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2023年09月12日16:55

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西突厥史の研究 内藤 みどり 早稲田大学出版部

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p.386
もしこの推論があたっていれば、マニアクのいう4君主は、大可汗木杆、当面可汗地頭、西面可汗ディザブロスそして北方にいたもう一人の可汗、ということになる。ユール(H. Yule)氏は、オグズ・カーンの子孫として知られたる4部族のKallats、Kanklis、Kipchaks、Kharliksを、マニアクの話した4領だろうか、と疑われている(H. Yule & H. Cordier, Cathay and the Way Thither, vol 1, London, 1915, Reprinted, Peking, 1942, p.210. n. 2)。
p.387
そこで彼は進軍し、彼らの王を殺し、そして彼の全家屋を滅ぼした〉(al-Tabari, I 899; Th. Noldeke, Geschichte der Perser und Araber, S. 167)とあり、さらにシンヂブー可汗について、〈彼はハイタールの王ヴァルツを殺した人であった。かの兵の数や強さを恐れず、彼は自分の軍隊を率いて王を殺し、彼の富財を分捕り、コスローの手に落ちた地域を除いて、彼の国を征服した〉(al-Tabari, I 895; Th. Noldeke, ibid., S. 159)と述べている。
p.388
すなわち突厥部族は鍛鉄を業としていたのである。
p.390
 東ローマやイスラム教徒によれば、カンカアル(Kankar)あるいはカンガール(Kangar)と呼ばれる部族が9世紀頃タシュケント付近にいたという(J. Marquart, Die Chronologie der altturkischen Inschriften, SS. 9-10)。さらに13世紀にはカングリ(Kangli)あるいはカンクリ(Kankly)という部族がアラル海からシル河にかけて遊牧しており、カンクリ(Kankly)とはトルコ語で〈車〉のことであるという。あらにアブルガージーによれば、この民族はチンギスハーンのあと、イシククール湖からチュ河、タラスまで支配していた(E. Bretschneider, Mediaeval Researches from Eastern Asiatic Sources, 1, London, 1910, p.301)。またカルピニはコマニ(キプチャック)の後にカンギタラスの名を記し、ルブルックはカングル(Kangle)部族をあげている(Rockhill, op. cit., pp.36-37, 129)。これは元史に康里とも記されている。白鳥博士は両者を区別して、前者を康居と結びつけられた(「康居考」『西域史の研究』上, 94〜97頁)。さらに松田博士は、唐代の康曷利が両者にあたるものとされ、〈車〉という意味をもつ山を有する弓月部落に比定された(「弓月についての考」『古代天山の歴史地理学的研究』329〜331頁)。突厥キョルーティギン碑文(東面第39行)には、ソグディアナから鉄門に至り、そこでの黒姓突騎施との対立をのべた後、〈カンガラス(Kangaras)ニ向ケ彼行キタリ〉とある。小野川秀美氏はこのカンガラスを康曷利とされた(「突厥碑文訳註」『満蒙史論叢』4, 301頁)。
p.391
奄蔡は閻蘇とも記されているが、これらはアランの別名Aorsi、Ase、Aas、Asの訳である。…
…ロシア人はアランのことをYasyと記している。…
(27) アランの王サロディオスは、557年、アヴァール人の君長を東ローマに紹介入貢させた。そしてこの時、東ローマの極東の区域を支配していたのが、後のユスティノス帝であったのである。
…デルベンドは〈狭い、閉じられた道〉という意味をもっており、アラビア人は〈門中の門〉と呼び、トルコ人は〈鉄門〉といっている。
p.392
アカガスの語幹はアカガであるが、トルコ語で王妃を〈可敦〉あるいはモンゴル語で〈可賀敦〉というから、この地はその名をとったものではないだろうか。…さらにアナガイオスは、蠕蠕の有名な王阿那瓌と同名である。…
…おそらくディルジブロス可汗の子トゥルクサントスは、突厥において重要な名称とされている〈咄陸〉を名としている設、すなわち〈咄陸設〉であろう。
p.402
次に、この名のTourxanthの後半であるsanthについては、J. Marquart氏がすでに突厥の有名な官名の一つである設、すなわち突厥碑文に見えるsadに比定されている。(25)
p.406
 ここでとりあげる〈トルコ大王Shaba〉は、タバリーTabariの伝える人物で、同じイスラム史家のヤアクービーYa'qubiも〈トルコ王Shaba〉といい、サアーリビーTha'alibiは〈Shaba、shahanshah〉、ディーナワリーDinawariは〈Nushaba〉と呼んでいる。
p.407
このBarmudaにあたるべきShabaの子をディーナワリーはYaltakinとして記している。(3)
p.409
 一方、唐僧悟空はその「入竺記」の中で、カシュミールに、也里特勤寺があることをのべ、突厥の王子がこれを造ったと記している(『大正大蔵経』5, 史伝部3,980頁)。この也里特勤がYel-tiginに比定されるのは、突厥人であることと、名称の一致によるだけであるが、おそらくYel-tiginは突厥の王子として、トハーレスターンからカシュミールにかけての統治権を与えられていたと思われる。
p.410
マルクァルト氏はこの〈赭羯〉をペルシア語のchakar(召使い)にあて、その王の親衛隊をいうとされたが、(13)ナルシャヒーの『ブハラ史』にも、土地所有者であるディフカーンたちの子弟が、その支配者であったkhatunの親衛隊として侍居している様子が描かれている。(14)
p.411
同じことは『資治通鑑』によると、
 (陳)禎明二年十二月、突厥莫何可汗西撃隣國、中流矢而卒。 (巻175, 陳紀9)
と記されているから、禎明2年、すなわち588年に、處羅侯は流矢に中って死んだのである。…そこでMazk'it'王すなわち莫何可汗處羅侯は、当然Shabaであるはずであるが、マルクァルト氏はShabaの名を出さず、かえってShabaをクシャンの王Saukに、Barmudaを同じクシャン王Pariowkに比定されている。(21)
p.412
 さて話をもとに戻して、Shabaと處羅侯を結ぶマルクァルト説(第一説)に、saba-jaba-jibu-jabghu-葉護という音韻変化が可能であることを説いて、Shabaが處羅侯の葉護可汗の葉護にあたることをプラスし、第二の説を強化されたのは岑仲勉氏であった。(22)…次いで前嶋氏は、タバリーがShabaの名を記す時、最後に〈ター・マルブータ〉をつけてShabat Malik al-Turkと書き、ヤアクービーはSH. A. B. H.と書くから、最後に母音をつけて読むと、Shabahu、Shabuhuなどと読める。
p.415
 グミリョフ氏はここに登場するAbruiを阿波可汗に比定し、トルコ王Qarajurin Turkを達頭可汗に、その息子Shire Keshvarを泥利可汗の父鞅素特勤にあてるのであるが、さらにこのShire Keshvarすなわち鞅素特勤がShabaに比定されるのである。
p.420
 そこで、584年隋に来降した達頭可汗が、ユルドゥズを居住地としていた鼠尼施部と歩調を合わせていたことは、やはりユルドゥズの西突厥の中心牙庭を阿波に譲ったにちがいないことを示している。…
…とすれば、達頭はやはり西突厥には戻った形跡はないのであって、Bahram Shubinの頼ったトルコ王ではありえない。そこでこのトルコ王は、〈西面突厥泥利可汗〉『隋書』(巻84突厥伝)を措いて比定するべき人物はいないと思われる。


