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2023年11月24日00:39

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オットー大帝―辺境の戦士から「神聖ローマ帝国」樹立者へ (中公新書) 三佐川亮宏 中央公論新社 2023年08月25日

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p.174
それは普通の長弓を凌ぐ貫通力を誇ったが、弱点は湿り気であった。接着部が剥がれて、弓が壊れてしまうのである。後世の一三世紀末のハンガリー側の史料は、この日の戦闘中に雨が降ったことを伝えている。ヴィドゥキントも「この日の酷く厳しい太陽の灼熱」に言及している(後述)。熱雷が起き、雨で濡れた反り弓が充分に機能しなかった可能性があるのである。
 もちろん、勝因は他にも考えられる。歩兵隊同士の衝突で陣形を崩されたハンガリー人側が、オットーの重装備の騎兵に有利な接近性に持ち込まれ、予期せぬ正面攻撃で虚を衝かれた。あるいは、騎兵の陽動作戦が裏目に出て、パニックになり退却、逃走へと繋がった……。
…リアーデの戦いと決定的に異なるのは、国王軍が逃走する敵勢を執拗なまでに追跡し、全滅へと至らせたことである。掃討作戦は徹底していた。ハンガリー人が東方への退却時に渡るバイエルン地方の河川は厳重な監視下に置かれた。辛うじて逃げおおせた者も、遅れて到来したベーメン大公ボレスラフ一世の援軍によって討ち取られた。
p.201
オットーはすでに現世における最高の地位である「皇帝」に相当する権力を事実上獲得していたが、その称呼は一介の「国王」にすぎない。現世の秩序を乱すこうした事態は是正されねばならない、ということになる。
p.232
ゲーロは二年前の九六三年、エルベ川およびオーデル川の上流域に定住するラウジッツ族を相手に、自ら深傷を負いながらも勝利を収めていた。さらに、この頃オーデル川以東で急速に勢力を伸長しつつあったポーランドの建国者ミェシコ一世をも屈服させ、その領土の一部について貢納を課した。
 もっとも、勇将ではあるものの、敗者となった異教徒に対する仕打ちは残忍さを極めた。
p.244
 「最高神スヴァロツィク」については、若き日にティートマルとともにマクデブルクの大司教座聖堂学校で学び、後に異教徒伝道大司教に叙階されたクヴェーアフルトのブルーノ(九七四/九七五〜一〇〇九年)に国王ハインリヒ二世に宛てた書簡中でも、端的に「悪魔」として言及している。
p.245
 さらに、九八三年には、ザクセン人の苛斂誅求に耐えかねたエルベ=オーデル間の西スラヴ系諸民族が、レダーリ族を中心に「リュティチ同盟」を結成して異教に舞い戻り、エルベ川中流域に位置するブランデンブルク、ハーフェルベルクの両司教座を徹底的に破壊、略奪した。下流域のハンブルクも灰燼に帰した。オットーによって東方に向け大きく伸長した帝国とキリスト教の勢力圏は、再びエルベ川の線まで後退することとなるのである。
p.270
 ところで、筆者が本書全体を通底する基本的視点として常に念頭に置いていたのは、こうした一九世紀以降の「国民史」、ナショナル・ヒストリーが標榜した「ドイツ」の一国史でもなければ、単なる権力史でもない。前近代のヨーロッパ伝統社会における支配の正当性をめぐる問題(M・ウェーバー)である。若き日のオットーを規定したのは、荒々しい「ザクセン人」の戦士社会である。国王登位以後は、カール大帝に接合する「フランク的伝統」がそれに加わる。皇帝戴冠以後は、およそ中世人が知っていた最高の正当性原理、すなわち普遍的・キリスト教的形象としての「ローマ帝国」が舞台となる。「ドイツ」なる王国や民族は、まだこの時代の政治地図には登場していなかったのである。
p.271
このため、南のシュヴァーベン人とバイエルン人の大公領の統治は、国王に次ぐ存在である大公の手に委ねられていた(一八六頁)。しかし、オットー一世以降三代の同名の皇帝による集中的なイタリア政策(九六二〜一〇〇二年)は、南ドイツの両大公領を含めた王国内の諸民族を大規模かつ継続的な軍事遠征へと動員した。彼らは対外活動を共同で担い、かつ高度なイタリアの文明世界との接触という体験を通じて一個の「運命共同体」へと変貌し、従来の民族間の競合関係を超越した。こうした個々の民族の対等性を前提として、その上位に新たに形成された大民族こそ「ドイツ人」にほかならない。
 この民族名は、中世ラテン語形容詞theodiscus/teutonicus(各々七八六年、八七六年史料初出)に由来し、本来は「ラテン語」と対比された「民族/民衆の(言葉)」という普通辞の意味で、ゲルマン語系の諸々の俗語(ゴート語、ランゴバルド語、フランク語、ザクセン語、古英語、古ノルド語ほか)を広く指していた。ところが、ラテン語から派生したロマンス語を母語とするアルプス以南のイタリア人は、九世紀前半以降この普通辞を、特定の言語集団、すなわち北方の隣国である東フランク王国から到来するゲルマン語系の人々の表記へと限定し、これら「ドイツ語を話す人々」を一括してTheodisci/Teutoniciと総称するようになった。
p.272
さらに、オットーの第一次イタリア遠征がおこなわれた一〇世紀半ば以降になると、それは言語の次元を超えた民族名へと転用された。この意味で「ドイツ人」を初めて用いたのは、実はランゴバルド=イタリア人のリウトプランドである(『報復の書』第一巻五章、第三巻二〇章、『コンスタンティノープル使節記』第三三、三七節)。
 こうした言語に着目したイタリア人による他称用法は一〇〇〇年頃、今度は「ドイツ人」自身によって自称として受容された。
p.273
それまでの皇帝の公式称号「尊厳なる皇帝(imperator augustus)」に代わって「ローマ人の皇帝(imperator Romanorum)」を採用したのも三世である。
 なお、現代ドイツ語の形容詞deutsch(”ドイツの”)の古形であるdiutiskが初出うるのは、ラテン語表記よりもはるかに遅い一〇〇〇年頃である。民族表記の登場は一〇八〇年頃まで待たねばならない。俗語の語法は常に、先行するラテン語の影響下に置かれていたのである。
p.274
 彼〔オットー一世〕は、最初のドイツ人(Teutonici)の国王と呼ばれたが、その理由はおそらく、彼がドイツ人を統治した最初の国王だったからではあるまい。むしろ、彼が(中略)カール〔大帝〕にちなんでカロラーないしカロリンガーと呼ばれた支配者の後に、別の血統、すなわちザクセン人に生まれた者として、初めて皇帝位を〔イタリア人から〕ドイツのフランク人〔東フランク人〕の手に取り戻した人物だったからである。

