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2022年12月11日23:52

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ヒッタイトの歴史と文化―紀元前2千年紀から紀元前1千年紀にかけて ビリー・ジーン・コリンズ リトン 2021年06月01日

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p.181
たとえば、プドゥヘパは、「アリンナの太陽女神」への祈祷の中で、ハットゥシリ3世の健康を願い、レルワニとジントゥヒ、メズラ、「ジプランダの嵐の神」という神々を呼び出している。
p.182
たとえば、雨と雷をもたらす神々には、すべて同じように嵐の神を指すメソポタミアの表語文字(U)があてられる。…守護神を意味する文字LAMMAは、ジトハリヤとハパンタリヤ、イナラなど、数々の神々を表しえたので、本来の神名が完全に失われることもしばしばあった。…そのため、「天の太陽神」はヒッタイト語でイシュタヌと呼ばれ、フリ語ではシメギ、ルウィ語でティワト、パラー語でティワズ、ハッティ語でエシュタン、アッカド語でシャマシュとして崇拝されたことがわかる。
p.184
そのハッティ語名はウルシェムで、のちの時代にはフリのヘパトと同一視された。…
…カムルシェパもアナトリアの神話では呪術と結びついた女神として目立った存在であったし、「祖母」という名をもつハンナハンナは知恵者として他の神々から助言を求められる神であった。女神ハンナハンナに結びつけられる動物は、炉と家庭の象徴である蜂であった。
p.185
ある文書では、病が「イシュハラの子」と呼ばれるように、イシュハラは病気と癒しの両方に関係していると思われ、その権能から条約や誓いに効力をもたせる神と考えられていたのかもしれない。
…初期の伝統では、冥界の神々には「冥界の王(のちに女主人)」とされるヒッタイトのレルワニや、人間の寿命を紡ぐローマ神話のパルカイに似た、ハッティのイシュドゥシュタヤとパパヤなどの神々がいた。…冥界に住むという「アリンナの太陽女神」の性格は、ことによると地下の冥界と地上世界を分ける門を守衛したフリの女神アラニと習合されたことの結果であったのかもしれない。
p.190
数多くの医者(A.ZU)の名前が知られており、なかには女性の医者もいたが、ヒッタイトの「医療体制」においては、女性はたいてい助産師の役割を果たしていた。
p.191
医者兼祓魔師(A.ZU)や、鳥占い師(AZU)、「賢女」(SU.GI)と呼ばれる儀礼の実践者がいたことがわかっている。
p.193
その呪文とは、「[それ](「黒」呪術)は髪飾りであれ。彼女(呪術師)はそれを頭につけよ。彼女はそれ(呪いの言葉)を撤回せよ。それは彼女の腰帯であれ。彼女はそれを自らに締めよ。それは彼女の靴であれ。彼女はそれを履け」というものである48。…「彼は呪うことを好んだのだから、呪いは彼自身に返るように。祝福を望まなかったのだから、祝福は彼から遠ざかるように。呪いを上着として身にまとうが良い。呪いが水のように彼の体に油のように彼の骨に染み通るように。呪いが彼のまとう衣となり、毎日締める帯となるように」。49
p.194
のちにヘロドトス(『歴史』第7巻39節)は、ペルシア人たちがこのような儀式をしていたと言うが、それは東地中海世界でこの種の儀礼に長い歴史があって、かつ広まっていたことを示している。物語の中ではあるが、アキレウスがパトロクロスの火葬場の積み薪の上で9匹の犬と共に12人のトロイアの戦士を生贄にしたこと(ホメロス『イリアス』第23歌172-177行)にも、この儀礼のモチーフがよく知られていたことが暗示されている。
p.197
