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2021年07月18日11:53

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 死の自覚の原点

  僕の場合も、2011年3月11日の大震災である。関東信越から北の人たちはそのような例が多いのではないか。又、ロシアのサハリン州(樺太)や千島に住む人たちも。地震には国境はないわけだから。

  東京でも、震度5が5分間。こんなに長い地震は過去にはなかったわけで、家がそのまま壊れて、その下敷きになり、僕も死ぬかと思った。それで僕も死ぬ存在である事に初めて気が付いた。さらに記憶を掘り起こすと、僕の真の弱さもこれだと気が付いた。身体の障碍でもなく。ならば、全ての人間は死ぬ以上、個性の違いはあっても、同じ弱さを持つ事も初めて分かった。全ての人たちが死を自覚すれば、弱さの連帯が生まれ、全ての差別も消えて、真の福祉・共生社会が生まれる事も。本当に東北地方の避難所ではそのような光景も見られた。人為的に人と仲良くしたり、愛したり、神仏を求めてもムダである事も...。以上は凡夫・迷える子羊である僕なりの一種の悟りだったかもしれない。又は、精神世界の本で言う所のアセンションだったかも。でも、どういうわけか、半年くらいできれいに忘れた。その前同様、「身障者と健全者の違い」みたいな事も再び書くようになり、元の発想に戻った。

   それから9年経った去年はコロナで再び死を思うが、それは「自分がかかったら」という想像であり、理論の中でのものだから大したことはなく、コロナ・ウィルスの弱点も知ってからは死を想わなくなった。コロナが終わっても少子高齢化で日本の景気は良くならない事も判り、関心は少子高齢化に向けられた。それと、今年の65歳の年齢が重なり、10年前の想いが今復活している。

   例えば、仏教の中には高い崖から見下ろしたり、断食などを体験して死を自覚させる行がある。僕もテレビで見た。本当に修行者たちは死を自覚するようになるという。イスラムの断食や、キリスト教の聖餐式も目的は同じだろう。そして、無論、宗教とは関係ないのに、東日本大震災の我々の経験もそのようなものだったと。かなりの人たちも一旦は忘れたと思うが、心の奥底では覚え続け、僕がそうだったように、何かの拍子に出てくるのかもしれない。そして、意識が変わり、多くの人たちの意識が変われば、社会も変わり、共生・連帯・福祉社会になっていくと思われる。

  その犠牲者のためにも言うが、東日本大震災の我々の経験はムダではなかった。
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