 複合国家であるイタリア王国の住民の総称としての「イタリア人」という民族名もまた、一〇世紀半ばまでは存在しなかった(一二三頁)。それが出現するのは、奇しくもオットーの第一次イタリア遠征の時期である。…
 中東欧諸国を含めた今日の「ヨーロッパ」の原型が形作られたのは、まさにこの「長い一〇世紀」を通じてであった。
p.275
 それでは、「ドイツ王国」という政治的術語はいつ出現したのだろうか?
 実はこれもイタリア人による命名である。…「アルプス以北の王国」、ブルグント王国、イタリア王国の”三位一体”から構成される多民族国家としての中世ローマ帝国の形がここに出来上がった。…
…グレゴリウスは、ローマで皇帝として戴冠する以前の国王、すなわち「ドイツ人の国王(rex Teutonicorum)」の統治権が妥当する領域を、本来の権力基盤であるアルプス以北の王国、すなわち「ドイツ王国(regnum Teutonicum)」に限定したのである。
p.276
 皇帝権が主張する「ドイツ人のローマ帝国」に対するアンチテーゼとしての「ドイツ王国・国王」というプロパガンダの言葉は、以後教皇書簡を通じて広く普及・定着することになった。…

 ”グレゴリウスの実験”、すなわちアンチテーゼとしての「ドイツ王国・国王」というネガティブな含意のプロパガンダに対して、ハインリヒ四世の息子の国王ハインリヒ五世(国王在位一一〇六〜二五年、皇帝在位一一一一〜二五年)が返した回答は、もちろん「ドイツ人の国王」などへの自己限定ではなかった――「ローマ人の国王(rex Romanorum)」。
p.277
もっとも同じ頃、バルバロッサの側近の一書記は、「神聖帝国(sacrum imperium)」という名称をすでに考案していた(一一五七年)。「聖ローマ教会(sancta Romana ecclesia)」を模して両者を統合した「神聖ローマ帝国(sacrum imperium Romanum)」が初出するのは、一一八四年の皇帝証書においてである(それゆえ、「神聖ローマ皇帝」という表記は厳密には正しくない。「神聖」なのはあくまでも「帝国」であって、「皇帝」ではない)。
p.278
そして、ローマでの最後の皇帝戴冠(一四五二年、ハプスブルク家のフリードリヒ三世)を経た一四七〇年代、「ドイツ」の名辞は、ようやく帝国の公式の呼称に取り込まれるようになる――「ドイツ・ネーションの神聖ローマ帝国(Heiliges Römisches Reich deutscher Nation)」。
p.283
(2) 堀越宏一「中世ヨーロッパにおける騎士と弓矢」69頁以下。
p.285
堀越宏一「中世ヨーロッパにおける騎士と弓矢」小島道裕編『武士と騎士――日欧比較中近世史の研究』思文閣出版、2010年、55〜88頁



