mixiユーザー(id:8591631)

2018年09月24日16:48

404 view

歌枕紀行「比叡山」

 延暦寺の開祖・最澄(766-822)が亡くなってから、あと数年で1200年exclamation・・・というわけで、宝物館で特別展が行われているので、お山に登ってきました。
 過去に何回かお参りしたことはあるのですが、東塔(延暦寺の1エリア)はずいぶん久しぶり。いつものように西坂本の修学院から、「雲母(キララ)坂」と呼ばれる古来の参詣道を登ってゆき、「先日の高野山に次いで、これで御利益倍増やな〜」と足の運びも軽やかに、いよいよ根本中堂にたどり着くと、数年来の改修で、鉄骨のジャングル状態げっそり お参りするのに工事の足場を伝ったりして、御利益あるんだかないんだかという感じでした・・・。

------------------------

◎なにくれと言ひ歩(アリ)きしほどに、仕(ツカマツ)りし深草の天皇(ミカド)隠れおはしまして
(あっちこっちの女に言い寄ったりしながら、華やかに暮らしていた頃に、お仕えしていた深草の天皇が崩御してしまわれたので)

「変はらむ世を見むも、耐へがたく悲し。「蔵人の頭(トウ)の中将」など言ひて
(「代替わりで一変する宮中を見るのも、耐えがたく悲しい。以前は天皇から「蔵人の頭の中将」などと呼ばれて)

 夜昼慣れ仕りて、名残(ナゴリ)なからむ世に交じらはじ」とて
(夜昼はなれず親しくお仕えしていたのに、その名残もないような宮中には交わりたくない」と将来を悲観して)

 にはかに、家の人にも知らせで比叡に登りて、頭(カシラ)おろし侍(ハベ)りて
(突然、家族にすら知らせずに比叡山に登って、頭髪を剃って出家してしまいましたが)

 思ひ侍りしも、さすがに親などのことは心にや懸かり侍りけむ
(俗世を捨てようと決意しましたものの、さすがに親などのことが心に懸かったのでしょうか、その時に詠みました歌)


    たらちねは 斯(カ)かれとてしも 

                むばたまの 我が黒髪を なでずやありけむ

(父上母上は「大きくなったら出家しなさい」などと願って、幼き日の我が黒髪をなでたわけではなかったろうに・・・)


【遍昭】816-890、俗名は良岑宗貞、桓武天皇の孫。仁明天皇の寵臣
【深草の天皇】仁明天皇、810-850、嵯峨天皇の長子、母は橘氏。遍昭とは従兄弟にあたる。嘉祥三年(850)三月二十一日に崩御し、洛南の深草(伏見区)に葬られたのでこの名がある。かねてから製薬に熱中し、劇薬による中毒死ともいう
【変はらむ世】敬愛する主人を喪った悲しみも勿論あるが、代替わりすると、新天皇の母方一族や、皇太子時代の側近が重用されるので、自分が排斥される可能性も高かった
【蔵人の頭の中将】遍昭の通称。「蔵人の頭」は蔵人所(天皇の側近)の長官で、前年に任命された。「中将」は左近衛府(天皇の親衛隊)の副官だが、実際は4年前に少将となってから昇進していない。この二つは「頭の中将」とも略され、公卿(国政を決定する大官)に至る出世コース
【頭おろし侍りて】『文徳天皇実録』によると、崩御から七日後の三月二十八日に出家
【親】父の良岑安世は20年前に死去。母は一説に、時康親王(830-887、仁明の子)の乳母だったという。これから34年後に皇位継承の混乱で、長年冷や飯を食っていた時康がにわかに注目されて即位すると、母の影響もあってか、遍昭は僧正(仏教界の要職)に抜擢される
【むばたまの】「黒」にかかる枕詞

                                 『遍昭集』11

0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する