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2018年09月29日19:40

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歌枕紀行「如意寺」

 如意寺は、”五山の送り火”で有名な大文字山から、滋賀の大津市にかけての尾根に広がる巨大寺院です。・・・と言っても、いつの頃にか衰亡してしまい、今は痕跡のみ。古典にちらほら名前が出てきて気にかかっていたので、現地に行ってみました。
 京都側の参詣道は、『平家物語』の”鹿(シシ)ヶ谷の陰謀”で有名な鹿ヶ谷。登り口に霊鑑寺というお寺があるのですが、そこの説明板に「当寺の仏像は如意寺の本尊だった」とあって俄然興奮るんるん 
 そのままひたすら登ってゆくと、やがて清涼な滝の音が聞こえてきます。これが異様に見応えのある滝で、東山にこんな秘境があったのかとビックリしました。ふもとの哲学の道は年がら年じゅう観光客でごった返しているのに、どーしてこれを見に来ないのexclamation & question どーして宣伝しないのexclamation & questionと不思議になるほど・・・。持参した如意寺の古図にもしっかり描かれていて、どうやら寺の西口にあたるようです。
 境内に踏み入ってさらに驚いたのが、建物は残っていないものの、その配置が一見してわかるほど、整地跡や石段が綺麗に残っていること。観光客が皆無なだけに、かえって昔の僧侶たちの読経が聞こえてきそうな異様な迫力があって、ゾクゾクしっぱなしでした。
 
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◎沙門増祐、播磨國賀古郡蜂目郷人也。
(沙門・増祐は、播磨国賀古郡蜂目郷の人である。)

 少日入京、住如意寺、念佛讀經。
(幼い時に京に出てきて出家し、のちに如意寺に住んで、ひたすら念仏と読経に励んだ。)

 天延四年正月、身有小瘡、飮食非例。或人夢
(天延四年正月、体に小さな腫瘍ができて、飲食もまともにできなくなった。その頃、ある僧が夢を見るには)

 寺中井邊有三車。問曰何車乎、車下人答曰爲迎増祐上人也。
(「境内の湧き水のほとりに三つの車が停まっている。「どなたの車ですか」と問うと、車のそばの人が「増祐上人をお迎えに参りました」と答えた」と。)

 重夢、車初在井下、今在房前。
(後日にまた夢を見るには、「車は初め、湧き水のほとりに停まっていたのに、今度は増祐の住房の前に停まっている」と。)

 同月晦日、増祐謂弟子曰、死期已至、可葬具。
(同月晦日(ミソカ)、増祐が弟子に言うには、「わしの死期が近づいているので、葬儀の用意をせよ」と。)

 寺僧聞之、相共會集、論談釋教義理世間無常。
(これを聞いて寺中の僧がみな集ってくると、増祐は仏典の真意や、この世が無常なることを語った。)

 晩頭、被扶弟子僧向葬處。
(日が暮れかかる頃、増祐は弟子たちに支えられながら葬儀場に向かった。)

 先是、去寺五六町許、穿一大穴、上人於穴中念佛即世。
(あらかじめ弟子たちが、寺から五六町ほど(600m前後)離れた所に、大きな穴を掘っておいたのだが、増祐はその穴に入って、念仏を唱えながら亡くなった。)

 此時、寺中廿人許、高聲唱彌陀號。驚而尋見無人焉。
(この時、境内のどこかから二十人ほどが「南無阿弥陀仏」と唱える大声がこだました。みな驚いて探し回ったが、どこにも人の姿はなかった。)


【増祐】出自未詳。沙門は出家した僧。文面からすると、如意寺の指導的地位にあったらしい 
【賀古郡】兵庫県の加古川市・高砂市の辺り。蜂目郷は未詳
【住如意寺】本記の編者・慶滋保胤(ヨシシゲノヤスタネ、?-1002、安倍晴明の師匠の子)も、晩年に隠棲したらしいので、その縁で彼の存在を知ったのかも知れない
【天延四年】976年、円融天皇の治世。如意寺の由来はよく分かっていないが、後世には三井寺(大津市)に属しており、ちょうどこの説話の頃に延暦寺との抗争が激しくなるので、三井寺の勢力拡大のために発展したと思われる
【去寺五六町許】阿弥陀如来の浄土があるという西方を見渡せる場所かも知れない
【唱彌陀號】増祐が極楽往生した証し
         
                           『日本往生極楽記』第二五   
    
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