きょうは2023年7月30日。
川上未映子「あこがれ」読了。
小学6年生の男の子・麦彦くんと同じく小学6年生の女の子・ヘガティーの視点から描いた、〈小学生日記〉的なものがたり。
二部構成になっていて、前半と後半とではストーリィテラーが違う。第一部は麦彦くん(通称:麦くん)によって、第二部はヘガティーによって語られる。
登場人物のほとんど(クラスメイトに限られる)が、ニックネームで登場し、リッスンとかドゥワップとか、チグリスとかユーフラテス(ユーフラ)とか呼ばれるが、彼らの多くはストーリィに深く関わってこない。主に描かれるのは父親のいない麦くんと、母親のいないヘガティーの交友関係のこと、友情について描かれる。唯一、それ以外に描かれているのは、第一部の最初から登場するスーパーの売り子・ミス・アイスサンドイッチのことである。
冒頭。〈フロリダまでは213。丁寧までは320。教会薬は380で、チョコ・スキップまでは415〉などという表記があり、面食らった。正直言って、一体何のことを云っているのか、さっぱりわからない記述。それを過ぎるとだんだんサンドイッチ売り場の、ミス・アイスサンドイッチのことや麦くんやヘガティーの家庭のことや、学校のことが小出しに描かれるが、特に面白いものというのでもない。何となくだらだらと読んでいたが、第二部ラスト近くの、ヘガティーと麦くんがヘガティーの異母姉妹に逢いに行く話辺りは結構読ませてくれた。ただ大して面白い小説でもなかった。有名作家なのだからもっと求心力の強い作品を創ってほしいと思った。
明日から、
村上春樹・短編集「女のいない男たち」を読もうと思います
谷川俊太郎詩集「すてきなひとりぼっち」読みはじめています。
2023年8月1日。
村上春樹「ドライブ・マイ・カー」読了。
「ノルウェイの森」がそうだったように、この短篇もThe Beatlesの名曲を表題に冠している。
映画「ドライブ・マイ・カー」より、世界は狭く浅いが、含みに残した部分は多く、読者にその〈余白〉への想像を促すような筆致はさすが、大作家の筆遣いだ。
村上春樹はどの小説も、読者を〈春樹ワールド〉にとりこむのが上手い。悪く言えば、読んでいるうちに、まるで狐にばかされたように騙されているような気分になってくる。わかっちゃいるが、読者はその世界から逃れられない。そこには独特の美学なんぞも感じられるし、誰も思いつかないような世界でもある。
2023年8月4日です。
村上春樹「イエスタデイ」読了。
携帯電話の無かった時代の大学生の主人公が、出会った同世代の風変わりな浪人生・木樽との交友録。彼・木樽は、ビートルズの名曲「イエスタデイ」に、
昨日は/あしたのおとといで/おとといのあしたや
という、関西弁の歌詞を勝手につけて、風呂に入るとうたっていた。生まれも育ちも東京なのに純然たる関西弁しか喋らない。おまけに彼女である、現役大学生・栗谷えりかを譲るから付き合ってやってくれ、などと言う。話としてはそれだけのことだが、含みに残した部分というか、エピソードの多くが、共感しやすい題材を選んで描いているようで、しかも完全に描き切らず、含みとして残すことで、余情というか、その時代の空気とか、各々の読者の思い出までも巻き込み、シンクロするかのように、共鳴するような書きぶりはとても興味深い。かく言う僕も、この物語を読んで自分のまだ若かった時代を思い出し、春樹ワールドとシンクロする部分を感じずにはいられなかった。人生に得てして起こる人間同士の付き合いによって起こるできごと・綾、出会いと別れによって醸しだされる情感。それが村上春樹独自の描写によって、まるでお寺の鐘の余韻のように、余韻が余韻を生み、寄せては返す波のように終わらない物語を読んでいるような気持ちにさせられたのは確かだ。
8月8日です。
村上春樹「独立器官」