この精霊については、ことによるとフリの浄化儀礼にアズズヒazuzhiという言葉が現れることや、前17世紀末のアララハ文書で、天と冥界の神々をなだめるために、鳥と仔ヤギ、仔羊がアザズフムazazhumの捧げ物として生贄にされていることから説明できるかもしれない65。アズズヒという語はセム語の語根'zzをもち、アッカド語のezezu「怒る」から派生して、フリ語の接尾辞(-hi)を伴っているようにみえる66。…しかし、すでに古代において言葉の本来の意味が誤認されるようになり、さらにエルElのつく名前の形式にしたがって、-elの要素が付け加えられたことで、「荒野の精霊」が創り出されたのである[聖書ではエルという神を表す要素が名前の一部になることがある。たとえばイシュマエルなど]。
p.198
一般的には、ペリシテ人の神ダゴンDagonは、その特徴はよく分かっていないものの、有名なセム系の神ダガンと同定されている。しかし、もしそうではなくてインド・ヨーロッパ語のdʰegʰom(ヒッタイト語でテカンtekan「地」)に由来する名前で69、アナトリアあるいはエーゲ海沿岸において大地と結びついた神を指す(ヒッタイトの神ダガンジパDaganzipaと比較されたい)ならば、ペリシテ人のアナトリア・エーゲ海沿岸起源説は、より現実味を帯びることになるし70、サムエル記上5-6章に登場するねずみはアナトリアにおける贖罪のヤギの儀式の「再来」であると説明できる。
p.205
創世記にはベネー・ヘトbene het「ヘトの息子たち」と女性形のベノート・ヘトbenot het「ヘトの娘たち」という言い回しが出てくる。別のところでは、「ヘト人ウリヤ」のように、ヘブライ語のヒッティーhittiが特定の個人の民族を同定するための形容辞として使われているし、複数形のヒッティームhittim「ヘト人たち」が古代イスラエル人移住前のパレスチナの住人を記録した一覧に現われたりする。
p.208
その根拠となるのは二語の音声上の類似である(Quwe→*Huwe→ヘブライ語hiwwi)。アダナ近郊で見つかった象形文字ルウィ語・フェニキア語の2言語碑文では、フェニキア語のDnnym(「ダヌナ」、すなわちキリキアの別名「アダナ」)がルウィ語のHiyawaとされ、このルウィ語のHiywaからおそらくヘブライ語のhiwwiが派生していることから、上の関連づけが立証されている15。
p.209
聖書以外では、「ギルギシ」(grgs)はウガリトとカルタゴ世界の人名に確認される22。
p.212
サルゴン2世の碑文では、カルケミシュとクムフ、グルグム、メリド、タバル、ハマトなどの新ヒッタイト諸国家の支配者たちが「邪悪なヒッタイト人」(Hatte lemni)と呼ばれている47。
p.214
すなわち、ウリヤとはヒッタイト語/ルウィ語の要素uri「偉大な」とヘブライ語の「神の名前」であるYahという要素を組み合わせた名前であるというもので、ウリヤが新ヒッタイト出身であった可能性と上手く符合する62。…
 ウリヤの名前にかんする、さらに古い起源についての説では、セム語の形式の背後にフリ語の称号ewri-「主人」が隠れていると主張される63。…アラウナにもフリ語の称号ewri「主人」の要素があることが明白である64。
p.224
ヒッタイト語と聖書ヘブライ語に共通するいくつかの「文化関連語」には、「ワイン」(ヒッタイト語でwiyanas、ヘブライ語でyayin)や、「ヘルメット」(ヒッタイト語ではkubahis、ヘブライ語ではkoba')、「ゴマ」(ヒッタイト語でsapsama、ヘブライ語でsumsom)、「釉」(ヒッタイト語でzapzigi、ヘブライ語でsipsigim)、「地」(ヒッタイト語でtegan、ヘブライ語でdagan)などがある。
p.236
13 karumという語は、シュメール語のkar「波止場」から派生し、「(都市の)港」や「交易地」、「商人コミュニティ」、「商業本部」を指すようになった。wabartumという語はアッカド語のubaru「居留外国人」から派生している。カールムには、ブルシュハットゥムとドゥルフミト、ハフム、ハットゥシュ、フラマ、カネシュ、ニフリヤ、タウィニヤ、ウルス、ワフシュシャナ、ザルパが含まれた。ワパルトゥムには、バドナとハナクナク、カラフナ、ママ、シャラトゥワル、シャムハ、トゥフピア、ウラマ、ワシャニア、南ザルパがあった。

