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2020年03月25日10:46

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多くの人たちが自分の死を自覚したら

人さまざまにしろ、まず自分の弱さ・はかなさを悟り、自分を愛しく思い、次いで他人にもそのようにし合うわけだから、ものすごい愛の世界ができる。努力や力みのない愛。ジョン・レノンの「イマジン」の歌詞のように、究極的には国境や宗教の壁も消えるわけである。


  死を元々自覚していた一部の人たちを除き、今までは自分の精神力で多くの人たちは生きよう・愛そうとしていた。福祉や宗教関係さえもかなりそうだった。どうにもならない自分の死を自覚できないとこうなる。実はこれが世界のかなりの人たちの葛藤や不幸の原因だったのだ。人間の精神力・知力は本当は微々たるものである。誰も自分の人生を精神力で作れない。愛はもっとできない。どんなに好きな異性でも。離婚や非婚も当たり前だったのではないか。また、島田療育園が崩れていった様子も。園児たちを支えていた人たちはクリスチャンも、信仰を持たない人や仏教信者も、精神力で支えていた。限界があったわけだ。ライ予防法を作った旧厚生省役人たちも同じである。かつて一時的に栄え、すぐ内紛などで潰れたボランティア関係や身障運動も。

  むしろ、「愛そう」と精神力を持たず、「弱い人同士だ」と思い合うと、心も通じ合い、相手が必要とするケアだけを行ない合い、うまくいくわけである。何も福祉関係に限らず、全ての人間関係に言える。

  また今までの宗教。「自分の死」を自覚した人たちの信仰はまともなものばかりだったと思う。でも、それを自覚しない人たちの神や仏は何なのか。いきなり聖書やお経を読み、自分の知力で神や仏の観念を作り、精神力で愛や奉仕を実践していたのではないか。または、オウム真理教のように、宗教家が信徒たちに頭ごなしに信仰を丸呑みさせるとか。それらの神とか仏は実は「自分の姿の投影」にしか過ぎないわけである。または、教祖や宗教家とか。その他、国家を神に投影とかもある。1945年までの日本にあった国家神道とか、1979年以降のイランのイスラム体制が例として挙げられる。

  本当の神や仏も、死の自覚から「どうにもならない自分。精神力も、知力もダメ」と悟ってから、人間ではなく、神仏の方からやってくるわけである。まさに、親鸞上人の説いた「自然法爾」。

   最後に、昨日から久しぶりに「歎異抄」を読み始めている。再読。コロナから想った「死の自覚」の問題にしろ、これからの僕の生き方にしろ、GFたちの一人から出るかもしれない結婚縁や愛の作り方にしろ、カギとなるものが説かれている気がするからです。但し、これも前とは違い、知力ではなく、自然な感じで読んでいきたいです。無論、現代日本語に訳されている文を中心に読むと。今、親鸞が我々の前に現れたら、当然、現代日本語で語り掛けるわけですしね。

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