生涯独身を貫きながら、夫のいる女性と当たり障りの少ない交際をして、それを生きる張り合いに変えていたひとりの男性が、ある時、本気で女性を愛してしまい、恋煩いの果てに拒食に陥り瘦せ衰えて死んでゆくという物語。この人物、モデルになる男性がいたのだろうか、わからないが、記述がかなり人物に肉薄していて、偽物の匂いがしない。結局、恋愛において、互いに嘘をつきあったら、男性は女性にかないっこないのだ。かれらは自分のうちに、自分が絶対に傷つかない「嘘をつく」という〈独立器官〉をもっているのだから。それは同感だ。話だけ書くとこれだけの話だが、非常に興味深く読ませてもらった。
8月9日。
村上春樹「シェエラザード」読了。
シェエラザードとは千一夜物語の語り手をする姫の名。
この話、映画「ドライブ・マイ・カー」の、クラスメイトの男子生徒の家に空き巣に入る、前世がヤツメウナギの少女の話が出てくる。この辺、話の緻密さは原作がまさるが、映画も村上春樹の世界を上手く取り入れて巧みな脚色をしているのが分かった。けれどもこの原作に出てくるシェエラザードと言われる女は、最後の話をせずに帰ってしまう。そして暗に、この女がもう二度と主人公・羽原のところへはやってこないのかも知れないことを匂わせ、終わってゆく。余韻・余情を大切にした幕引きだが、特に気持ちを惹きつけられるほどのものではないような気もする。
8月11日。
村上春樹「木野」読了。
冒頭、何気ない語り口ではじまるが、抑制が効いていて、名文だと思った。「木野」というバーを営んでいる、ひとりの男の話であるが、暗くても暗すぎない居心地のいい店内だとか、趣味のいいジャズのレコードとか、無口で大人しいマスターとか、そういう一つ一つの描写が気持ちのいい空間を形作っている。ところがだんだん展開が怪しくなってきて、語調は依然として淡々としているのに、心穏やかではない記述がつづく。
この短篇、客同士のケンカに巻き込まれたり、DVの被害者である女の客と、気の進まないセックスをする場面とか、店のマスコット的に居ついていた猫がいなくなったり、それと時期を同じうして、蛇が次々現れたり、やがて店は臨時休業に追い込まれる、こういう不安感を掻き立てるだけ掻き立てて、話は収束することなく終わってしまうことに、つよく惹きつけられるものを感ずる。この引力・求心力こそが村上春樹の魅力なのだと思った。
この小説、第一に、文章が冴えている。この短編集の中ではいちばんではないのかな、と思う(まだ最後の一篇、表題作を読んでいませんが)。また、強い理性をもって書かれているのをより強く感じた。非常にストイックなのだ。村上春樹は東野圭吾のように、執筆が冴えてきても勇み足的記述は決してしない。こういうところが世人に高く評価されている由縁なのだろう。
8月12日。
村上春樹「女のいない男たち」読了。
この短篇は、短編集のオマケ、付録のようなものだと思う。
過去に付きあっていた女に、自殺というかたちで死なれた男。その男の主観的考察によって描かれている。女にフラれた男。女と別れた男。そういう男たちはどこか空虚で、カラーだった世界がいきなりモノトーンになってしまったかのようだ。総じてこの短編集はみな「女に去られた男」をモチーフにしている。
男にとって女とは、花のようなものだと思う。毎日が花に飾られ、笑って暮らせたらどんなにいいか。そういう日々の彩(いろどり)を女たちは男たちにもたらしてくれる。
女はデリケートだが、生活する女は強く、簡単なことではへこたれない。か弱いが、精神はしなやかで折れにくい。殊に〈護るべきもの〉を護ろうというときの女は逞しい。そして男のように根無し草ではなく、ちゃんと地に根を張って生きようとする。生活者として屈強なのだ。
だが村上春樹の描く〈女〉はあくまで恋愛の対象としての〈女〉であり、彼女らとの心のふれあいを大切にしている。女の柔肌。女の温もり。女の息づかいまで聞こえてきそうな筆致で描かれた世界は、女のついた嘘までも愛そうとしているかのようだ。
