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2020年04月25日22:10

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東方キリスト教の歴史 アズィズ・S. アティーヤ 教文館 2014年05月23日

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p.369
ニシビス司教キュプリアヌスは、カリフ・マンスール(Caliph al-Mansur)時代の七五九年に建築した教会に、金五万六千ディナールを費やした。…

 カリフがサーサーン朝の古都セレウキア・クテシフォンを廃し、七六二年から七六六年にかけて新首都をバグダードに建設した時、ネストリオス派総主教ハナンイェシューウ二世(Hananyeshu' II:774-9)は、セレウキア・クテシフォンの旧名称をそのまま総主教座名にしておく方が得策としながら、七七五年バグダードに転居した。…ティモテオス一世(Timothy I:779-823)選挙時、選挙人たちが当選決定後、自由に使えるぎっしり詰まったお金とおぼしき思い大袋を候補者は用意した。
p.370
ティモテオスが当選し、支持者たちがこの大袋を開けると、どの大袋も石で一杯だった。彼は次のように言い返して弁明した。「聖職制は金で購入すべきでない」と。失望した司教たちは激怒し彼の古くからの政敵ジュンディシャプルのエフライム(Ephraem)にすげ替えようとした。しかし時すでに遅く、ティモテオスはすでにカリフの選挙認証書を取得していたので、巧みに敵対勢力を撃退した。…慣習化した司教の結婚を大幅に制限し、「メッサリアネ派」(Msallians)異端とも闘った〔後注参照〕。…『星運の本』と題する天文学上の論文や二〇〇以上にのぼる書簡を残し、カリフ・マフディ(Caliph al-Mahdi)との討論形式の『キリスト教信仰弁証』、多数の説教、またナジアンゾスのグレゴリオス(Gregory Nazienzen)神学の解説書などがある。
…人物の特定は不可能だが、一二世紀には三人の総主教が賄賂相当額の支払いにより司教座についた。イェシュヤブ五世(Yeshuyab V)は、一一四八年に五千ディナールで総主教座を射止めた人物として有名である。
p.372
最後のカリフ・ムスタッシム(Caliph al-Musta'sim:1242-58)はその終わりを予測した時、彼は最小限の降伏条件を探るため、宰相ワジィール・イブン・アルカミ(wazir Ibn al-'Alqami)をネストリオス派総主教マキカ二世(Machicha II)を伴わせて派遣した。…例えば総主教デンハ一世(Denha I:1265-81)時代の不幸な事件に、総主教が一二六八年イスラームに改宗したテクリット出身の老ネストリオス派教徒を密かに連行しチグリス川で溺死させた事件がある。…ネストリオス派総主教ヤハバラーハ三世(Yahballaha III:1281-1371)が二人の配下の司教から誣告され、官憲から逮捕、拷問を受けるという非道な話は、教会全体の嘆かわしい状況を物語っている。
p.374
最後の統治者アブ・ザイド(Abu Zaid:1316-35)の時代、アーミド(ディヤルバクル)で再び騒乱が起きキリスト教徒1万二千人が奴隷となり殺害され司教マール・グレゴリオス(Mar Gregorios)は殴殺され、華麗な「聖母教会」は焼き討ちされた。
p.379
円熟した修道士のフルミズド(Hurmizd)修道院院長ヨアンネス・スラーカ(John Sulaka)に決まったが、この選出は近代史上、ネストリオス派教会最初の深刻な分裂の始まりとなった(2)。
p.381
しかし宗教的観点からするとネストリオス派は伝統的に明白に反カトリック的で、教会にはイコンも十字架磔像もなく、単純で象徴的な十字架があるのみだった。
p.395
ネストリオスは修道院の起源は――一般的にシリア修道院の起源といってよいが――、伝説によれば四世紀の古代紅海の真珠貝漁師マール・アウギン(Mar Augin)に帰されるといわれる。…かれが聖パコミオス(St. Pachomius)の弟子となり、同時代の中頃にペルシャとシリアに共住修道院を持ち込んだことは間違いない。
p.396
その後五世紀末に教会が分派に分裂しネストリオス派はペルシャに集結したが、ベート・ラバト(Beth Lapat)教会会議(四八四年)のバル・サウマー(Bar Sauma)の決断で明確になったように修道生活は衰退し、修道士また修道女すら独身主義を疎じるという実に奇妙で不可解な不一致が生まれた。ある著者はマルガーのトマス(Thomas of Marga)を引用しながら、山岳地帯の村で修道士たちと修道女たちが共に暮らし、子どものいる家庭が出現した様子を記している。
 ペルシャでの真の修道院改革はカシュカルのアブラハム(Abraham of Kashkar:al-Wasit)の手で行われ、彼は修道院運動の歴史に新時代をもたらした。…彼はネストリオス派の変革時代に生き、偉大な総主教マール・アバ(Mar Aba)と同時代の人物だった。彼はマール・アバ同様ニシビス校出身で、有名なネストリオス派神学者ネルセス(Nerses)の甥で自分と同名のアブラハムという教養ある医師の下で学んだ。
p.397
