以前はよく日記をアップされていた方が、日記をあまりアップされなくなったあと、
日中、仕事している中ではあれこれこういうことを書きたい、なんて頭に浮かぶんだけど、いざ書こうという段になるとなかなか・・・
なんてやりとりしたのを思い出した。
自分にも身に覚えがある。
仕事をしたり、子どもの相手をしながら、頭の中ではいろんな考えがくるくるまわり、こういうこと文章にしたいな、なんて思うことがあるのだ。
実際に文章にするかどうかは別として、
村上春樹の新作短編集の表題作『一人称単数』を読み終えて、そんなことが頭に浮かんだ。
なんとなくパリっとしたくなって、おしゃれして外に出る。
別に誰かと会うとか、そういうことじゃない。
独りを楽しむ。
そんなとき、頭の中ではいろんなドラマが浮かんでいるのかもしれない。
別に主人公がどうだ、ドラマチックな展開がどうだ、というのではない。ただ、バーにすわって、静かに酒を呑み、好きなミステリを読んでいるなんて素敵じゃないか。
そこまでの文章で、なんとなく村上春樹と自分の頭の中が同期している。
村上春樹は文章が良い。物語はよくわかんなくても。
なんていう人もいると思うんだけど、あるいはそういう同期がしやすいのが村上春樹の文章の魅力なのかもしれない、なんて思う。
そして、小説の展開としては最後に・・・。
頭の中では自分を描き出す文章が展開していたとしても、外の世界は普通、それに同期することはない。やさしく言えば、放っておいてくれる。
でも『一人称単数』の中では、現実は放っておいてはくれなかった。
一人称単数の世界は、一人称単数ではなかったのだ。
一番最後に置かれた表題作を読み終えて、あぁそういうことだったのか、なんて勝手に腑に落ちた。
明示されていない作品もあるけれど、いくつかの作品で物語の語り手は自ら『村上春樹』と名乗っている。作家と語り手は同じなのだ。
そして物語は、語り手と現実、あるいは彼の見ている世界と世界が提示してくる現実の齟齬が描かれる。
なんていうと、妄想がすぎるか。『ヤクルト・スワローズ詩集』とかは、そういう雰囲気とはちがうし。
まぁでも読み終えて思ったのは、そんなことだったし、そういうふうにとらえると、最初わけがわかんないと思えたはじめの方の作品も、腑に落ちる気がしたんだよね。
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