなあ。モダンアートですねえ。」という反応が予想できる。さらに近年、青森県にはアートとアーティストという呼称が定着し、これらは日比野克彦という人物に準じるような「みんな子供にかえろう、アートは簡単で誰でもできる楽しいものだよ。」というものらしく、地道に石膏デッサン、裸婦デッサンをやっているオーソドックスな美術家たちが、メディア上では日陰になってきている。これらはただの印象で、取材の裏打ちはないのだが。 
  
 「アート」がはさまってくることによって、自分の地元での主張も若干頓珍漢になってくる。「実は時間をかけて、ちゃんと描いたものもアートなんだよ。」なんて主張は、ちょうど、ゆとり教育の反省から「実は学校はちゃんと勉強するところなんだよ。知ってた?」と今時、言わざるを得ない状況にも似ている。さらに、「美術って美の価値を追求する技術なんだよ。」という諭し事体が難しい世の中になってしまった。なぜ真っ当な事が異端になってしまったのだろうか。 
  
 10年前弘前に来たときは、ほとんど骨董のようなチョー古い具象絵画しか目にする機会がなく。現代美術のゲの字もなかった。当時、自分はまるで異様な宗教団体を見るような気分でそれらに対峙していたが、いまではむしろあの永遠に変わる気配のない骨董油絵の世界を愛しつつある。あれらはバリ島の民族芸術のようなもので、上手下手関係なしに保存価値のあるものじゃないかと思うようになってきている。 
 
 そのような地元における芸術の地図は、現代の世代間ギャップと同じで、祖父を克服した父を超えた結果ではなく、ただ、お互い、反響も交差もないまま、ただ並存しているだけのように思える。夕飯を一緒に食べない、バラバラの家族のようなものかもしれない。


コメント(3)

こちらに書いても大丈夫でしょうか?

横浜トリエンナーレに行ってきました。
現代美術!!
自分の見方に自信がなかったので、四時間ほど鑑賞して回った後、ボランティアスタッフによる解説ツアーにも参加しました。なにしろ、現代美術については何の知識もなく、古い現代芸術的なキーワードをいくつか知っている程度ですので。
で、その現代美術の文法の古色蒼然としたこと!旧態依然というのでしょうか。
作品が語りかけてくる概念構造に目新しいものは何もないのです。
ただただ、びっくりしました。

高校時代に(20年以上前!)聞いた「ハイレッドセンター」とかいう?人達の論法となにも違わないのか!懐かしいなあ現代美術!!と思いながら、上野駅で晩ご飯を食べました。
あ、こういう予想不能なコメントエクスチェンジはわくわくしますね。失敗してもオッケー!みたいな。

いやもう、最近、ヴィジョナリーアート、現代美術、日本具象画壇、とか、あまりにもう脳内地図がぐちゃぐちゃで、「なんだこれは!」なんですけども。今、こう思うのです。 弘前市に住んでいる人は、どうしたって弘前カテゴリから全世界を見るわけですね。弘前カテゴリを例えば工藤家カテゴリから観て、最終的に俺カテゴリから見るわけです。 宇宙→世界→弘前→工藤家→俺→宇宙→世界→弘前→工藤家→俺とふうに、結局、どのようなカテゴリといえども発生起源がある以上、その背後に宇宙があるわけですね。その宇宙をバックにして有限なカテゴリが広大に絶対化してしまうのです。これが宗教組織、政治組織の秘訣ではないでしょうか。傍から見たらなんでそんな狭っこいとこにいるんだ、と思えるわけですが、その狭いカテゴリの井戸の中からも宇宙は覗けるわけで、この宇宙に逆らうのはなかなか大変なわけです。

んでその現代美術という言葉の有効性を疑った展覧会として、2000年に水戸現代美術館でやったゼロ年展http://www.tinami.com/x/tenpyo/01/aida.htmlというのがありましたが、あれは今でも残る展示でしたね。何かが発生したとたん、それは如何にして消滅させるべきかという公案になってしまうわけで、それをどうやら人類は懲りもなく繰り返しているようなのですね。神の手のひら上のゲームとして。

 結局なんでしょう。現代美術は時間を指しているのではなく、空間エリアを指していたということですね。

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