その名はマール・ダディシューウ(Mar Dadishu')で、ほぼ六二〇年頃まですなわちムスリム征服後の二、三〇年間、修道院を治めた。マール・ダディシューウの後は著名な修道士大ババイ(Babai the Great)が継ぎ、六二八年まで治めた。彼には八〇冊にのぼる著書があり、最重要論文は『統合について』(On Union)で、イエス・キリストの神性と人性の関係についてのネストリオス派神学を組織的に論述している。独身主義の慣例は彼の時代以降、厳守された。…ヤコブ派の修道士と区別するため、ネストリオス派の修道士は頭髪を十字架型にした。…ニシビス近郊のイザラ山や、セレウキア近郊のドルケナ(Dorkena)は、幾世紀間もネストリオス派総主教の埋葬地で、修道院の中心地になった。その他の重要施設は、テラ(Tela)、バクサジャ(Baxaja)、ハイグラ(Haigla)、ヘンダ(Henda)、ザルヌカ(Zarnucha)、カムラ(Camula)、アンバル(Anbar)、ベート・ザブダ(Beth Zabda)、チュチュタ(Chuchta)、クファ(Kuph)などにあった。
…最も有名なのがネストリオス派の歴史家マルガーのトマス(Thomas of Marga)だが、彼は八三二年モスール東方の「ベート・アブヘ修道院」(Monastery of Beth 'Abhe)に入門した。後に総主教アブラハム(八三七−五〇年)に師事し、秘書となり、やがて総主教はかれをマルガーの司教に任命し、その後セレウキア・クテシフォン北部のベート・ガルマイ(Beth Garmai)の首都大司教に任命した。
p.398
この『院長の書』は、ネストリオス派修道院制の物語としてエジプト教父の歩みに関するパラディオス(Palladius)の『ラウソスに宛てた修道士の物語』(Lausiac History)に匹敵する著となった。
…一番有名な例はメッサリアネ派(アラビア語のal-Musallin,祈る人々)で、妖怪にとっても民族にとっても長期にわたり紛争の種となった。…彼らは人間には本来、悪霊が存在し、絶え間ない祈禱によってのみ体内から悪霊を追い出すことができると考えた。悪霊が人から出ると代わりに聖霊が宿り、超自然力を伴うことにより至福の想いと罪からの解放が与えられるという。…当初からアンティオキアのフラウィアノス(Flavian of Antioch: ca. 449)は彼らの存在をあばき、西シリアの教会会議では禁止決議をするまでに至った。しかし当方では、六世紀に総主教イシューヤハブ一世(Ishu'yahb I:562-96)が修道院と無関係の修道士を教会は認めないと宣言したにも拘わらず、このスキャンダラスな分派の人々はネストリオス派の中でその後、数世紀間、活動を続けた。
p.399
ネストリオス派は、ローマ・カトリックとは異なり、コプト教会と同様に「聖霊」は「御父」から発出するとの考えで、新たに出てきた「御父」と「御子から」(フィリオクェ/filioque<…と子から>)発出するとの信条を認めなかった。一方ネストリオス派は、「処女マリア」と「十字架」に崇敬の念を抱きながらも、「神の母」という用語の使用に反対し、また教会での十字架の取付けを控えている。
p.400
 第一は「釈義家テオドロス典礼」で、待降節(Advent)から聖土曜日(Holy Saturday)の期間。第二は「ネストリウス典礼」で、公現祭(Epiphany)、ギリシャ教父記念日(Memorial of the Greek Doctors)、ニネベの水曜日(Wednesday of the Nivevites)、洗足木曜日(Maundy Thursday)に使用される。第三の最後の典礼は、「使徒マール・アッダイ」(Mar Addai,聖タダイ)ならびに「マール・マリ(Mar Mari)典礼」だが、これらはこの二人の使徒がエルサレムから持ち帰ったといわれ、エルサレムで「小ヤコブ」(St James the Less)が史上最初の「キリスト教聖務日課(Qurbana)」を執行していたものである。この第三の典礼は復活節からアドヴェントの期間に使用されネストリオス派の典礼の主要部分を担っており、アラム語に由来する古代エデッサ・シリア語が現在そのまま残っている。
p.404
七世紀のアラブのペルシャ侵入の間においても、ネストリオス派のユーセフ・ハッザヤ(Joseph Hazzaya,ペルシャ人の改宗者)なる者の著作はあったが、彼はカリフ・ウマル(Caliph 'Umar:634-44)の家来に捕らえられ、奴隷に売られた人物である。…彼の最大の貢献は、パラディオス(Palladius)の著書『教父たちのパラダイス』(Paradise of the Fathers)の新たなシリア語翻訳だった。
p.405
九世紀にフナインの弟子イシューウ・バル・アリ(Ishu' bar 'Ali)は、多数のアラビア語句注解を掲載したシリア語辞典の基礎を造った。バル・バハルール(Bar Bahloul)――アラビア語でアブル・ハサン・イブン・バハルール(Abul-Hasan ibn al-Bahlul)――は、一〇世紀にバグダードで教鞭をとっていたが、多くの補足を付加し、バル・アリ辞典を継承した。バル・マスワイ(Bar Maswai)――アラビア語名ヤハヤー・イブン・マーサワイハ(Yahya ibn Masawayh,八五七年没)の方が良く知られている――は、彼の医学論文をシリア語とアラビア語で編纂した。文法書はたびたび発行されたが、ニシビスのエリアス・バル・シナイア(Elias bar Shinaia,一〇四九年没)は、シリア語文法書の他にアラビア語とシリア語の語彙から構成される「解説書」(Interpreter's Book)を著わした。中世後期のネストリオス派には、ヤコブ派のディオニュシオス・バル・サリービ(Dionysius bar Salibi)、大ミカエル(Michael the Great)、バル・ヘブラエウス(Bar Hebraeus)のような傑出した大文豪はいなかった。…
