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2020年06月27日20:58

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異端の歴史 D. クリスティ‐マレイ 教文館 1997年10月

http://mixi.jp/view_item.pl?reviewer_id=5160461&id=1342311

p.85
過激派として有名だったポレモンはシュンウシア説――ロゴスと、キリストのものになったことによって神的になった肉体との完全な同質性――を説いた。
p.86
アンティオキア学派はグレゴリオスを支持して、イエスの中には神性と人性がともに完全に存在していた、そして神が神殿に宿るのと同じように、ロゴスはイエスに宿っていた、と主張した。…
…また禁欲主義者で、アンティオキア聖書解釈学を活気づけ、言葉は受肉時に人間性を全面的に見に着けたという教義を支持して、イエスの内部の神の子と、マリアの子、またマリアを通じてダビデの子孫である人間とを明確に区別した。ディオドロスはこの区別が分離として解釈されるかもしれないと感じて、「だが二人の子がいるのではない」と急いで付け加えたが、その一体性を十分に説明することはできなかった。
…テオドロスはディオドロス同様、受肉した言葉の人性と神性の明確な区別を主張したが、どのようにして二つの構成要素が一つの位格を作る――二つのものが一人の誰かを形成する――ことができるのか、という難問にぶつかった。かれは二人の主とか二人の子とか言わないように慎重に、「合一」という語を使って、その一体性を表現した。
p.87
しかしこの語には、二つのものがその結果「一つの肉体」を形成する、というよりはむしろ異なる二つのものの一体化、たとえば結婚による男女の一体化を想わせるという難点があった。テオドロスは「属性の融通」を守るためにキリストの中の人性を神の子と呼んだが、人性の弱さが神の言葉のものになった、とは言わなかった。しかしかれの意図は、キリストが全的な人間であったことを保証し、救われるべきものを一つ残らずキリストの身に着けさせることであったのだから、神が人間になるために神性を捨てた神秘より、人間の運命とその成就が神において実現されるほどに人間が高められたことのほうに、かれの思念は向かうことになった。
…キュリロスはアポリナリオスをもっとも激しく攻撃した一人で、その主張は、キリストにおいては神性と人性はともに完全であり、後者は理性的要素をも含む、というものだった。キリストの一体性はロゴスによって保たれる。すなわちロゴスは受肉してキリストとなり、人間の特性を相対的に身に着けた。キリストの人性とは、個人というよりは人間一般である。救済は人格としてのロゴスによってもたらされた。すなわちロゴスは非人格的な人性を身に着けることによって、それを神性と一体化し、人性が神と不滅性にあずかれるようにしたのである。
p.90
ネストリオスはキリストのうちに神性と人性の二つだけでなく、神と人という二つの位格が明確に区別される、と主張したことを責められた――これはほぼまちがいなく不当な非難である(その後のネストリオス派の教会の信条と典礼文を見ても、ネストリオスの思想が明確に表現されているのは見当たらない)。ネストリオスは『ヘラクレイデスの書』を書いて自分の正当性を主張し、アレクサンドリア主教キュリロスを非難して、キュリロスはキリストに人性がない――つまり完全に人間ではない――と言った、と述べた。
p.91
たとえば、一人の御子と一人のキリストの二つの本性を認めるが、両者の結合は二つの別々の存在者の精神的な結合とほとんど変わらない、と説明する。
p.104
セウェロス主義はフュシス(本性)をヒュポスタシスおよび位格と同一視し、また神性と結合の両方を強調し、実体的というよりはむしろ論理的に二つの本性を区別した。
p.105
皇帝派セウェロス派を満足させようとして、一三年前に数人のスキタイ人修道士が創案した信条を定式化した。その「肉においてわれわれのために苦しんだ三位一体の一」という箇所は教皇ヨハネス二世も承認し、それを支持するためにキュリロスの一二のアナテマの一つを引合いに出した――「言葉が肉において苦しんだことを告白しない者にアナテマ(異端宣告)」。
p.107
 ユスティニアヌス自身そのような極端な考え方の一つであるキリスト受苦不可能論を採った。この教義はキリストの人間の体は堕落することも苦痛を感じることも不可能である、と教えた。この体は神のものであるから、マリアの胎内に受胎された時からまったく変化せず、自然な受苦も含めて受苦を免れていた、というのがこの異端説だった。…
…受肉した言葉の神性を強調しすぎれば、人性が失われる危険が生じるからである。正統信仰によれば、キリストには神の働き(エネルゲイア)と人の働きの両方がある。このエネルゲイアにかんする別の見解が、キリスト単性論から生じた前記の二つの異端説のうちの前者になった。これを最初に主張したのはコンスタンティノポリスの総主教セルギオスである。
p.108
六四一年に、ホノリウスの次の教皇セウェリヌスがキリストには神の意志と人間の意志との二つの意志があった、と宣言した。もしキリストが真に神であり、かつ真に人であるなら、神の意志とともに人の意志をも持たねばならない。人の意志を否認することは、キリストから完全な人性を奪うことになるからである。もちろん二つの意志はつねに一致していた、というのである。
…さらに、完全にかつ真に人間であるためには、その意志が固有の領域で働かねばならない――キリストの服従はまさに、神の意志に自発的に従うが、神の意志からは明確に区別される人間の自由意志の服従でなくてはならなかった。
p.114
 パウロ派は、福音書とパウロの手紙しか正典として認めないところからそう名づけられた。この名が初めて知られたのは六五〇年の少し後、アルメニアの南部地域でだった。パウロ派はグノーシス主義の特徴を多く示し、二元論で、物質、つまりこの世と肉体は悪であり、旧約聖書の悪の神によって創造され、精神と霊魂は善の神によって造られた、と信じた。
p.138
とくに聖職者が独身生活を守る慣行に、かれらは、物質と肉体を悪とみなすマニ教の思想のにおいを嗅ぎとったのである。
…トレドの大司教でスペインの聖職者の指導的な地位にあったエリパンドゥスは、キリストの全面的な人間性を主張して、キリストは神性においては神の子だが、人間の姿だったときのキリストは養子にほかならないという説を立てた。
p.154
ネーデルラント伯フロリス四世は教皇からシュテディンガー人攻撃を命じられた。かれらはゲルマン民族に属し、ヴェーザー川の近くに住んでいたが、ブレーメン大司教の世俗司法権を認めることを拒んだので、大司教が教皇グレゴリウス九世に、かれらを異端者として告発した。…ブラバント公、クレーフェ伯、ネーデルラント伯の軍隊が合わせて三百隻の連合艦隊を編成してシュテディンガー人を攻撃し、残虐な戦闘で四千人から六千人が殺され、残りはヴェーザー川で溺死し、あるいは散り散りになって逃げのびた。
p.164
キリスト自身、処女マリア、そして多数の聖人が生前に功績の「貸方残高」を積んでおいたので、弱さから罪で欠損を出し、煉獄で長い時間を過ごさなければならなくなった兄弟たちはそこから預金を引出すことができる、という信仰があった。
p.241
たしかに初期の敬虔主義者の一人であるミュラー(一六三一−一六七五)は説教、バプテスマ、聖餐、告解を「偶像」として弾劾したらしいが、恵みのための手段としての行なわれた行為オプル・オペラートゥム(つまり恵みはサクラメントや説教の単なる実行に内在する、したがって恵みを伝えるにはそれらを行なうだけで十分であり、受ける者の能動的な用意は要らない、という意見)を否定しただけだと弁明して認められた。



