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公平性の経済学コミュの【公平性の経済学ー4】

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人間の本性と公平

説明が遅れたが、私が言う公平とは平等ではなくフェアである。

平等があるとすれば、それは法の下での平等以外にあるまい。人はクローンではないのだから、趣味、嗜好、能力、環境を平等にするなど、馬鹿げた話だと思う。それは不可能だからだ。

フェアとは何だろうか、という問いの前に、なぜ人はフェアを好むのか、あるいは本当にフェアを好んでいるのかと問う必要がある。つまり、何がフェアであるか、以前に、なぜフェアが正しいと考えるのか、そして現実の世界は、なぜフェアではないのかを読み解かねばなるまい。

公平が良いということは当然の事のように思われるが、身分制度のあった時代には当然の事ではなかった。いや、今でも組織にはヒエラルキーがあるし、家族でも親と子は公平だなどいう主張は奇異なものだろう。

では、公平とは法的、準法的な権利のフェアなのだろうか。
この視点にはかなりの合意が得られるものと私は思う。では、公平とはそれだけなのだろうか?

そうではない、ある程度の結果の平等が機会公平には不可欠だという説もある。この段階で、公平は初めて法の領域から経済の領域へと包摂される。

また、能力主義、成果主義が公平であるという人もいるが本当だろうか。その根拠はどこにあるだるうか。能力や成果が正確に測定できると仮定しても、それが単純な比例報酬になるというのは短絡的だと私は思う。そもそも、この仮定自体にも無理があるだろう。

さらには、結果の完全な経済的平等こそ公平だと主張するグループもあるが、これは今では異端と言って良いと考えている。どうだろうか。

さて、本題に戻るが、本当に誰もが「公平」を望んでいるようには、私には見受けられない。ギャンブラーは自分にだけ「運」があることを常に望んでいる。つまりは、不公平を望んでいる。この心理はギャンブラーに限らない。宝くじを買う人に、そして多くの人に共通する心理、あるいは人間の本性ではないのだろうか。

公平を望む心理の背後には、現実に対する嫉妬あるいは憐憫があるのではないのだろうか。そう考えると、「公平」という言葉は多くの欺瞞に包まれた、偽物の水晶のようにも見えてくる。

経済学という道具で公平を扱う事と、哲学的に公平を扱うことは別の問題である。経済学の枠組みとは、数学的にそれを表現することであり、計量可能なものにするということだ。

それは、一つには変数をどう置くかという問題だろうし、この出発点こそが、最も重要な点だと言っても過言ではないだろう。

私の、もう一つの問題意識は、経済政策という経済学の一領域にある。ここでは福祉の公平性という問題が提示され、厚生経済学の理論が用いられる。そして、そこにおける公平概念は、他の経済政策で用いている理論とは整合性の無いもの、矛盾したものである。にも関わらず現在の近代国家では、このような経済政策が現実に行われているのである。

私たちが目指すのは、継ぎはぎだらけで矛盾だらけの経済学をつなぎ合わせた経済政策ではなく、一貫した人間観、公平観に基づく新しい経済理論であり、経済政策だ。それは、人間の本性を肯定するということでもない。よりよい社会にための、よりよい経済哲学を示すことであり、そのための経済理論を提示することだ。そして、そこには当然ながら強いインセンティブが働く「新しい誘引力」がなければいけない。

もちろん、私は問題を孕んだ現状に敵対を宣言する革命家ではない。より現実的な修正の可能性を考えるだけの存在だ。なぜならば、私はユートピアを描くより、数千倍も、いや数万倍も、それを実現する方策を作る方が困難だと知っているからである。

私たちは船に乗りながら、船を改造しなければいけないのだ。

コメント(9)

"賢者”という理想的な人間像がありますが、万人が賢者になればユートピアは築けるでしょうか?

