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2022年02月05日00:27

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物語 アラビアの歴史 知られざる3000年の興亡 (中公新書) 蔀勇造 中央公論新社 2018年7月25日

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p.167
特に有名なのはクテシフォン近くに位置するベト・アルシャームの主教シメオンである。ペルシア生まれで論争に長けていることで名高く、ナスル朝の首都ヒーラやクテシフォンにおいてさえ説教を行い、ムンズィルの部下のアラブ部族民のみならずゾロアスター教の聖職者さえ改宗させたと伝えられる。先に触れたラムラの会見に、シメオンがビザンツ側交渉団の一員として加わっているところに、彼の影響力の大きさが窺える。またネストリウス派から合性論派に宗旨替えしたアフーデンメーは、ティクリート(後にサラディンやイラクの元大統領サッダーム・フセインがここで生まれた)の主教としてジャズィーラ(イラク北部のティグリス川とユーフラテス川に挟まれた地方)のアラブ部族民への布教に大きな成果を上げた。
p.169
このヤコブの任命をテオドラに強く働きかけたのが、ジャフナ朝のハーリスであった。
p.170
そのうちの一名は前述のヤコブであるが、もう一人のおそらくジャービヤの主教になったのではないかと言われるテオドルは、シリア南部からアラビアへかけての砂漠の民への布教に尽力した。
p.172
 アラブの伝承ではアスアド・アブーカリブ(碑文のアビーカリブ・アスアド)がヤスリブに遠征した際に、その地のユダヤ教徒の影響を受けて自身もユダヤ教徒になったとされている。
p.174
しかしおそらくこの世紀の末あたりに、宗主をもって任じるアクスムの介入があったようで、六世紀初めに王位にあったマルサドイラーン・ヤヌーフは、おそらくキリスト教徒であったろうと言われる。…
…これに対して当時のアクスム王エッラ・アスベハ(キリスト教徒名はカレブ)は、危機に瀕しているヒムヤル領内のキリスト教徒を救援するために、紅海の対岸に遠征軍を派遣する決意を固めた。
p.176
 そこで次のヒムヤル王には、キリスト教徒のマァディーカリブ・ヤァフルがアクスムに拠って擁立された。…なお先に見た、ナスル朝のムンズィルに対抗して五二一年に中央アラビアに遠征したのがこのヒムヤル王である。
…首謀者はアラブの伝承ではズルア・ズー・ヌワース(ユダヤ教徒名はユースフ〔ヨセフ〕)と呼ばれ、碑文にはユースフ・アスアル・ヤスアルという名で登場するユダヤ教徒で、臣下の碑文の中でさえヒムヤル王の正式な王号は付されず、単に「諸部族の王」と呼ばれているところから見て、ヒムヤル王としての正統性を欠いた簒奪者であったことは疑いない。
…そして自身はアクスム軍の襲来に備えて海岸部の迎撃態勢を整える一方で、腹心のシャラフイール・ヤクブル(ヤズアン族の首長でアラブの伝承ではズー・ヤザンと呼ばれている)を当時キリスト教徒の牙城となっていたナジュラーンに派遣し、町の包囲を命じるとともに、北から来襲するかもしれぬキリスト教徒への援軍に備えさせた。
p.177
 その後、この町のキリスト教徒の指導者であったハーリス(ギリシア語ではアレタス)をはじめとするキリスト教徒たちはユダヤ教への改宗を迫られるが、拒んだために十一月二十四日と二十六日の二日間に多くの者が処刑され殉教した。
p.178
 先に名を挙げたベト・アルシャームの主教シメオンは、ラムラの会合の場でズー・ヌワースの書簡が読み上げられるのを聞いた後、ヒーラでナジュラーンから到着したキリスト教徒から新たに聞き出した情報も付け加えて認めた手紙を、同じ合性論派に属するシリアのガッブーラーの大修道院長シメオンに宛てて送った。…またナジュラーンがその後ウフドゥード(坑)と呼ばれるようになったことを見ても、人々の受けた衝撃の大きさが窺える。