…他にイシューウ・バル・ノウン(Ishu' bar Noun,またはヤシュ・イブン・ヌーン[Yashu' ibn Nun])がいるが、彼はカリフ・マアムーン(Caliph al-Ma'mun)の侍医ガブリエル・ボクトイェシューウ(Gabriel Bokhtyeshu')の威光で八二三年、総主教になった。
p.406
後にベート・ガルマイ(Beth Garmai)首都大司教になったマルガーのトマス(Thomas of Marga)は、八四〇年、有名な『院長の書』を著わし、彼の時代までのネストリオス派宗教史ならびに修道院史の主要な資料になった。同世紀の中頃に生きたメルヴのイシューウ・ダド(Ishu'-Dadh of Marw)は、恐らくネストリオス派の聖書注解書の中では最高のものを編纂した。同世紀の終わりに、アル・バスラ(al-Basrah)のイシューウ・デンハ(Ishu' Denha)司教は、数々の論理学に関する論文や、教会史また『純潔の書』(Book of Chastily)を著わした。
 一〇世紀は衰退方向に逆もどりし、アル・アンバール(al-Anbar)の司教エリアス(Elias)、モスールの首都大司教ゲオルギオス(George)、バル・バハロウル(Bar Bahloul)やヨアンネス・バル・ハルドウン(John bar Khaldoun)らによる、禁欲生活、神学、礼拝に関する少数の限られた論文のみが見られる。…アルベラ(Arbela)ならびにモスールの首都大司教アブ・サイード・アブドッイシューウ・バル・バハリズ(Abu Sa'id 'Abd-Ishu' bar Bahriz)は、ネストリオス派教会法に代わる法令集と判決文を編纂した。一二世紀には殆どのネストリオス派はアラビア語で著作したが、シメオン・シャンケラーウィ(Simeon Shankelawi<Shanklava,シャンクラヴァ>)のような例外もあり、彼はシリア語の年代記やネストリオス派教会のヒエラルキアに関するシリア語の論文を残した。
…ヒラートのソロモン(Solomon of Khilat, <Akhlat, アハラート>――アルメニアのヴァン湖沿岸)は、後にアル・バスラの首都大司教になるが、彼は一部分、聖徒伝説を用いながら神学的歴史的資料を駆使し、『蜂』という題の著書を著わした。
p.407
アルベラのゲオルギオス・ワルダ(George Warda)は数種の讃美歌を作詞し、ネストリオス派の儀式に採り入れられた。一三世紀の終わりにはモスールのヨアンネスやガブリエル・カスマ(Gabriel Casma)により、さらに宗教詩が残された。
 同時期に著述分野で唯一、特筆すべき人物はヤハバラーハの下で活躍したアブド・イシューウ・バルベリハ('Abd-Ishu' bar Berikha)である。…四つの範疇に分けられているが、第一は旧約聖書文書と数種の外典、第二は新約聖書の文書、第三はシリア語によるギリシャ教父の文書、第四はシリア教父で、その中に五世紀以降のネストリオス派著述家を含んでいる(二、三の例外を除く)。
p.408
 喪失したアブドゥ・イシューウの著書には、聖書注解『地上における主の生涯』、論文『異端反駁論』、著書『ギリシャ哲学者の神秘論』と『錬金術に関するアレクサンドロス大王からアリストテレスへの書簡』(偽文)、また他分野のアラビア語文書と共にあらゆる学問に関する一二の講話などがある。現存する著作中での『真珠』は、ネストリオス神学に関する彼の最重要論文で、同派の公的見解になっている。さらにネストリオス派の教会法を編纂した『教会法概要』――簡潔に『教会法』(Nomcanon)といわれる――は、まさにバル・ヘブラエウス編纂のヤコブ派教会法に匹敵する。…その後、一三一六年、彼はさらに『教会法判定規則』なる著書を著わした。
…彼の最も重要な詩集は『エデンの園』(Paradise of Eden)で、これはアラビア語の『マカーマート』(Maqamat)すなわちアル・ハリーリほどの卓越した文学作品に到達しなかったが、詩の流れを構成する上で、彼は言葉の意味と文字とを連動させる想像力を大いに発揮して、詩文の正確な解釈を可能にした。…それは総主教ティモテオス二世(Patriarch Timothy II,一三二八年没)の著わした一四世紀の教会法に即した典礼論文『サクラメント』と、作者不明の『ヤハバラーハ三世の歴史』(History of Yahballaha III)である。
p.409
(16) 「メッサリアネ派」(Masalliani, Messaliani)は、時折「エウキタイ派」(Euchites, Euphemites)ともいわれるが、かつてベート・アブヘー(Beth Abhe)修道院を攪乱した。彼らは二人の指導者マルキオン(Marcian)とランペタス(Lampetus)の名をとって、マルキオン派、ランペタス派とも称された。A. Neander, General History of the Christian Religion and Church, English tr. J. Torrey, 9 vols.(London, 1851), III, P.341では、彼らを「最初の托鉢修道士」と呼んでいる。中世後期にはバルカン地方でボゴミル派(Bogomiles)と混合して出現し、アトス山修道士たちの中にも再度現われた。Adeney(pp.490-2)は、彼らのいささか不道徳な行為を非難しながら単純な敬虔主義者としてとらえ、有る観点からすればピュリタン主義と類似し、クエーカー思想の先取りとしてとらえている。