その疑問を私は様々な例題で考え続けるゲームをしたことがあります。
私の世界観の中の賢者像の基本は「他者の人格、世界観を容認する」と言うのがありまして、キリスト教だろうとヒンズー教だろうとイスラム教だろうと仏教徒だろうと、はたまた無宗教だろうと、科学者だろうと思想家だろうと遊び人だろうとその「賢者の資格」を持っていなければいけないという厳しいルールがあります。

それでもやはり対立は発生して、対立した時点で賢者としての資格が消えてしまうかのように思いましたが、実はやはり、人と人がお互いを理解し合うためには対立は当然のプロセスであり、最も各自が認識しなければならないのは自分自身の状況の冷静な客観性であったり、自分自身が他者に与える影響力の把握だと最近は思っています。

船に乗りながら船を改造するには「大きなルール」は必要かもしれませんね。



去年、私はロシア人とバングラデシュ人と新しく知り合い、1対1で話をしました。そこで痛感したのが、異文化コミュニケーションの難しさです。本に書いてあるような知識はまるで役に立ちません。相手の本音が出てくると、私は沈黙するより他に手がありませんでした。

今、私たちが乗っている船の名前は「地球」です。

紛争は今も世界各地で起こっています。ロシア人はアメリカに対する不快感を露わにしました。バングラデシュ人は、自分は正しい生き方を知っているからと教義を押しつけて来ました。私には、そういう人たちとうまく友達になる技術がありませんでした。

異文化の問題は、経済学でも重要なテーマ、大きいテーマです。
大き過ぎると言っても良い。

猫ジャマさんの言われる通り、<自分自身の状況の冷静な把握>、<自分自身が他者に与える影響力の把握>は、とても大事ですね。そう考えると、私たちはとても恵まれている。その事に感謝するだけでなく、何かできないか、より互恵的な関係を築けないかという努力が求められているのだと思います。そして、それが異文化であれば、とても難しいことだということも知っておくことが重要だと思います。
いつもヒョコッと現れては揚げ足取りなことばかり書いてすみません。

> そこで痛感したのが、異文化コミュニケーションの難しさです。本に書いてあるような知識はまるで役に立ちません。相手の本音が出てくると、私は沈黙するより他に手がありませんでした。

いつも思うのですが、異文化コミュニケーションっ何でしょうか?
ロシア人、バングラデシュ人だからつい「異文化コミュニケーションは難しい」となるだけであって、同様のことはなにも外国人に限らず、日本人同士でも、たとえ県民同士、市民同士、町民同士、はたまたクラスメート同士、恋人同士、家族同士、そもそもは自己の内部ですら、そのようなことは起こるのでは無いでしょうか。その意味では全て異文化コミュニケーションなわけですが。

それを、最近の国際なんちゃら学の流行もあってか、外国人だとことさら異文化性を強調する。確かに政治制度も経済システムも、歴史、地理、思想、宗教、風土、自然環境も全て異なるでしょう。

しかし、対個人関係として、そのような不理解は日常的にあります。
例えば、会社の同僚とある一つの主張について言い合いになり、揉めたときに「あいつとは異文化コミュニケーションの壁がある」なんていう言説はほとんど聞きません。

どうも外国人となると、そのような言説を成立させて、新たな問題を大々的に成立させる気がします。どうでしょうか?

相手がロシア人だから、コミュニケーションができないのですか?
バングラデシュ人だから?

僕は、相手が外国人でも日本人でも、結局は対個人関係、他者の次元に行きつくと思います。個人レベルでの様々な困難を「異文化コミュニケーション」の問題に昇華させている(特に社会学などでは)、と思っています。
もっと、等身大の対個人関係を重視する見方が必要かと思っています。

ご周知の通り、近代の社会科学の特徴は、ネーション性にあります。世界を国民国家という縦割り区に区分けして、それぞれの国民国家が同質性を統合によって達成し、他の国民国家との異質性を問題とする。このような近代的な考え方があるからこそ、異文化とか、異国というような思想も成立するのでは無いでしょうか?

