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2020年05月09日21:46

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キリスト教思想史 II: アウグスティヌスから宗教改革前夜まで フスト・ゴンサレス 新教出版社 2017年8月25日

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p.110
 この会議において神苦主義の問題が再燃したのは、カルケドン公会議に反対する者たちが「三位一体のひとつが受難した」という定式を承認することにこだわったためである。ユスティニアノスは、この定式に反対する者たちが過度に不寛容だと信じたため、皇帝の権力を行使して時の教皇ヨハネス二世からの支持を取り付けた。こうして、伝統的にアレクサンドリアと結び付けられる結合的キリスト論が強引な仕方で主張されることとなり、反対派である、神の言の完全な人性を確立するために闘ってきた少数派のアンティオキア的傾向を持つ人々にとって、大きな打撃となった。
p.112
ユスティニアノスが「ネストリオス主義」として非難したのは、マリアが「テオトコス(神を生んだ人)」であることを否定する者たちだけでなく、神の言から離れて(キリストの)人性が存在、あるいは先在し得たかのように神の言が人となったと主張する者も含んでいた。ユスティニアノスはこうしたネストリオス主義者の中に、ネストリウス自身だけでなく、テオドロス、テオドレトス、イバスの三名すなわち、かの三章を含めていた。五五一年の勅令が非難した単性論者は、真の極端な単性論者に限られていた。彼らはキリストの人性が隠れてしまうような仕方で神性と人性を混同していたのである。
p.115
 セルギオスはカルケドン主義者とセウェロス派単性論主義者の和解を実現する手段として、「一つの働き(μια εγεργεια)」という定式を「二つの本性」という定式と関連づけて提案した。カルケドンのキリスト論を受け入れると同時に、しかし、カルケドンの単なる「ヒュポスタシス」よりも強い仕方で、キリストの統一性を明確にする手段としての提案であった。「一つの働き」という表現が示そうとしたのは、救い主のすべての行為はキリストの一つの実体(ヒュポスタシス)によるのであり、それは単一の行動原理すなわち神の言であったということである。したがって、より厳密な定式は「単一の実体的働き」ということである。
p.116
 そこで、セルギオスは単働論に代えて、キリストは一つの意志を有していたとする教理である単意論を提案した。…
…後でこの章で触れる、「聖証者」としても知られるクリュソポリスのマクシモスは、「働き」あるいは行為の原理と意志は、どちらもペルソナもしくは実体(ヒュポスタシス)ではなく、本性(φυσις)に関連していると主張した。したがって、彼によれば救い主の内に「一つの実体的働き」あるいは「一つの実体的意志」があると言うべきではなく、むしろ「二つの本性的働きと二つの本性的意志」があると告白すべきである。
p.117
単意論とその支持者が異端宣告され、その中にセルギオスとホノリウスも含まれた。…この公会議の肯定的な面に目を向けるなら、公会議は「二つの本性的意志」が主キリストにあること、すなわち、カルケドンで宣言された二つの本性それぞれに、一つの意志が属するという教理を宣言した。
…極端な立場は否定され、イエス・キリストの完全な人性と神性が絶対的に強調され、なおかつ二つの本性はひとつの実体(ヒュポスタシス)へと結合されていることが表明された。
p.118
 最初に問題となったのは、キリスト教教理における心理が、哲学概念と一致するものとしないものがあることであった。それまでと同様、創造論と身体の復活が議論された。この議論に関して特筆すべき神学者は、「ガザの三人」と称されるガザのアイネアス、ミテュレネのザカリアス、ガザのプロコピオスと、アレクサンドリアの哲学者ヨアンネス・フィロポノスである。
p.119
 二番目の問題は新プラトン主義的神秘主義とキリスト教生活および神学との関係であった。この問題は、次項の偽ディオニュシオスを通して概観することにする。
 最後に問題となったのは、神学的な問題、中でもキリスト論に関する問題を解決するために、ギリシア哲学全般、特に哲学用語をどのように、どの程度用いるのかということであった。この問題に関しては、別の項でビザンティオンのレオンティオスと聖証者マクシモスを通して学ぶ。
p.120
 復活の身体と魂の不滅の関係については、アイネアスが『テオフラストス』の中で、魂は被造物であるが不死であると論じた。魂が自由意思を持つことが不死であることの明白な証拠であり、人間を神化へと導くことができる。現在の身体は死ぬべきものにすぎないが、終わりの日には再びよみがえらされて魂と永遠に結び合わされて、不死となる。この点においてアイネアスはヨアンネス・フィロポノスと異なっている。フィロポノスは身体の復活を否定し、そのことによって幾人かの神学者に批判された。

