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2015年03月02日16:07

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フォルムの実際 19世紀 モネとサージェント

フォルムの実際 19世紀 モネとサージェント
 サージェントは1856年にイタリアで生まれている。印象派の影響を受けたアカデミック系の画家の1人になる。1866年生まれの黒田清輝がパリに留学していた頃には、サージェントは拠点をイギリスに移しており、すれ違いになっている。両親がアメリカ人でサージェントも後にアメリカ国籍を取得する。イタリアで育ち、後にパリのエコール・デ・ボザールに入学。アカデミックな基礎教育を受ける。モネはエコール・デ・ボザールの入試に落ちているが、印象派でもルノワールやドガは入学している。これは、当時の美術学校が人物画中心だったと言うのもあるだろう。写実派のクールベは、ソルボンヌ大学の法学部に入学する秀才だった。ドガやルノワールがアカデミック教育を受けていたと言うのは、さもありなんと思えるところがあるだろう。ルノワールは、モネ達と印象派の絵画を追求していたのだが、一時期古典絵画研究に没頭するようになる。基本の見直しをやっていたのではないかと思える。ルノワールの古典回帰は、イタリア旅行が切っ掛けだった。多くのヨーロッパの画家がイタリアで直接ルネッサンス期の巨匠達の作品に接してショックを受けてしまう。どうしてヨーロッパの画家達が、ローマショックに陥ってしまうのか不思議に思う日本人もいるだろうが、それだけヨーロッパ文化にとってローマは特別なのだろう。現代の古典絵画再考や19世紀のアカデミック系絵画の再評価もローマショックと共通するものがあるのかも知れない。西洋絵画では、時々起こる現象のようだ。新古典主義は、ローマショックそのものとも言える。油彩画を描いている人で、西洋古典絵画にまったく興味を持てないなら、その人は西洋絵画の遺伝子を持っていないと言う事ではないかと思う。印象派擁護派のゾラが、印象派に対して不満を持つようになるのも、ルーブルに展示されているような、イタリアにあるような過去の名画と比べてのものだった。印象派コレクターが、印象派の絵画をルーブル美術館に収蔵する事を強く望んだのも歴史的価値を重んじる考え方があるからだろう。現代アートの旗手とも言えるデュシャンにも同じ傾向があり、自分の作品が美術館に収蔵される事を望んでいた。 
 サージェントは、カルロス・デュランに師事し、デュランの影響でベラスケスを研究するようになったようだ。デュランも、イタリア、スペインを回って古典絵画を学んでいる。アングルもブグローもローマ賞を受賞し、ローマへの絵画留学を経験していた。エコール・デ・ボザールに入学し、ローマ賞を取ってローマに留学、フランスに帰国した後、サロンに出品、芸術家協会の会員になる、と言うのが当時の画家のキャリアの典型だった。この流れを壊すと言う事が画家としてどんなに困難だったかは、印象派の画家達の苦悩から見て取れる。20代前半、サロンに出品していたサージェントだが、当時の若いサロン系画家が印象派に影響されていくようにサージェントも印象派に興味を持っていく。1882年アメリカ人画商のデュラン・リュエルが印象派展を開催する等、アメリカ人が印象派と深く関わるようになる。サージェントは28歳の頃に、有名なマダムX騒動に巻き込まれる。モデルのマダムの肩ひもがズレていると言う絵画上のちょっとした演出が強調されて非難されたようだ。サージェントの肖像画には、肩ひもを少しずらす絵が他にもあるのだが、このマダムXだけが、非難の的となるのはちょっと意図的な匂いがする。どうも作られた騒動ではないかと思える節があるのだ。サージェント潰しではないかと思える。サージェントがアメリカ人だったと言うのが理由の1つかも知れない。モデルになったマダムもこの作品の受け取りを拒否している。絵画の出来上がりに不満で受け取りを拒否する事は、さほど珍しい事ではない。サージェントの作品の中では、このマダムXの出来は、さほどでもなく、あまりサージェントの良さが出ていない作品でもある。描き込み過ぎと言うのがその理由だ。サージェントは即興描写に優れた画家なのだが、マダムXは、描き込み過ぎて即興描写の切れがあまりない。肩紐のズレがどうのこうの言うよりは、サージェントらしくない絵画になっている。このマダムXの思わぬ不評は、サージェントが新境地を切り開く切っ掛けとなった。マダムXが絶賛されていると、その後のサージェントの絵画も変わっていた可能性がある。結果オーライと言う感じではないだろうか。エリート街道を歩んで来たサージェントの始めての挫折だったのかも知れない。翌年の1885年にモネを尋ねているので、この時を前後して印象派の絵画を取り入れる決心をしたのではないだろうか。基本的にモネは弟子を取らず、若い画家へのアドバイスも簡単な言葉で済ませていたようだ。モネは、サージェントの絵を見て、本当の印象派の絵画とは言えない、と言っている。サージェントも印象派になろうと言うよりは、印象派を学ぶのが目的だったように思える。当時の若手画家の多くがいろんな画家の影響を受けており、ハイブリッドな絵を描いていた。何々派と言うような括りは薄れており、そのために折衷派、なる言葉が誕生したのだろう。新古典派も主流ではなくなり、ロマン派も同じ、だからと言って、誰もが印象派の絵画を描ける訳でもなく、描こうとした訳でもない。印象派だったセザンヌも独自の道を歩み出す。様々な方向性の絵画が生まれて、それぞれの画家が自由に自分の絵画の追求を始めた時代だ。サージェントもアカデミックな絵画に軸足を残しながら、新たな表現手法に挑戦していく。サージェントはパリに馴染めず、イギリスへと渡る。パリのアメリカ人は、やはり異邦人だったのではないだろうか。イギリスで、サージェントは高く評価され、巨匠となっていく。
 画像は、サージェントが描いた印象派風の作品、モネに強く影響されていたのが見て取れる。元々水彩画から始まっているサージェントの画歴だが、後年、また水彩画家として多くの水彩画を描くようになっていく。


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