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黒いカネの流れ、中国への接近…異例づくしの教皇フランシスコが挑む改革とは
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11月23日から26日まで第266代ローマ教皇フランシスコが来日。長崎、東京でミサを行うほか、広島平和記念公園や上智大学にも訪問する。

実はこのフランシスコという教皇、バチカンではとにかく異例づくしの人物なのである。

■バチカン史上初。“本流”ではない出自

フランシスコは1938年、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで生まれたが、カトリック教会2000年の歴史において、初めて中南米出身者で法王になった人物である。さらに、ヨーロッパ以外の出身者としては、731年に就任した第90代教皇のグレゴリウス3世(シリア出身)までさかのぼる。日本ならば奈良時代のことだ。

続いて、イエズス会出身者としても初めての教皇だ。イエズス会といえば、室町時代後期に日本にキリスト教を伝来したフランシスコ・ザビエルが創始者の一人として名を連ねている。

さらに、彼が「フランシスコ」という教皇名を採用したことも異例だ。フランシスコという呼称は、フランシスコ修道会の創始者であるアッシジの聖フランチェスコに由来する。つまり、イエズス会出身者であるにもかかわらず、他の修道会の創始者の名前を選んでいるのだ。ちなみに、「フランシスコ」という名前を選んだ理由について彼は、「貧しいものを忘れるな」というクラウディオ・フンメル枢機卿の言葉から、貧者や平和、愛のために生きたアッシジの聖フランチェスコを思い浮かべ、その名を取ったという。

■性的虐待に金融スキャンダル……。カトリック教会が抱える”闇”