 この章が扱っている時代で、最も大きな影響を与えた東方の神学者は、間違いなく、アレオパギタのディオニュシオス(ディオニュシオス・ホ・アレオパギテース)という偽名の人物の著作である。
p.122
三位一体の実体(ヒュポスタシス)の一つである神の言が、受肉して世に来た。そこで、この実体(ヒュポスタシス)の内に二つの「本性」もしくは「本質」すなわち神性と人性が共在している。
p.123
しかしながら、これらの著作には二つの本性が受肉した言の内に存在するという記述は見られない。むしろ偽ディオニュシオスの記述からは、受肉によって人性が神性に吸収されたので、もはや救い主の内に人間の本性があるとは言えないような印象を受ける。典型的なアレクサンドリア派の仕方で、属性の融通(communicatio idiomatum)は極限にまで勧められたのである。「神・人の一つの働き」という単性論の定式が用いられている。…しかし、偽ディオニュシオスのキリスト論が用語的単性論、あるいは真正ではあるが穏健な単性論であったという意味であれば、この非難には根拠があると言わざるを得ない。
…キリストは受肉により、すべての存在と輝きの根拠にしてあらゆる思索の対象であるだけでなく、教会の位階のかしらとしてその直接的な創設者でもある。…しかしながら、位階の秩序のみを通して人類との交わりを持つ神の言が、人々の間で生きたあのイエスと同じであると言えるであろうか。
p.124
ネストリオス主義は二つの本性から出発して、キリストの内に二つの実体(ヒュポスタシス)があると結論づけた。他方エウテュケス主義は受肉した神の言の一つの実体(ヒュポスタシス)から出発して、二つの本性を否定するに至った。
47 「おそらく」と述べたのは、レオンティオスという名は一般的なものであったため、資料に登場するレオンティオスが何人いてどれがビザンティウムのレオンティオスかを明確にすることは不可能だからである。
p.125
二つの用語の真の意味を通してキリストの内での結合の意味が明確化されれば、どちらの異端も論駁することができ、正統主義が輝き渡ることになる。
…本質が種に属するのに対して、実体は固有性を与えるものである。したがって、すべての実体は本質を有し、すべての本質は実在するためには実体を必要とする。しかし、両者には違いがあり、実体は常に本性もしくは本質を持つのに対して、その逆は常に真であるわけではない。
…第一に、単なる並置による結合である。その場合、二つの実体と同時に二つの本性があることになる。これがネストリオスの主張する「道徳的結合」である。第二に、二つの本性が破壊されて第三の本性が出現する仕方での結合である。エウテュケスの主張がこれに当たる。第三の方法は二つの異なる本性が一つの実体の内に結合されることである。炎と燃えているものが結合されても、炎はそれ自体の本性を持ち、燃えているものも別の本性を持つが、その両方が火と呼ばれる一つの実体の内に存在する。同じことが身体と魂の結合にも言える。両者はそれぞれに固有の本性を持つが、結合されているなら人間という一つの実体を持ち、魂の活動も身体の活動も、この一つの実体に帰する。この第三の結合の仕方によって、二つの本性はそれ自体で存在するが、結合しているかぎりは二つの本性は一つの実体の内に存在する。これがキリストにおいて起きた結合であり、その人性は神性の実体の内に存在している。このことは実体(ヒュポスタシス)と「エンヒュポスタトン」を区別することによって、つまり存在するもの自体と、その内に存在するものをと区別することによって、よりよく理解することができるであろう。キリストの内にある実体(ヒュポスタシス)は永遠の神の言であり、その内に、神性と人性二つの本性が存在しているのである。それゆえに、キリストの内には「エンヒュポスタトン的結合」があると言うことができる。
p.126
 結合された二つの本性は、それぞれの固有性を失うことがない。このことを根拠にレオンティオスは、神の本性と結合されたキリストの身体は自らが苦難や腐敗が可能なようにへりくだるのでない限り、苦難も腐敗もあり得ないと主張する非腐敗仮現論(アフタルトドケティズム)に反対した。レオンティオスによれば、この立場は二つの本性の真正な結合を否定しているのであり、二性の混乱もしくは混同にすぎず、結果として、二性が形作る結合とは異なる中間的存在、ラテン神学で言うところのtertium quid(第三の何か)にすぎない。
 他方、この結合はcommunicatio idiomatum(属性の融通)を否定しない。communicatio(融通もしくは交流)は一つの本性の属性が他の本性に適用されるのではなく、二つの本性が共通の実体(ヒュポスタシス)に適用されるということだからである。したがって、神がマリアから生まれたのであり、それゆえにマリアは神の母であると言うことは正しい。レオンティオスのキリスト論には三つの主要な源泉がある。アリストテレスの論理学、早くから教会の伝承に組み込まれてきたプラトン主義の人間学、そしてカッパドキアの神学者らによるウシアとヒュポスタシス区別の明確化である。
p.127
単働論への批判としてマクシモスは、「働き」あるいは行為の原理はヒュポスタシスではなく本性についての言及であると唱えた。このことは三位一体にも言える。なぜなら、三位一体の本質もしくは本性は一つのみだからである。固有性の原理であるヒュポスタシスが本性の行為に形と固有性を与えるのだが、本性が行為の原理を決定するのである。したがって、キリストの内には二つの本性があるということは、そこに二つの行為の原理が存在しなければならず、それゆえに単働論は拒まれねばならない。