僕は、ですから、あまり異文化理解というような言説は好きではありません。
そんなものは、日常的に隣人とですら成立していると思います。政治や経済、地理歴史風土の要素が強いとしても、根本的な次元は変わらないのではないでしょうか。

社会学者がよく使うこういった言説は、社会学分析のための(したがって合目的的な)言説の意図的創設、と僕は捉えています。いかがでしょう。
コメントありがとうございます。

私は人間というものは全て文化内存在だと考えています。いかなる個人も、意識するしないは別にして、文化的制約、文化的枠組みの中にあり、文化に依存することで人間として存在しているという意味です。文化は多様です。分類も無限でしょう。「異文化」という言葉が嫌いなのは何故でしょうか? それは、ルーマン流の社会システム理論、すなわち個人を否定する理論への反発からでしょうか? (私も社会システム理論は受け入れません)

私が彼らと友達になれなかった理由は、それが異文化だったからではありません。(日本人でも友達にはならなかったでしょう)根は違うところにあります。私は彼らの主張を理解しました。しかし「対話」は出来なかった。なぜか。それはお互いの、対話のプロトコル(手順、ルール、規範)が異なっていたからです。私は彼らの意見を聞くだけで反論はしなかったし、自らの意見も述べなかった。それは不毛だと感じたから。彼らには、相手の意見を聞くという姿勢が感じられなかった。もっとも、日本人にもそういう人はいますがね。

ただ、日本にいる多くの人々は、同じ言語を使い、似たような教育を受け、同じようなメディアから情報を得ています。そこで、知らないうちに多くの文化的要素をシェアしている。この事実は頭で考える以上に大きいことだと実感した、ということを私は言いたかったのです。もちろん、日本の中でも、対立も衝突もたくさんあるでしょう。それでもなお、異文化の場合とは質が違うように思われるのですが、いかがでしょうか。

このコミュニティで文化論を展開することが適切かどうかは、皆さんの判断によります。ただ、異文化など幻想だ、異文化はどこにでもある、他者性と同じだと言われると、それは違うように思います。

私は対話は困難だから諦めようと主張しているのではありません。対話が困難であっても、相互理解を目指すというのは望ましい方向性でしょう。しかし、対話によって必ず相互理解が得られるという幻想を抱くことは危険だと考えます。

私が願うのは、対立(コンフリクト)が、対決(コンフロンテーション)へとエスカレートしないことです。対立を孕みながらも共生すること。それが私の描く平和像であり、理想なのです。

サイードの「オリエンタリズム」は「西欧」との対比で用いられたもので、大作のようですね。私の手許には「戦争とプロパガンダ」しかないので、その一節を引用しておきます。

//「文明の衝突」理論は、「宇宙戦争」というのと同じようなイカサマの新機軸に過ぎない。自己防衛的になった自尊心を補強する役には立っても、現代の困惑するような相互依存の現実を批判的に理解するためには使いものにならない。//
p.49 Oct 2001

重要なのは、猫ジャマさんが言われたように、異文化間で、どういう理念、どういう価値観をシェア出来るかでしょう。ただ、私はそれが容易な事ではないと言いたかったのです。時に対話は不毛な対立を生みます。
人それぞれともいえる人生観/価値観も似たところがあるかな、と思いました。
そして、敢えてその人生観/価値観にまで踏み込むべきか、どうか…。
それは、家族や友人、同世代でも異人種、異世代、異業種間でもあまり変らないような。

決して豚肉を食わないパキスタン人の友人や、
チベットを「自国の一部」と信じて疑わない中国系日本人(残留者の家族)と同じように、
70になった母親や女子中高生の子供とのコミュニケーションにも相容れない部分はあります。
そこでの違いは、距離感なのかな。近いか、遠くに感じるか…。

人が集まると対立が生じますよね。
その対立にどのように応じるか、それが面倒に思えてしまって。
で、いつのまにか差し障りのない付き合いばかり、に。
>ぱーさん
良いと思いますよ。差し障りのない付き合いが出来るならば。
それとも、本当のコミュニケーションを切望しているということでしょうか。
難しいですね。
お互いの「経済」に踏み込む、そのためにはどのようなコミュニケーションをするべきなのか。
差し障りのない付き合いの中で、公平性は生み出せるものなのか。
本当のコミュニケーション、とは。また、それを求めるべき、なのか。
価値観をシェアすることと、その多様性を受け入れること。そのどちらも正しいように感じます。

ホント、難しいです。

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