15 ブルシュハットゥム(塩湖の南端)の支配者は、アナトリアで唯一「大公」(ruba'um rabi'um)を名乗った支配者であった。その他の支配者たちは、単に公、あるいは従属的な地位のシャッル(sarru)としか呼ばれず、ブルシュハットゥムの特別な威信がうかがえる。

18 この書簡は、のちのヒッタイトにみられる対等関係と宗主関係を基礎とする体制が当時すでに発達していたことを明らかにしている。また、アナトリアの公(ruba'um)が自律的にアッシリア人たちと外交交渉を行って、独自に属国を支配し、自由に他の君主と同盟を結んでいたことを示唆している。
p.237
20 Itamar Singerは、アニッタが国土を統一した時代のアナトリアは、地名や人名、神々、物質文化によって、異なる二つの民族文化圏に分けられるとし、その主要地域はハッティ人が多く住むハリュス川流域と、カネシュから東方に広がるヒッタイトの領域であったと指摘している("Hittites and Hattians in Anatolia at the Beginning of the Second Millennium B.C.," JIES 9[1981]: 119-34; idem, "Our God and Their God" in Atti del II Congresso Internazionale die Hittitologia[ed. Mauro Giorgieri, Onofrio Carruba, and Clelia Mora; Studia Mediterranea 9; Pavia: Gianni Iuculano, 1995], 343-49.)。この解釈が正しければ、ザルパ王とハットゥシュ王の連携は、ハッティ人が一致してヒッタイトの支配に抵抗したものと考えられる。
p.256
69 フッカナとの条約で使われているヒッタイト語表現「許されない」(ナッタ・アーラnatta ara)と、ヒッタイト法に現れる、この表現の姉妹語「禁じられた行い」(フルケルhurkel)は、聖書の「忌むべき行為」(to'eba)に相当する(レビ記18章11節、20章17節、エゼキエル書22章11節)。この語はフッカナの条約で説明されることと似た性行為の禁止を宣べる際に使われている。Cohen, Taboos and Prohibitions in Hittite Society, 93-94の議論を参照のこと。
p.260
121 Singer, "Hittites and the Bible Revisited," 753を参照のこと。Singerは、アップ(あるいはアブ)とは愛称で、西セム語の名前アブラ(ハ)ムに似ていることにも触れている。Itamar Singer, "Some Thoughts," 124-25も参照のこと。