 単意論に対してはマクシモスは、本性の意志である「本性的意志」と「理性的意志」を区別することに基づいて反論した。本性的意志は自らの益を目指す傾向であるり、理性的意志は知識と思慮と決断に基づいて形成される。前者はすべての本性に依存するゆえに、キリストの内に人性と神性の二つの意志が認められなければならない。しかし、それはキリストが矛盾する二つの決断を同時にすることができたという意味ではない。なぜなら、本性的意志は常に理性的意志に服従するからである。したがって、二つの本性的意志は決断において決して対立することはなく、ゲッセマネの園でのように、二つの意志の傾向が相反するだけである。キリストは人間の本性的意志を有してはいたが、罪を犯すことはできなかった。その理性的意志が、神の言としての全知の理性に基づいて、常にすべての決定をおこなっていたからである。
p.128
キリストは人間的意志の当然の結果である熱情によって動かされることはなく、より優れた理性的意志がキリストを動かしたのである。
p.129
この地に、かつてのイバスの弟子であった主教バルスマス(バル・サウマ)によって新たな神学院が築かれた。…
こうして教会間の緊張が高まり、最終的にペルシア教会の総主教ババイが二つの教会会議(四九八、四九九年)を招集したことで分離が決定的になった。
p.130
 ナルセスの中心的なキリスト論定式は「二つの本性」(kyane)、「二つのヒュポスタシス(実体)」(knume)、一つの姿もしくは存在(parsufa)である。この定式の鍵は、「ヒュポスタシス」と「パルスファ(parsufa)」をどう理解するかにかかっている。…二つの本性と二つのヒュポスタシスの結合を意味する用語parusufaは、われわれの言う「人格」ではなく、人格的存在もしくは現れを意味する。ナルセスはキリストの人性と神の言の神性を混同しないことに注意を払った。マリアから生まれたのは人間イエスであり、彼が神の言のゆえに聖化されたことは間違いないが、イエスと神の言は、神の言がマリアから生まれた、もしくはマリアを「テオトコス(神を生んだ人)」と言うことが出来るような仕方で結合されたのではない。
p.131
ナルセスは自らの教理の根拠として、繰り返しアンティオキア派の教師たち、タルソスのディオドルス、モプスエスティアのテオドレトス、ネストリオスなどから引用している。
…彼らと同様、ババイによれば神の言は「神殿に宿るように」人の内に住んだ。ババイのキリスト論はおおむねナルセスに従い、結合をparsufaのレベルの事柄とするが、ババイの場合それは単なる姿あるいは現れということではなく、ネストリオスが「統合のプロソーポン」として理解したことと同じ意味においてであった。ネストリオスと同様、ババイはキリストにおける二つの本性の結合ということの意味を、人の内での身体と霊のヒュポスタシス的結合として理解しようとするどのような試みをも否定した。
p.132
他方、彼はタルソスのディオドロスが語ったような「二人の子」という言い方は断固として否定した。しかしながら、「属性の融通」という用語そのものは用いてはいないが、受肉した神の言の二つの本性の間での「名称の交換」ということについて語ってもいるのである。
p.139
この論争の歴史的展開を詳しく述べることはしないが、エリパンドゥスはサベリウス主義を批判する中で、本来必要ではなかったにもかかわらず、キリスト論についての見解を表明したのであった。彼はキリストの神性における場合と人性における場合の、父なる神に対する御子性を区別して、神性においては神の御子であると言うことは適切であり自然のことだが、人性においては「養子とされること」であり恵みによることであると主張した。
p.140
 レエバナのベアトゥスはエリパンドゥスに宛てた手紙の中で、トレド司教エリパンドゥスの主張にはキリストの人格を分割する傾向があるとの懸念を表明している。…肉と血を通してではなく天の父からの啓示によれば、「あなたはキリスト、生ける神の子です」という告白へと導かれるのであり、天の父からではなく肉と血による啓示が、「あなたは人性によれば受け入れられたのであり、神性によれば生ける神の子です」という告白へと導くのである。
p.142
しかしフルダ修道院長ラバヌス・マウルスはこれを認めず、はじめコルビー修道院へ、そして後にオルベ修道院へと移ることを認めただけであった。
p.143
彼はそこでヒンクマール批判を著して過ごし、最後には正気を失うこととなった。
…ゴットシャルクが論敵の誰よりも明確にアウグスティヌスの予定の教理を理解していたことは間違いない。しかし彼は、この教理をあまりに厳格に解釈して議論を展開したため、非人間的な議論に陥った。…人はあまりに堕落しているため、自由意志は善をおこなうことができない。キリストはすべての人のためではなく、選ばれた者たちだけのために死んだ。
p.144
 他方、ラバヌス・マウルスは自らの立場がアウグスティヌスの権威に基づいていると主張しているにもかかわらず、ヒッポ司教の教理について理解してはおらず、理解しようともしていない。ラバヌスは予定を神の予知へと引き下げて、神は救われる者と救いを拒む者とを予め知っているという意味に理解した。…
 ヒンクマールのゴットシャルクに対する攻撃はあまりに過激であったため、彼自身、より穏健な見解を持つ者たちからの批判にさらされることとなった。…