このように、異例づくしの教皇フランシスコだが、その目の前に立ちはだかっているのが、山積みになったカトリック教会が抱える諸問題だ。

2015年に公開された映画『スポットライト 世紀のスクープ』では、米ボストンの新聞社がカトリック教会の神父による性的虐待問題をスクープする過程が描かれた。実際に2002年に米ボストン・グローブ紙が聖職者による性的虐待問題をスクープし、その後、世界各地で同じような問題が発生していたことが明らかになった。

また、カトリック教会の総本山であるバチカン市国の金融機関であるバチカン銀行は金銭的なスキャンダルが少なくなく、2012年にはフォーブス誌から「世界で最も透明性の低い銀行」と呼ばれた。

フランシスコは大きな危機感を抱いていたのだろう。教皇就任直後からカトリック教会の問題に対していくつも手をのばし、強硬的な態度で改革を進めている。
しかし、2013年の就任以後、高い評価を得てきたものの、あまりの強硬的な改革路線に進むあまり、支持層と反対派の亀裂を招き、問題拡大の混乱を招いているのも事実だ。

長年、ローマ特派員としてバチカンを取材してきたジャーナリストによる著書『悩めるローマ法王 フランシスコの改革』(秦野るり子著、中央公論新社刊)から、フランシスコの改革の一端を見てみよう。

■バチカン銀行に流れる”黒いカネ”

前述の通り「世界で最も透明性の低い銀行」と呼ばれたバチカン銀行。その問題は何十年も以前から続いてきたものだ。

バチカン銀行は顧客情報の機密保持の強さや利子に税金がかからないという魅力から、脱税やマネーロンダリングで利用されることも多く、その口座を持つ顧客にはマフィアやイタリア秘密結社p2も紛れ込んでいたという。1990年には口座開設の条件が緩められ、さらにこの傾向が強まった。

そんな黒いカネの流れが見え隠れするバチカン銀行にメスを入れようとしたのが、先代教皇のベネディクト16世だった。バチカンの信頼を取り戻すべく銀行改革に乗り出したが、「機密性を保つことが、バチカンが主権国家たる証」と内部からの反発も大きく、中途半端なままで教皇の座を退位した。

その跡を継いだフランシスコも就任間もなく銀行改革に乗り出したが、「(銀行を)閉鎖することもありえる」とまで述べる強硬姿勢は注目すべきポイントだろう。

バチカンと関係の深いイタリアではなく、アメリカのコンサルティング企業との契約を結び、口座の洗い出しと本来は口座保有資格がない口座の閉鎖を進めているほか、透明性のアピールからバランスシートの公表に踏み切った。
その結果、2017年4月にはイタリアがバチカンを金融分野でホワイト・リストに入れており、フランシスコの改革は実を結んでいるようだ。

■バチカンと中国が接近している理由とは?

日本の隣国・中国市場への接近についても触れておこう。

ご存知のように中国は共産党政権であり、カトリックは非合法にあたる。また、バチカンは中国と断交しており、台湾との国交を維持している状態だ。
ただ、世界最大の人口を誇る中国への影響なくして、世界宗教の権威を保つことは難しい。ヨハネ・パウロ2世の時代には中国に対して国交樹立を求めている。

カトリックにとって中国のマーケットの大きさは魅力だ。急激な経済成長に伴い、精神的なよりどころを求める人も増え、宣教の余地は十分にある。
一方で、中国側にもカトリック教会と接近するメリットはある。バチカンとの関係改善は開かれた国をアピールでき、台湾を孤立させることができる。
ただし、中国では国が認めた宗教施設以外での宗教活動は違法であるほか、かつて、ヨハネ・パウロ2世の存在が東欧の社会主義政権のドミノ現象のきっかけになったことから。バチカンへの警戒心も強いという。

世界が中国に対して目を向ける今、カトリック教会も虎視眈々と中国の市場を狙っているのだ。

 ◇

そのほか、性的虐待問題にもメスを入れるなど、『悩めるローマ法王 フランシスコの改革』を読むと、フランシスコは「戦うローマ教皇」と呼んでも過言ではないほどの改革者の姿が浮かんでくる。

それでも向かい風は強い。2000年の歴史を持つカトリック教会の中に存在する腐敗をいかに掘り起し、是正していくのか。それはカトリック教会がこれからどこに向かおうとしているのかを示すものでもある。
フランシスコの手腕に、世界からの注目が集まっている。

(新刊JP編集部)


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