「横尾忠則 寒山百得」展が東京国立博物館で開催、新作100点を初公開
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=63&from=diary&id=7264662

 「横尾忠則 寒山百得」展が、東京国立博物館 表慶館で開催される。会期は9月12日から12月3日まで。同展は文化庁、宮内庁、読売新聞社が取り組む「紡ぐプロジェクト」の一環として企画された。

 会場では新型コロナウィルス感染症の流行下に、アトリエで創作活動に没頭していた横尾忠則が制作した「寒山拾得」シリーズの新作100点を初公開。同作では中国、唐代の伝説上の詩僧である寒山と拾得を横尾独自の解釈で再構築したという。
 関連企画として、東京国立博物館の本館特別1室では同館が所蔵する中国と日本で描かれた「寒山拾得図」を一堂に集めた特集「東京国立博物館の寒山拾得図―伝説の風狂僧への憧れ―」を開催する。期間は9月12日から11月5日まで。

■「横尾忠則 寒山百得」展会期:2023年9月12日(火)〜12月3日(日)会場:東京国立博物館 表慶館(上野公園)所在地:東京都台東区上野公園13-9開館時間:9:30〜17:00休館日:月曜日※入館は16:30まで※9月18日(月・祝)と10月9日(月・祝)は開館で、9月19日(火)と10月10日(火)は休館


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