…その中で彼はラバヌスと異なり、予定と予知の区別を明確にした上で、救いの過程において人間の意志が関与することと、すべての人が救われることが神の普遍的意志であることを主張した。…
…ヒンクマールが支援を求めたトロワのプルデンティウスとルプスのセルヴァトゥスは、ヒンクマールの教理を明確に否定して二重予定を支持し、神の救済の意志は選ばれた者に限定されていること、キリストの死はすべての人のためではないことを表明した。
p.145
アウグスティヌスの研究に力を注いできたコルビーの修道士ラトラムヌスも禿頭王シャルルに宛てて『予定について』を書き送り、同様にヒンクマールの説を拒んだ。…
 予期しない事態に直面させられたヒンクマールは、自分を支持してくれる者を他に捜さねばならなくなり、最終的にヨアンネス・スコトゥス・エリウゲナにたどり着いた。
p.146
その一つはエリウゲナが必要もないのに最後の章で触れている地獄についての見解である。ヒンクマールはエリウゲナの助力を求めたことが間違いであったことを悟り、ヒンクマールが「十九章」と呼んだエリウゲナの著作に表明されている教理を受け入れることをしなかった。
p.147
このように、プルデンティウスの立場はゴットシャルクに極めて近い。彼がゴットシャルクの支持を公に表明しなかったのは、おそらく強い力を持つランスの大司教と対立することを避けたためであろう。
…フロルスはこの著作で基本的にはプルデンティウスと同じ立場を取り、罪に定められた人類全体の魂の教理と二重予定の教理を支持した。しかし、彼はそれだけに止まらず、ゴットシャルクに対するヒンクマールの仕打ちについて幾つもの疑問点を取り上げた。
p.151
パスカシウスはまた、聖餐をキリストの犠牲が繰り返されることと理解した。聖餐が祝われる時には、救い主は再び苦難を受けて死ぬのである。
…しかし、ラドベルトゥスの見解はアウグスティヌスの聖霊主義の伝統によって育てられてきた同時代の卓越した神学者たちにとっては、芳しくないものであった。その一人がラトラムヌスである。
p.152
したがって、キリストはサクラメントの内に真実に現存するが、それは肉体的な目で見ることのできない仕方によってである。おそらく、パスカシウス・ラドベルトゥスの著作の中にあった奇跡の物語を読んだシャルル王が知りたかったのは、この点についてであった。
p.153
マタイによる福音書注解を著す中で、聖餐の制定に関してパスカシウスは、聖餐のうちにあるのは「肉ではなく肉の効力であるとか、地ではなく血の効力であるとか、現実ではなく象徴であるとか、体ではなく影である」と主張する者を攻撃した。…
 この議論に、オヴィレールの修道院に蟄居させられていたゴットシャルクが介入した。ゴットシャルクは短い著作の中にアウグスティヌスから多くを引用して、聖餐におけるキリストの体と歴史的なキリストの体とを同一視することに反対し、さらには、パスカシウス・ラドベルトゥスが主張する、聖餐においてキリストが新たに犠牲に捧げられるとの説にも反対を唱えた。
p.154
 ここでさらに、ヒンクマールより先にゴットシャルクを批判したラバヌス・マウルスが論争に介入してきた。ただし今回は、パスカシウス・ラドベルトゥスに反対するゴットシャルクとラトラムヌスの側に立った。…ヨアンネス・スコトゥス・エリウゲナもラトラムヌスとゴットシャルク、そしておそらくラバヌス・マウルスと同様の立場を取った。
p.158
 さらに別の三位一体をめぐる論争が「三つの神性(trina deitas)」という定式に関してゴットシャルクとヒンクマールの間で起きた。この定式は古い讃美歌にあったもので、ヒンクマールがこれをアレイオス主義として削除していた。…それに対してゴットシャルクとラトラムヌスは一連の教父からの引用を示して、削除された句が正統主義であることを証明して応答し、ヒンクマールをサベリウス主義と非難した。神性が三つであることを否定するのは神の位格を混同することになり、典型的なサベリウス主義であるとの理由である。この論争が自身の知的能力を越えていることを悟ったヒンクマールは、二重の攻撃をもって応酬した。
p.159
九世紀前半、敬虔王ルイの時代に、カンディドゥスという人物がどのようにして神を見るのかについて質問を受け、神は身体的な目と不純な魂には見ることができず、純粋な魂だけが神を見ることができると応答した。ほどなくしてゴットシャルクが同じ主題についての別の質問を巡回させたうえで、彼自身の意見を提示して、復活の身体は霊的なものであり、したがってその目は神を見ることが出来ると主張した。セルヴァトゥス・ルプスは神が我々のこの世の生涯の間に開示しようとしない神秘については注意深くあらねばならないとゴットシャルクに助言を与えた上で、神を見る至福は心の目を通して可能であるとした。
p.160
ヒンクマールがゴットシャルクを攻撃する絶好の機会を逃すはずはなく、数度にわたってこの問題を取り上げた。ヨアンネス・スコトゥス・エリウゲナは哲学的な立場に基づいて、肉体的な目であれ心の目であれ、被造物が神の本質を見る可能性を否定することによって、議論を別の段階へと移した。
p.179
十世紀後半には、二十歳にも満たない若者が皇帝の冠と教皇の冠を同時に戴き、教皇職を政治的野心ばかりでなく若気の気まぐれの道具として乱用することまで起きた。
p.193
弁証法に反対する、ペトルス・ダミアーニやブラウワイラーのヴォルフェルムス、ランテンバハのマーネゴルトら厳格な保守主義者たちがベレンガリウスを攻撃する一方で、聖エメラムのオトロはアウグスティヌスの解釈にこだわることによって、ある程度の成功を収めた(41)。

