音羽川をさかのぼっているうちに、法厳寺というお寺に到着しました。・・・と思ったら、お堂まではさらに長い長い階段がッ ここも先の台風の影響か、参道が倒木だらけ・・・。やっとのことで参拝を果たし、お寺の女性に音羽山への道を尋ねると、境
知人が琵琶湖ホールで演奏会をやるということで、「音羽(オトワ)山に登ってから行こ〜」と、また悪い癖が勃発しました。 音羽山は京都市と大津市とを隔てる、この辺ではわりと大きめのお山。春風を古語で「東風(コチ)」といいますが、昔の都人はこの山を"
用事で梅田のスカイビルに行ったついでに、淀川まで足を延ばしました。キタで遊ぶ人って、せいぜい茶屋町かスカイビルどまりで、案外ちかくに淀川があることを知らないのでは 淀川は本来、造幣局から中ノ島にかけて流れている"大川"が本流でしたが、
気になる映画をやっているので、堺に足を運びました。以前、住吉区に住んでいた頃はよく散策していましたが、離れてからはとんと御無沙汰。 堺と言えば、戦国時代(16c)のヨーロッパ貿易と、古墳時代(5c)の壮大な王陵群。両時代とも、海外との交流が活発化
一般に、バスで神護寺にお参りして、そばを流れる清滝川をテクテク下って、渓流散策を楽しみつつ嵐山に向かう―――というのが高雄ハイキングの定番コース。帰りは山越えして、大覚寺のほうに抜けようかと考えていましたが、また倒木だらけの予感がするし
”紅葉狩りin高雄”リベンジ・・・という訳で、今回は無難に京都駅からバスに乗りました。高雄までは1時間もかかり、結構な山奥であることを改めて感じます。「高地なので、もう散っちゃったかなぁ」と危惧していましたが、神護寺はギリギリ見頃
広沢の池は嵯峨野の山ふもとに広がり、京都市内でいちばん大きな溜め池です。造成はかなり古く、まだ平安京ができる以前、朝鮮半島からやって来た人々が、京都盆地をコツコツ開拓していた頃までさかのぼるよう。彼らは秦(ハタ)氏という長者に従って集団移住し
嵯峨野は京都の西のほう、太秦(ウズマサ)から小倉山までの一帯を漠然とあらわした地名です。”野”と付いている通り、昔は都から一歩出るや、広大な原野が広がっていたよう。今はほとんど住宅地と化してしまいましたが、わずかに後宇多天皇陵や大覚寺のあたり
さて、般若寺から「いざ高雄へ」と山道に踏み入ると、いきなり倒木だらけで進行不能に どうやら先の記録的強風でやられちゃったよう。やむなく予定を変更して、以前から気になっていた別の峠道を越えて、嵯峨野に出ることにしました。 テク
紅葉も美しく色づいてきたので、「そろそろ高雄にでも行こうか」と思い立ち、今年は道中の般若(ハンニャ)寺から、山の尾根づたいに歩いて向かうことにしました。 般若寺は平安時代に創建されたようですが、今ひとつ来歴がわかっていません。「近くの仁和寺の
季節は芸術の秋、そして正倉院展の秋・・・という訳で、ふたたび奈良へ―――。 今年の目玉は、宝石が散りばめられた豪華な鏡と、美しい細密画でいろどられた琴。あらためて考えてみると、「日本文化の原点だ!」と思って、みんなが食い入る
時節柄、萩の花を見たくなったので、奈良に行ってきました。 日本の古典は他国と比べると、心情表現が圧倒的にきめ細かいのが魅力です。ただ、画像史料がわずかしか残っておらず、なかなか視覚的なイメージを掴みづらいのが難点。とりわけ、ここ半世紀の乱
如意寺は、”五山の送り火”で有名な大文字山から、滋賀の大津市にかけての尾根に広がる巨大寺院です。・・・と言っても、いつの頃にか衰亡してしまい、今は痕跡のみ。古典にちらほら名前が出てきて気にかかっていたので、現地に行ってみました。 京都側の
延暦寺の開祖・最澄(766-822)が亡くなってから、あと数年で1200年・・・というわけで、宝物館で特別展が行われているので、お山に登ってきました。 過去に何回かお参りしたことはあるのですが、東塔(延暦寺の1エリア)はずいぶん久しぶり。いつものよ
大神神社は、前回の奈良の南方、三輪山のふもとにあります。大神と書いて「オオミワ」。神が連続してややこしい・・・ この神社、山自体を御神体としているので、いわゆる「本殿」がありません。拝礼や祈祷も山に向かって行います。一般的に、神さま
元興寺は興福寺の南方、古風な街並みが人気の”奈良町”の一角にあります。 もともとは飛鳥京(明日香村、6〜7c)にあり、日本仏教の元祖的なお寺でしたが、平城京への遷都とともにこちらに移されました。当時の境内は、興福寺の南面から奈良町をすっぽり覆
なにわ島めぐり 今回の姫島は以前の御幣島のすぐ南。この辺、ほんまに島だらけやな 名前の由来はというと、はるか昔、ヤマト(日本)の皇女さまが朝鮮半島の新羅(シラギ)という国の皇子さまに嫁いでゆきましたが、夫のDVに耐えかね泣く泣く逃げ帰
なにわ島めぐり・・・とは言っても、河尻は地名ではなくて、神崎川の河口(尻)を漠然とあらわす言葉です。つまり、以前の神崎も加島も田蓑島も御幣島も、みんな含まれます。 今では郊外のありふれた町という感じなのに、やたらと古典に見えるのは、
なにわ島めぐり 今回は御幣(ミテ)島です。 場所は、前回の田蓑の島のすぐ東。この辺りは海抜が低いだけあって、島だったとおぼしき地名がたくさんあり、その昔「難波八十(ヤソ)島」(淀川河口のたくさんの島々)と呼ばれたことがうなずけます。 御幣(ミテ)
田蓑(タミノ)の島は、前回の加島のすぐ南。この辺りの古典の故地では、もっとも島の形状を保っています。 中世には「佃(ツクダ)村」と呼ばれ、かの徳川家康が本能寺の変を知って領国に逃げ帰ろうとした時、ここの漁民に船を貸してもらった恩義から、のちに彼ら
加島は前回の神崎のすぐ川向う。ここも遊女の里として有名でした。古典には「蟹(カニ)島」とも見えます。 この辺りに遊女の里が集中しているのは、京に往来する船が夜泊するのにちょうど良い地点だからかも。昔の面影はというと、神崎以上に皆無・・・
神崎は大阪府と兵庫県の境、淀川から分かれた神崎川と、北摂の山から流れくだる猪名川との合流点にあります。 その昔は、遊女のおもてなし目当てに都の貴族がこぞって通い詰めた高級歓楽街。今の北新地や銀座のようなもんですね。 そういう優艶なおもむき
先日の高野山つながりでお参りしてきました。こういうコアな旅行を気軽にできちゃうところが、近畿在住の醍醐味やな〜といつも思う 京の玄関口にあたるので、戦火でたびたび焼失しましたが、その割には古仏がたくさん残っていて感動。なにかと誘