■トルコ・イスタンブール最古のビザンツ建築、ユスティニアヌス帝が聖人に捧げた教会「キュチュック・アヤソフィア」
(GOTRIP! - 11月02日 06:40)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=206&from=diary&id=5849187

トルコ共和国最大の都市、イスタンブールは、かつてビザンツ帝国の帝都コンスタンティノープルとして栄華を極めました。

イスタンブールには、ビザンツ時代の歴史ある建造物がいまでも残っており、博物館として一般公開されているものや、街中に当時のままの面影を残しながら建っている記念碑などが数多く見られます。

イスタンブールの観光でまず外せないアヤソフィア博物館は、聖堂からモスクに、そして無宗教の博物館に転用された代表的なビザンツ建築のひとつですが、そんなアヤソフィアを建設したユスティニアヌス1世が建設したもののなかに、「キュチュック・アヤソフィア」があるのは、あまり知られていません。

「キュチュック・アヤソフィア・モスク(Küçük Ayasofya Camii)」は、小さなアヤソフィアという意味です。あのアヤソフィア大聖堂と同じく、コンスタンティノープル陥落後に教会(聖堂)からモスクに改修されました。「キュチュック・アヤソフィア」は博物館には転用されず、現在でもムスリムの祈りの場として利用されている現役のモスクです。





「キュチュック・アヤソフィア」は536年にユスティニアヌス帝によって「聖セルジウス・バッカス教会」として建設されたのが起源です。アヤソフィア博物館よりも歴史は古く、イスタンブールに現存する最古のビザンツ建築として、マルマラ海岸沿いに静かに佇んでいます。

ユスティニアヌスがまだ皇帝になる前、当時の皇帝ユスティヌスに暴動を仕掛けたとして処刑されるところでした。ユスティニアヌスが処刑に課される前のある夜、二人の聖人セルジウスとバッカスがユスティヌスの前に突如現れ、ユスティニアヌスを処刑しないように伝えました。その結果、ユスティニアヌスは処刑を逃れ、数年後の527年に皇帝になることができました。ユスティニアヌスは、自身が皇帝になることを手助けしたこの二人の聖人に、教会を捧げるべく建築したという伝説が残っています。

コンスタンティノープルが陥落し、オスマン帝国の領土になってから約60年後の1513年、当時のトプカプ宮殿のハレムの宦官長ヒュセイン・アーによって、教会はモスクに改修されました。1740年には大宰相ハジュ・アフメト・パシャによって泉亭が増築され、1762年には初めてミナレット(尖塔)が建てられ、時代が経つごとに、教会はよりいっそうモスクらしい姿に変わっていったのです。

モスクに転用されたものの、教会の内部には古代ギリシア語の碑文が残っていたり、所々にビザンツ時代の面影を感じることができます。真っ白な天井や壁面と、青の絨毯のコントラストが美しい空間です。トルコ史上最高の建築家と評されるミマール・スィナンが、リュステム・パシャ・モスクを建設する際に、この「リトル・アヤソフィア」の建築構造を手本にしたというくらい、当時としては珍しくユニークな造りであったことは言うまでもありません。





イスタンブールを訪れたら、ぜひ「リトル・アヤソフィア」にも立ち寄ってみてください。この街が辿った複雑な歴史や、ユスティニアヌス帝の秘められた思いを、きっと感じることができるはずです。

Post:GoTrip!http://gotrip.jp/ 旅に行きたくなるメディア

名前 キュチュック・アヤソフィア・ジャーミィ
住所 Küçük Ayasofya Mh., Küçük Ayasofya Cami Sk. No:20, Istanbul 34122


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