かつて愛した女への追想・追慕の想い。この作ではエレベータ音楽と称される、ヘンリー・マンシーニやポール・モーリア、フランシス・レイなどのムード音楽を愛したエムという女にまつわる、感傷的な想い。エムは主人公のペニスのかたちを愛したというが、彼がもっとも恋していたのは14歳の時であり、あの消しゴムを二つに割って、自分にくれた時のエムを、いつまでも恋していた。実際には恋など始まっていなかったのに、そう思ってしまうというのは、どこか佐々木昭一郎の「夢の島少女」の主人公ケンを連想させる。そういうところ、少年というものには確かにある。恋に恋するという心境は、少女だけのものではなく、少年にもあるのだ。
8月14日。
2、3日前から、山本周五郎「さぶ」を読んでいます。
江戸の人情ものの、庶民のものがたり。
思っていた以上に、読みやすくおもしろいです。まだ58頁読んだだけですが、「赤ひげ」の現実の厳しさはあまり感じられず、職人仲間・さぶと栄二の友情を描いた作のようです。
感想は後日。
きょうは8月21日。
山本周五郎「さぶ」読了。
「さぶ」は主人公の名前だと思っていましたが、主人公は栄二でした。
栄二はさぶと組んで表具屋(襖張りなどの仕事)の店を構えたいと思っていただけなのに、理不尽な理由で、得意先だった大店〈綿文〉の出入りを禁じられ、働いていた店からも暇を出され、綿文へ談判に行ったものの主人には会えず、そこにいた質のわるい目明しどもに殴る蹴るの暴行を受け、成り行き上、土方仕事をやらされる〈寄場送り〉にさせられた。
心を閉ざしてしまった栄二だったが、綿文や目明しどもへの復讐の思いが、苛烈な土方仕事を耐える原動力になった。
寄場の人足たちは江戸の護岸工事を完成させたものの、折しもやってきた嵐(ということになっていたが、おそらくは台風だろう)に造った防波柵は流され、人足たちが住んでいた家々まで倒壊。栄二が中心になって、下敷きになった人足たちを次々救出。栄二は自分の手柄ではないと謙遜したが、このことを人足たちは、決して忘れなかった。
ある日護岸の杭を打ち込んでいたところ、地面に穴を掘っていた栄二は、突然崩れてきた石垣の下敷きになった。助けを呼びたいが、口を開こうとすると、潮を含んだ砂が口に入ってくる。下敷きになったのが栄二だとわかって大騒ぎになった。命の恩人を死なすわけにはいかねえ。人足たちは一丸となって、栄二救出に尽力した。栄二は脚の骨を折っていた。当分は働くことができない。与平の爺さんが付きっ切りで看病してくれた。ケガが癒えたら寄場を出、江戸市中で暮すこともできるが、と、役所の元締めの岡安喜兵衛も云っていたが、人足仲間への恩返しが済むまでは、俺は外へは出られねえと栄二は決して首を縦に振らなかった。
寄場とは、刑務所・牢獄とは違って、衣食住は保障されているし、面会に来た者とも自由に会うこともできる。病気やケガをしてもタダで診てもらえるし、花札などの博打はだめだが、読み書きを覚えたければ教わることもできる(もっとも、こむつかしい学者先生に教わるより、職人としてたしなんでいた栄二に教わりたがる人足の方が圧倒的に多かったが)。寄場での労働は無報酬ではなく、人足たちが寄場を出るとき給金として与えられる。恩情で時にご馳走を食べることもできるし、滅多にないが少しの酒なら飲むこともできる。寄場送りになった者の中には、一生寄場で暮したいと願う者がいるくらい、恵まれている。この寄場という制度、元は長谷川平蔵によって始められたものだという記述があった。
その後、柄のわるい新入り3人が入って、寄場の空気が険悪になったが、病み上がりの栄二は、その騒ぎをひとりで鎮めた。当然、新入りたちを懲らしめた罪に問われたが、人足たちが全員で嘆願書を出し、奉行所も事を荒立てずに、おさめた。
晴れて自由の身となった栄二は、もらったお給金の半額を寄場に寄付。もうこの期に及んでは、綿文や目明しへの復讐心など綺麗に消えて無くなっていた。これこそが山本周五郎の言いたかったことだったのだろう。栄二がどんなに心を閉ざしても、さぶは寄場の作業が休みの日には必ず逢いに行って、自分の心づくしを栄二に与えた。それは何故、何のためだったか。打算があったわけでも、何か裏があったわけでもない。この無償の友愛こそが栄二を救った。そして人足たちとの団結、友情。何故彼らのために、嵐の時、命がけになって、栄二は救出にあたったのか。それは自分と同じ苦楽をともにし、つらいときはともに歯を食いしばって耐え、うれしいときはともに笑ったという仲間意識、その自覚があったからに相違ない。
