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キリストの証人たちコミュの第5章 神の言と祈祷 その4

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この時クレイクは導かれて説教をしたが、
それは創世記12章より引照してアブラハムの事を語った。
特に挙げた2つの点は、
彼が信仰によって神の意志を行いつつあった時に全ての事はよく進み、
主を信ぜず不従順であった時に失敗に陥ったというのであった。

ミューラーはこの説教を自分の為に適用し、2つの実際的な結論を引き出した。
第1は、危機から逃れるために横道または抜け道をしないという事、
第2は神の栄光を現すところの特権には、
これを汚すところの危険も伴うということであった。

これらの真理を学ばせながら、
主は彼がいかになすかを試み給うたように思われる。

この時他の目的のためにといって寄付された220ポンドの金が
銀行に預けられていた。これを僅かの間流用して、
危機を免れることが出来るだろうという誘惑はかなり強く、
寄付した人は勿論、孤児院の経営のためにこれを説明するならば
承諾する性質のものであった。

このような場合普通の人は必ずそれを流用するのであるが、
彼は、思うにこれは主が救い給うを持つ代わりに、
自らの仕方によって解決の道を見出すことであるとし、
もしこのことが習慣になるとすれば信仰の発達を阻害する事になると考え、
強くその考えを拒み、全ての人々に忠信なる神の約束のみに
頼るべきことを宣告して、自らの態度を明らかにした。

これは信仰の大いなる冒険であるけれども、
神の言と約束の必ず地に落ちない事と、活ける神の自由な働きを確信し、
全く依頼した者においてのみ なし得る安全な処置であった。

最も謙遜に神の言により頼む人はまた
最も大胆に神と論議する人となり得る事は、
アブラハムがソドムのために神に執り成したのを初めとして、
カルメルのエリア、サムエル、ダビデ、ダニエル、エレミア、パウロ、
皆その例である。

ジョージ・ミューラーもまた神が与え給うた契約にかたく立って神に切願し、
謙遜ではあるが強い論議を持って恵の座に迫ってゆく事がしばしばであった。

それは決して冒涜の業ではない。
キリストに対してカナンの婦人がその一例であって、
止む事の出来ない要求をもってその子の癒されんことを願った時、
イエスは子供のパンを取って犬に投げ与えるは宜しからずと答えたもうた。

彼女はその真理を承認しながら
「主よしかり、されど犬もその主人の食卓より落つる屑を拾うなり」
と欄儀した時、イエスは「女よ汝の信仰は大いなるかな」と叫び給うた。

それは信仰の勝利であって人が人に勝つとは違い、
愛の父は勝たれる事を望み給う。
その愛に対し信仰をもって障害を乗り越えるのである。

ショージ・ミューラーは神の言の権威を信じ
また神は己に反することの出来ないことを知っていたから、
神御自身の御言を契約とを握ってかたく信仰に立ち、
あらゆる不信仰を征服して神に迫って行った。

このような信仰を神は喜び給うのであって、
昔ヤコブがヤボクの渡しにおいて祈った祈りは
実にこの類いのものだったと思われる。

もとより祈りの応答は神の慈愛の現れであるけれども、
それを人間のために当然受ける権利であるかのごとき
立場に立たせる事が神の啓示の力であり恵みである。

それ故にヨハネ第1の書1の9には、
「もし己の罪を言い表すならば、神は真にして正しければ、
我らの罪を赦し、全ての不義より我らを清め給わん」と言っている。

愛なるがゆえに赦すというのでなくて
「真にして正しければ赦す」というのは、
神が恩寵によって私共に与えたもうた御言は、
人が神から受ける正統な権利であると迄
私共に特権を与えたもうたのである。

当時の信仰界がただ合理的ということのみを考え、
このような人格的な自由を見失っていた時に、
彼は神の教会のうちに信仰の新しい力をもたらした
特殊の神の器であるということができる。

彼が、心に示された神の契約をとって、主の御名により大胆に求めていく有様は、
謙遜な人間がその一面においていかに強く、また神がいかに
彼の確信に対してそれを辱め給わないかということを保証するものである。

ことに、孤児は神の子供ではないか、
神はこれらの孤児の父であると言い給うたではないか、
この業は神御自身の御業であって、私共単にその器に過ぎないではないか、
杖は自ら動き、斧は自ら切り、刀自身が振るうことが出来ようか、
もしもこの業が神の業であるならば、
神御自身がこの業を用いたもうはずである。

全ての計画は神の御栄光のためではないか、
神は自ら栄光のためにこれを進め給わなければならない。

神自らの御言は、約束に加えて誓いを持って保証したもうではないか、
神はこれを決してほごにし給うことはできない。
「主よ、私共はあなたを信じてなんらの疑惑を持つ事ができません」

これは丁度ルーテルがウオルムスの会議に列する前夜、
神に祈って「主よ、私は一個の小さな修道僧で、
もとよりこの権威ある者共と好んで闘おうとしたのではありません。
これはあなたが初めに僕をここに進ましめたもうたのではありませんか。
されば主よ、この業に対してあなた御自身が立ち給わなければなりません。
主よ、立ち給え、僕はただあなたの命に従おうとしてここに在ります」と祈った。

その勇敢な心にも比べる事ができると思う。
さてこの謙遜な、しかも大胆な信仰は、
60余年を通して不断に神の力と恵みとを呼び下す為に、
恩寵の御座にに迫った姿である。

しかしながらこれは単にかれ一個の特権ではなくて、
全ての神の子らに等しく許されている
光栄の立場であることを記憶しなければならない。

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