125 ルウィ語碑文TELL AHMAR 1,§2には、(DEUS.BONUS)Ku-pa+ra/i-ma-saとある。Hawkinsは、この碑文で呼びかけられているクパルマスという神名は、のちの時代に変形したルウィ語のクマルビであるという説を提唱している(CHLI LI,240-41)。
p.264
28 KBo 23.4:5――KUB 33.66(CTH 331)に接合する粘土板断片――では、一連の類似する「悪いもの」が列挙される中で、tarpiはhinkan「病、疫病、死」と言い換えられている。このことは、聖霊タルピの役割が占いより死と破壊と強く結びついていたことを示唆している。
p.267
70 Hutter, "Widerspiegelungen religioser Vorstellungen der Luwier," 437-39.すでにペリシテのパンテオンにはアナトリアの神が含まれている。すなわち、女神ptgyhはアフロディテの形容辞ペラギアpelagiaと同定されているのである。
p.269
3 この同定についての議論とそれに対する反論については、Singer, "The Hittites and the Bible Revisited," 729-30を参照のこと。ゴイーム(国々)が前2千年紀のアナトリアあるいはシリア北部の新ヒッタイトの国々を指す可能性については、これまでにさまざまな議論がある。ウガリトの人名tdglがティドアルと音声上類似している点については、Manfred Dietrich and Oswald Loretz, "Die Soziale Struktur von Alalah und Ugarit. 1. Die Berufsbezeichinungen mit der hurritischen Endung -huli," WO3(1966):201を参照のこと。
4 この説の内容と一致する歴代誌上18章10節では、息子の名前がハドラムとなっており、神の名を戴く名前に代わっている。フリ語に起源をもつ名前トイについては、前13世紀エマル(現モスケネ)ではフリ語の形タヘTah'eであったとみられている(CHLI I,2: 400とn.30を参照のこと)。近年、「アレッポの嵐の神」の神殿における発掘でタウタTauta(=トイToi?)という名の王の碑文が発見されている。タウタの王国はハマトを含むシリア北部の広い地域を含んでいた。
p.275
59 つまり、Lemcheが言うところの「ある種の歴史の捏造」である(The Canaanites and Their Land, 86)。サルゴン2世の年代記の前711年の記述において、なぜ反乱分子のペリシテ人アシュドドがヒッタイト人とされているのかはよくわからないままである。ヨシュア記11章22節によれば、巨人族アナクは、ヘブロンと山地から追われた後、アシュドドとガザ、ガトのペリシテ人の諸都市に住み続けた。「アナク」という呼称は、アナクの息子たちシェシャイとアヒマン、タルマイの名前と同様、セム語ではないと考えられる(民数記13章22節、ヨシュア記15章14節、士師記1章10節)。申命記1章28節は、アモリ人をアナク人の子孫と同定している。アナク人もヘト人やアモリ人、ヒビ人のように「他者」なのである。
p.276
61 Mazar, The Early Biblical Period, 135.アッシリア文書の中ではペリシテ人の王の中にもセム系の名前をもつ者がいる。たとえば、Kempinski, "Some Philistine Names," 24を参照のこと。エジプトからヒッタイトへ忠誠を翻したアムルにおいて、王族がセム語からフリ語名に変えたことと比較されたい(Singer, "A Concise History of Amuru," 2:182)。名前は、民族性や宗教と同じぐらい政治的な都合に左右されるように思われる。サルゴン2世が邪悪なヒッタイト人と呼んだハマトの最後の王イルビディも、ヤウビディと呼ばれた。Abraham Malamat("Aspects of the Foreign Policies of David and Solomon," JNES 22[1963]: 7)は、この王の名前からハマト人がヤハウェ信仰に改宗したのだと主張している。Stephanie Dalley, "Yahweh in Hamath in the 8th Cenctury BC: Cuneiform Material and Historical Deductions," VT 40(1990): 27-32も参照のこと。その説はZiony Zevit, "Yahweh Worship and Worshippers in 8th-Century Syria," VT 41(1991): 363-66でも支持されている。ただし、改名が政略にすぎない可能性があることを今一度指摘しておく。

63 M. Vieyra, "Parallele hurrite au nom d'Urie 'le Hittite,'" RHA 5/35(1939): 113-14. ウリヤの妻バト・シェバBathshebaの名前も、後ろの要素にヘバHebaというフリ語の神の名が含まれているかもしれない。ヘバはフリの神々の最高女神であった。Wyatt, "Araunah the Jebusite," 42を参照のこと。
p.277
64 この名前は、オルナン(歴代誌上21章)、あるいはその他の異形アワルナやアランヤ、アラウナと綴られることもある(Richard D. Nelson, "Araunah," ABD 1:353)。'wrnと綴られる同じ名前はウガリト文書にも現れる(Hoffner, "The Hittites and Hurrians," 225)。フリ語では、'wrnhは音位変換で'rwnhとなる。あるいは、その名前はヒッタイト語のarawanni-「高貴な、自由な」から派生しているのかもしれない(Haiim B. Rosen, "Arawna: Nom hittie?" VT[1955]: 45(1939): 222-25も参照のこと。


■現役高校生の「読書実態調査2022」発表!月の読書時間は8時間、月の本代は1410円
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