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フランソワ・オゾン監督、神父による児童への性的虐待事件描く最新作7月公開決定
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 神父による児童への性的虐待事件を描き、第69回ベルリン国際映画祭で銀熊賞(審査員グランプリ)を受賞した、フランソワ・オゾン監督最新作『グレース・オブ・ゴッド 告発の時』が7月に公開されることが決定した。

 本作は、フランスで現在も裁判が進行中の「プレナ神父事件」を題材にしたヒューマンドラマ。「プレナ神父事件」は、1人の勇気ある告発者から端を発し、結果的に80人以上もの被害者が名乗りをあげ、プレナ神父が教区を変えながら長年にわたって信者家庭の少年たちに性的暴行を働いていたという驚くべき事実が明らかとなった、フランスのみならずヨーロッパを震撼させた衝撃の事件だ。

 今やフランス映画界のトップに立つオゾン監督がこの事件に挑み、人生を破壊する性的虐待という暴力の恐ろしさと、そこから再生していく人間の力強さ、そしてそれを支える家族の愛を描き出す。ベルリン国際映画祭銀熊賞のほか、第45回セザール賞では助演男優賞を受賞した。

 妻と子供たちと共にリヨンに住むアレクサンドルは、幼少期に自分を性的虐待したプレナ神父が、いまだ子供たちに聖書を教えていることを知り、家族を守るため過去の出来事の告発を決意する。やがて、同じく被害にあった男たちの輪が徐々に広がっていく。

 しかし、教会側はプレナの罪を認めつつも、責任は巧みにかわそうとする。アレクサンドルたちは信仰と告発の狭間で葛藤しながら、沈黙を破った代償として社会や家族とのあつれきとも戦わなければならなかった…。

 映画『グレース・オブ・ゴッド 告発の時』は7月全国公開。


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