p.180
 エッラ・アスベハによって新たに、キリスト教徒のスムヤファァ・アシュワァがヒムヤル王位に据えられた。
p.181
 他方、ヒムヤルのスムヤファァ王に対しては、ナスル朝のムンズィルに殺されたキンダ族のハーリスの子孫で、当時亡命中であったカイスをマアッド族の王に即け、ヒムヤル軍とマアッドの部隊が一体となってペルシア領に攻め込んでくれるようにと要請した。
p.182
というのも後日ユスティニアヌス帝が、キンダ族とマアッド族を率いるカイスの許へノンノソスという使節を送っているからである。…ヒムヤルの王位は間もなくアブラハに簒奪されるが、ユスティニアヌスはこのアブラハに対してもペルシア攻撃を繰り返し促した。
p.183
このアブーカリブはジャフナ家のジャバラの息子と呼ばれているので、ハーリスの兄弟であったと思われる。
p.185
キリスト教の根本教義である「父なる神とその子キリストと聖霊」という三位一体の神に言及するに際し、アクスムの傀儡であったスムヤファァ・アシュワァは、「ラフマーナーン」に続けて「その子たる勝利者キリスト」を挙げている。ラフマーナーンは古代南アラビア語で「慈愛あまねき神」を意味する語で、南アラビアではこのころユダヤ教徒たるとキリスト教徒たるとを問わず、一神教の神を指すために用いていた。…
…アブラハはどの碑文でも「子たるキリスト」とは言わず、一貫して「メシア(救い主)」という語を用いている。同時代のアクスム王の碑文では「神」に続くのは「神の息子(キリスト)」なので、アブラハはエチオピア人でありながら、エチオピア教会の教義にも背いてあえてこうした表現を採ったと考えられる。
 イエスが救い主であることまでは認めないでもないが、神の子であることは絶対に認められないというのは、当時のユダヤ教徒や後のイスラーム教徒に共通するキリスト観である。アブラハは南アラビアに移った後に、その地の特に支配者層に浸透していたユダヤ教に影響されたか、あるいは支配地の住民との宗教上の摩擦はできるだけ避けようとこの点については妥協したかのいずれかであろう。
p.186
 ちなみにラフマーナーン(ラフマーン+限定辞アーン)はアラビア語ではアッラフマーン(定冠詞アル+ラフマーン)で、後にバスマラと呼ばれるイスラームの決まり文句「慈愛あまねく慈悲ぶかき神の御名において」で、アッラーの属性を指す形容辞として使用される語である。
p.189
キンダ、サァド、ムラード等、諸族の兵を率いて鎮定に向かい、マースィルの南のハリバーンまで進撃して叛徒を征伐した。降伏したマアッドは人質を差し出して恭順を誓ったというが、興味深いのは、ナスル朝のムンズィルによってマアッドの支配を任されていた息子のアムルも、アブラハと交渉の末、自分の息子を人質に差し出したと記されている点である。…
…アブラハはこの一帯のアラブ諸族、なかでもマアッドに対する支配権をヒムヤルに奪い返すために、遠征を繰り返していたと考えられる。なおこのアムルはムンズィルと彼に打たれたハーリスの娘ヒンドとの間に生まれた息子である。
p.191
 アブラハ没後、王位を継いだのは息子のヤクスム(アクスムとする史料もある)であったが、治世期間は数年と短かった。その後を継いだヤクスムの腹違いの弟マスルークは、アブラハがアブー・ムッラ・ズー・ヤザン、通称サイフ・ブン・ズィー・ヤザンの妻のライハーナを奪って生ませた子であった。ズー・ヤザンという族名からサイフが、すでに幾度か言及したイエメン東部に勢力を持つ部族(ヤズアン族)の有力者であったことが判る。政治的には反アクスムの独立派、宗教的にはユダヤ教徒であった。
p.192
しかし側近の進言も容れ、戦死しても惜しくない八〇〇人の罪人からなる部隊を編成し、ワフリーズを指揮官とする八隻の船団をペルシア湾から送り出した。…