カミラ王妃、ドイツ訪問最終日はヴィクトリア女王がウェディングドレスにつけたブローチを着用
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チャールズ国王とカミラ王妃がドイツへの公式訪問の最終日に、同国第2の都市ハンブルグを訪れた。王妃はネイビーブルーのコートを纏い、左胸にはヴィクトリア女王が愛用した巨大なサファイアのブローチをつけていた。このブローチはヴィクトリア女王がドイツ出身のアルバート公から贈られ、ウェディングドレスの中央につけたものだ。その後英王室で歴代の王妃や女王に受け継がれ、生前のエリザベス女王もドイツ訪問で着用するなどお気に入りのジュエリーのひとつだった。

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チャールズ国王が即位後初の外遊となる、ドイツへの公式訪問を行った。国王とカミラ王妃は現地時間3月29日午後、ドイツの首都ベルリンにあるベルリン・ブランデンブルク国際空港に到着し、3日間にわたるツアーを開始。ベルリンのブランデンブルク門で、ドイツ連邦共和国のフランク=ヴァルター・シュタインマイヤー大統領とエルケ・ビューデンベンダー大統領夫人の歓迎を受け、夕刻にはベルリンのベルビュー宮殿(大統領官邸)で大統領夫妻が主催した国賓歓迎の晩餐会(State banquet)に出席した。

滞在2日目の3月30日にはチャールズ国王がドイツ連邦議会で演説を行ったほか、夫妻でヴィッテンベルクプラッツにあるフードマーケットを訪れるなど、ベルリンで多忙な一日を過ごした。

最終日となる3月31日午前にはベルリンから列車で約2時間かけ、ドイツ第2の都市ハンブルグのダムトール駅に到着。その後、キンダートランスポート記念館に直行した。キンダートランスポートとは、英国がナチス支配下にあったユダヤ人の子供達を救済する作戦で、9か月間で1万人以上の子供達が鉄道や船によって英国に移送された。

この日カミラ王妃は、ロンドンのオートクチュール・ブランド「Anna Valentine」によるネイビーブルーのコートを纏い、左胸にはヴィクトリア女王が所有したサファイアとダイヤモンドのブローチをつけていた。このブローチは国王夫妻のドイツ訪問にとって、特別な意味を持つジュエリーでもある。

巨大なサファイアをダイヤモンドで囲んだブローチは、1840年2月10日に執り行われたロイヤル・ウェディングを前に、ドイツ出身のアルバート公が花嫁となるヴィクトリア女王に贈ったものだ。

アルバート公は1819年に、ドイツのザクセン=コーブルク=ザールフェルト公エルンストの次男として生まれた。ヴィクトリア女王の母親ヴィクトリア・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールドもドイツ出身で、アルバート公の叔母(父親の妹)にあたる。

ブローチを受け取ったヴィクトリア女王は自身のロイヤル・ウェディング当日、ウェディングドレスの胸元にこのブローチをつけ、アルバート公との永遠の愛を誓ったのだ。

ヴィクトリア女王は生涯を通してこのブローチを愛用し、崩御後にはアレクサンドラ王妃、メアリー王妃、エリザベス皇太后、そしてエリザベス女王によって受け継がれた。

生前のエリザベス女王もこのブローチを大変気に入っていたようで、ドイツへの公式訪問を含む多くの機会で着する姿が目撃されている。

女王は2015年6月に夫のエディンバラ公フィリップ王配とドイツを訪問した際、このブローチをつけてベルリンの空港に到着していた。

ドイツ訪問最終日、チャールズ国王とカミラ王妃は、第二次世界大戦中に英米の連合軍がハンブルクを空襲した際に破壊された教会の跡地である聖ニコライ記念館に移動し、その後には市庁舎を訪れた。この後国王はグリーン電力によるボートツアーへと向かい、王妃は地元の小学校を訪問した。

最終日のラストには、ハンブルグの埠頭にあるイベント会場「Schuppen 52」で祝賀レセプションが開催された。国王夫妻はドイツ全土から集まった若者のグループや市民団体、関係者ら1000人以上に見守られ、国賓訪問のフィナーレを飾った。



画像は『The Royal Family 2023年4月1日付Instagram「Over the past three days,」、2023年3月31日付Instagram「Hallo Hamburg!」』のスクリーンショット
(TechinsightJapan編集部 寺前郁美)


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