昨日はタイトル詐欺にならないようにわざとダサいタイトルを付けた。目論見は成功したが、あまりやると澱がたまりそう。人に単純なレベルアップなんてない。異常事態において、自分の普段見えない部分に気付くだけのこと。「盲点の見方」とかのほうが良かったか。あるいは「視覚の可視化」だが、このタイトルどこかで使ったことがある気がする。
日中は完全にぼーっと過ごした。思考も実用的なレシピ検索とかしてない。無駄でも貴重でもないただの1日。キングダムを一気に読み返したくらい。法治国家における法とは人の願いだというのはなかなか面白い。神様でも人でもなく願いを言語化してそれに支配権を委譲する。人の根本は「欲=貨幣」対「光=善」だという対話も面白かった。僕はちなみに後者寄りなのだが、別に性善説とも違う。もっと人間的な善性のところであって、善と呼ばれるものでも無さげ。もう1つちなみに、読みながら考えていた訳ではなく書きながら考えているだけ。
素朴な自分がはばかられてしまうというのは、人は何事も自分の立場を前提として考えるから、そうではない存在に対しては忌避するか拒絶するかなのだろうなという学習があるから。自分がしんどいのに誰かが楽しているのは憎らしいし、自分が楽だからという前提がないと慈愛が起こらない。これは人間がもともとそうであるというより、そういうものであるべきと教え込まれている部分もあるように思うんだよな。
道徳の授業とかの自分とは違う(劣った)人の立場になって考えましょうって、相手も個人だということを度外視している。別に綺麗事ではなくなんとも雑な捉え方だなと。僕が集団を遠慮してしまうのは、個人の人格が捨象されるところにあるのだが、立場で括るのはそういうところなんよな。立場さえあれば自分がどう自分であるのか突き詰めなくて良いことにされている。
人間関係の機能性もこういうところから来ている。別に必要でも固有でもないから、ロミオとジュリエットとか、肝臓を食べたいとか、セカチュウとかに同情する。いや、これは具体的になることで必要になるというはありうるところだし、別に良いけど。
いちおうこういう俯瞰的な仙人みたいな視点を修行によって得たみたいに書いているが、本当は、僕がもともと物を知らないからなのだろうなと思う。道理を知らないでも良い。ほんとうの意味で無知なんだよな。発達心理学的に言えば最初の自我の形成に失敗している。
失敗はしているのだが、擬態はできるからとても真面(このまともの漢字、実況動画の字幕で初めて知った)に見せることはできる。たぶん物心ついてからずっとうごうご考えていた。
気付いただけでは無意味で実践を伴わないといけない。僕が社会的パートナー至上主義みたいなところから逃げてきたのは、自我の形成過程の家族関係がやばかったからとしてきたが、やばいのは家族ではなく僕だったのかもしれないと歴史の再解釈。
家族ってなんなんだというのは、18歳の時の父親の葬儀の時に母親と姉と妹が泣いていたときに感じたのはたしか。僕は寝ぐせでぼーっとしていた。なんでかというと、自分たちがストレスの原因になって殺した(刑法的な意味ではなく)のに、よく外に向いては泣けるなぁというところ。僕はものを知らなかったといえ、加担してしまった部分もありほんと闇の領域ではある。そういう空気に流されてしまったところ。もっと僕が素朴で居られたらあるいは。
重松さんの「流星ワゴン」で泣いてしまったのは、大学時代だったかな。
ただ、昨日だったかな、お父さんに対して、息子は自由に生きますね、みたいなことを祈れるようにはなった。血とかどうでも良く僕は個人として父親のことをもっと知りたかった。
まぁしんみりした話はともかく。
道理を知らないというのは、こういう時はこういうものであるという、感情のルールというか、思想のルールとか行動のルールとかそういうやつ。未だによく分かっていないが、空気読みスキルでなんとか対応している。有給の価値とか貨幣の価値も実感としては分かっていない。
こういう当たり前を疑わざるを得なかったのは、もともとの自己観が形成されていないものだから、しっくり来るものを見出さないといけなかった。今考えるともともとが無だった感もあるが、他人に自分が決められるという感覚がどうも駄目だった。別に自分で決めている訳でもないのに。
んで、恋愛関係も全人格で接するものだという建前を真に受けている割には実践経験ないから何もできず、1か月で振られた後でも自棄酒していた。そこからやや荒れたりして恋愛遍歴は割と外から読んでも面白いと思うのだが、長くなるので止めておく。ファーストキスの相手は、恋人ではなかったとか、相手を傷つけないことを優先して離れるとか。
そうして、二十代はやたらとまどろんでいた。
本は読んでいたし、おべんきょもしていたし、働いてもいたし、思い出せるようになったこともたくさんあるが、それでも自分がぼんやりしている。
人の言葉をまずは信じるというのも、当たり前の建前から学習。ちゃんと自分の言葉として言葉を扱っている人はとても少ない。当たり前の領域ではなくってきているが。人の言葉を信じるという観念は、その人が言ったことを事実とするのではなく、言質とする感覚なのだろうな。言ったからには本当なのだろうという他責。
最近やっと鮮明になってきたのは読んできたことと、無意識が考えてきたことと、出逢った人の啓示が一致してきたから。誰にも言わないところで考えてきて良かった。思考が言語であるという説を受け入れらないのは、そうだとしたら僕はとっくに潰れているからで、言語される思考はあくまで意識の部分でしかない。
僕の素朴な人格は、もともとないようなものであって良いのだというのが、読んできたものの中に確立した人間観を確定できている見解がないところ。学問的知見は、あくまで限定された領域における人間観であって人間そのものではないし、効用を求める経済学に重きをおくこともないし。
(もっと僕に辿り着いていれば一番長く過ごした恋人さんとの生活はありだったのかもしれないとふと。一番近かった人だし。ただ、もう遅い。)
仏教を今読めているのは、何かの巡り合わせなのだろうな。
僕の信仰対象は唯我独尊教だから参考にするだけだが、僕は一時期「賢い人」になりたいと思っていた。曰く賢人は清らかであるとのこと。そうそう、そんなやつ。
ここで言う、理法って、自分はこうあるべきというという外付けの観念かなと考えていたのだが、たまたま読んだキングダムからすると、自分に対する願い像なのだろうなとなる。これなら分かる。願いを実践するための規範。あくまで自分ルールな。
愚か者の章に、「自分には子がある、財産があると不安になる。自分すら自分のものではないのにいわんや」というのがあった。世の中の不安感をほとんど表現しているのでは。
この自分すら自分のものではないというところが面白い。
たしかにたまたま生まれて、たまたま生き延びたくらいのもので、自分で完全に生きてきた訳ではない存在を自分固有として固執する。
僕はもともとないようなものだが、何かを積むことで自分が確立しているとはしない。
自分の存在は自分しか知らなくてこれが絶対ということ。
だから、何か外の事によって自分が毀損されたりすることはない。
どこに生きているのかと問われたら、自分の人生を生きていますとなる。
あとは、どう遊ぶか。
ここまで。
おやすみなさい。
幸せでありますように。
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