 その後、ペルシア軍に同行したサイフを王とするサーサーン朝の傀儡政権が樹立された。
p.193
 サイフが間もなく死去すると、南アラビアの政情は再び混乱に陥った。そこでワフリーズが再度派遣され、以後この地はサーサーン朝の一つの州としてペルシア人の役人の支配を受けることになった。
p.194
そして病死したティベリウスの跡を継いで、宿敵ともいうべきマウリキウス(在位五八二〜六〇二年)が帝位に即くと、シチリア島への流刑に処せられたという。五八二年のことであった。この処置に怒った息子のヌウマーンは、報復としてビザンツの東方領を荒らし回り、属州アラビアの首府ボスラの守備隊と戦って隊長を討ち取りなどしたが、結局はほどなく父同様騙されて捕らえられ、処刑されたとも流刑に処せられたとも言われる。
p.195
それまでナスル朝の君主は一貫して多神教徒であったが、ヌウマーンが初めてネストリウス派のキリスト教徒として洗礼を受け、一族の者もそれに続いたという。
p.200
 伝承によると、ムハンマドの五代前の祖先に当たるクライシュ族のクサイイという人物であり、メッカの町の支配権を握ったという。
p.205
しかしシリアからの帰り荷となる穀物やブドウ酒も重くてかさばる荷物である。これを運ぶのに必要な頭数の駄獣にシリアまで皮革を担がせて行くのは、商人にとってそれほど大きな負担にならなかったのではないか。
p.206
 とはいえ商業のレベルが右に記した規模であった以上、経済の繁栄により社会的不公正や個人の倫理観の欠如が目に余る爛熟したメッカ、というのはどうも想像しにくい。したがってムハンマドがメッカにおいて新宗教を興すに至った要因は、別なところにあるのではなかろうか。
p.209
そこでムハンマドは信者たちに、エチオピアに亡命することを勧めたという。…
…攻撃が不首尾に終わった後、メッカのアムル・イブン・アルアースが仲間のクライシュ族の男数人を集め、一緒にナジャーシー(アクスム王)を頼ってエチオピアへ行かないかと提案したというのである。
p.210
 これらの伝承から判るのは、当時のメッカ市民は宗派や党派にかかわらず、アクスム王に保護を願い出れば、それが叶えられると信じていたという事実である。
p.211
 諸説挙げて検討する余裕はないので結論だけを記すと、私としては、シリア戦線でビザンツ軍を撃破したペルシア軍により六一四年に聖都イェルサレムが占領された事件が、このヒジュラの背後にあるという説に与したい。
p.223
イエメンのペルシア人支配者のバーザーンが、アブナーと呼ばれるペルシアからの移住者たちとともに改宗したのも、この年のことと言われる。
p.239
 「偽予言者」として最も有名でかつ有力でもあったのは、現在のリヤードがあるヤマーマ地方で勢力を持つハニーファ族のムサイリマであった。本格的な活動はムハンマドの晩年というのが通説であるが、布教時期はムハンマドより早いとみなす説もある。前章で触れた「ラフマーン(慈愛あまねき神)」への信仰を説いた。天の王国、復活、最後の侵犯などの教義には、ハニーファ族に信徒の多かったキリスト教の影響が指摘されている。後には、ハニーファ族とクライシュ族とで半島を二分する計略をムハンマドに書き送ったりしたが、ムハンマドの死後、アブー・バクルが派遣した討伐軍との戦いに敗れて殺害された。
 このムサイリマとの提携を試みたのが、モスル生まれと言われるタミーム族の女預言者サジャーフである。母親がキリスト教徒の多いタグリブ族出身で、サジャーフ自身もキリスト教徒であったという。占いや予言も行っていたらしいので、元々巫女的な女性であったのであろう。ムハンマド没後に預言者と称したが、教義についてはよく判らない。ほかにイエメンのマズヒジュ族のアスワド、メディナ付近に勢力を持つアサド族のトゥライハなどが「偽予言者」として名を残している。



■イスラエル大統領がUAE初訪問 皇太子と会談、安全保障で連携強化
(朝日新聞デジタル - 01月31日 07:37)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=6832555

 イスラエルのヘルツォグ大統領は30日、アラブ首長国連邦(UAE)の首都アブダビを訪れ、国政を取り仕切るアブダビ首長国のムハンマド皇太子と会談し、「UAEが安全保障で必要とすることを完全に支援する」と述べた。2020年夏の国交樹立以来、イスラエル大統領のUAE訪問は初めてで、安全保障面での連携強化を強調した。


 アブダビでは17日に国営石油公社への無人機やミサイルによる攻撃で9人が死傷し、24日にも2発のミサイル攻撃があった。イランが後ろ盾のイエメンの武装勢力フーシが犯行声明を出している。


 UAEの国営通信などによると、会談でヘルツォグ氏はフーシを念頭に、「テロリスト集団によるUAEの主権への攻撃をあらゆる形と言葉で非難する」と訴えた。これに対し、ムハンマド皇太子は「(ヘルツォグ氏の指摘は)特に武装組織やテロリスト集団による地域の安定や平和への脅威に対して(イスラエルとUAEの)共通の見解を示している」と応じたという。


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