何度も言うようだが、山本周五郎の作品における、その筆致はもはや〈義理人情〉なんてお安いものではない。江戸期の職人の労働環境がどれほど過酷だったか、文章にあるようにこうも具体的に描かれると、人物の苦悩と、餓死一歩手前のような現実をいっそうつらく感じられる。読めば読むほどに、世の中の厳しい現実認識のかげに深い人間愛が感じられる、人情人情というが、ここまで現実が厳しいと誰だって人情にすがりたくなる。それに彼の人情は損得勘定抜きでのものであり、純粋な友愛から発せられたものだ。山本周五郎のどこが偉大なのか、それはまさにここにあると言える。昨今の安っぽい時代小説には決して描けない、懐の深さがここにはあります。最後の〈十六〉の最後の段で、総ての謎が解けます。これを言ってしまっては身も蓋もないので言いませんが、人生の皮肉、禍福は糾える縄の如し、ということが改めてわかるオチになっていました。
2023年8月22日。
谷川俊太郎「すてきなひとりぼっち」読了。
この詩集、アンソロジーとして傑作です。
谷川さんの多くの代表作から少しずつ選んで、掲載してありますが、そのどれもがすばらしくいい。
谷川さんを知りたいという人にはもってこいの詩集で、絶対のオススメ。
感動しました。
これと対になる「はるかな国からやってきた」というアンソロジーもあるというので、近いうち、そっちも呼んでみようと思います。
8月24日。
坂元裕二「初恋と不倫」読みはじめました。
以前にも読んだことがありましたが、どんな中身だったか忘れてしまったので。
玉埜くんと明希さんの顔だちを、いつもどんなだろうと想いうかべながら読んでいます。明希さんは片方の手が不自由だけれど、美人なんだろうなと、行間を読むと、思いやりのあるやさしい女の子であることが見えてしまうのです。玉埜くんも担任からの無視・嫌がらせ、担任主導のクラスぐるみのいじめに耐えながら生きている姿に、ふるえる想いがしています。「初恋の悪魔」の鹿浜鈴之助に相通ずるものを感ずるのです(但し、胡瓜にはちみつをつけて食べると、胡瓜とはちみつの味がするだけで、メロンの味はしません。試しにやってみたらそうでした)。
8月26日。
坂元裕二「不帰の初恋、海老名SA」読了。
幾度読んでも面白い、坂元裕二の朗読劇の台本です。
手紙として書かれたものと、後年、ふたりが社会人になって、メールのやり取りをするようになってからのものとが合わさっていますが、坂元裕二は恋愛劇を描かせると名人級に上手く、また、運命の皮肉、世の中の皮肉を描かせても抜群に上手いひとですが、本編ではその両方を味わえます。
初恋の、ずっと好きだったひとに、好きと云えなかった哀しみ。いまもそのひとの幸せだけを願っているのに、上手く行かない歯がゆさのようなものが大変巧みに描かれています。けれども読後感は爽やか。気持ちのいい物語です。引き続き、「カラシニコフ不倫海峡」を読みます。
きょうは8月30日です。
坂元裕二「初恋と不倫」読了。
「カラシニコフ不倫海峡」の感想については割愛します。
坂元裕二の作劇術について。
この本を読んでもわかるように、彼は、人並み外れた発想力を持ち、そのものがたりの飛躍力、展開力とでもいうのであろうか、読者の予想をはるかに超えたつくり方は、陳腐な言い方だが、他の追随を許さぬ領域へ、片脚を踏みこんでいる。
この本、入院前の2018年の夏に買って、入院中に読んだ。それから5年間ずっと忘れていた。それをまた、手にして読んだ。そうか、そうだ、確かにこういうものがたりだった。5年前に読んだ感慨が、再び甦ってきた。次に読むのはいつだろう。僕はどんな人間になっているだろうか。
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