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2018年11月28日15:02

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歌枕紀行「嵯峨野」3

 嵯峨野は京都の西のほう、太秦(ウズマサ)から小倉山までの一帯を漠然とあらわした地名です。”野”と付いている通り、昔は都から一歩出るや、広大な原野が広がっていたよう。今はほとんど住宅地と化してしまいましたが、わずかに後宇多天皇陵や大覚寺のあたりの田園に、その面影を偲ぶことができます。
 都からほどよい距離にあるため、貴族たちは盛んに別荘を設けました。天龍寺や清凉寺や大覚寺といった嵯峨野の大寺院は、おおむねその名残。なにかと煩わしい人間関係からつかの間解放され、独りの時間を満喫していたのでしょうが、嵐山界隈の大賑わいからは、これまた想像もできませんねぇ・・・冷や汗

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◎寛平の御時、蔵人(クラウド)所の男(ヲノコ)ども「嵯峨野に花見ん」とてまかりたりける時
(宇多天皇の御治世の頃、蔵人所に勤める男たちが「嵯峨野で秋の花を見ようぜ!」と語らって出かけてゆき)

「帰る」とて、みな歌よみけるついでによめる
(しばらく逍遥して「さあ帰ろう」と言って、最後にみなで歌を詠んだ際に、私が詠んだ歌)

     花に飽かで なに帰るらむ

              女郎花(ヲミナエシ) 多かる野辺に 寝なましものを

(まだ花に飽き足りないのに、どうして帰るのだろう。女郎花がたくさん咲いている野辺にこのまま泊っていきたいよぅ〜〜)            


【平定文】872?-923、父は桓武天皇の曾孫。当時の色好みの代表格
【寛平】宇多天皇のこと。867-931、光孝天皇の七男、母は桓武天皇の孫(定文と遠縁)。まったく皇位に縁のなかった父が、時の宮中のいざこざで急遽白羽の矢を立てられて即位し、その後を継ぐことになった。長らくさびれていた和歌の興隆に力を入れ、『古今和歌集』編纂の基礎を作った。寛平は在位中(887-897)の元号
【蔵人所】天皇の雑務をおこなう部署で、だいたい大臣クラスの子息が勤める。定文は宇多天皇の母の縁で選ばれたのかも知れない
【女郎花】女という文字にかけておどけている

                        『古今和歌集』秋歌上238・平定文

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